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I was only joking

音楽・文学・映画・演劇など。アボカドベイビー。

映画『夜は短し歩けよ乙女』は『ラ・ラ・ランド』の完璧な陰画である

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森見登美彦原作、湯浅政明監督のアニメーション映画『夜は短し歩けよ乙女』を観ました。同じスタッフ陣によるアニメ『四畳半神話体系』は観ていない(正確には3話まで観てそこから先を観ていない)ので今回がはじめての湯浅作品。原作は読んでいるはずだがぼんやりとしか覚えていない。

kurokaminootome.com

 話は自意識だけが発達したうだつの上がらない大学生(「先輩」とだけ呼ばれていて名前は明かされない)が後輩の黒髪の女の子(こちらも「乙女」という呼び名しか与えられない)に恋して、彼女を追いかけるうちにあらゆる災難・騒動に巻き込まれるドタバタな喜劇。ブログのタイトルで示した通り、この映画は『ラ・ラ・ランド』を想起させる要素がいくつもある。かなり突飛な比較に感じるかもしれないが、Filmarksに感想をかいているうちに直接的影響があるとはまず考えられない二つがどうにも結ぶついていると思えて仕方なくなった。だが、最終的にはこの二作は真逆のところへ着地する。

 

ラ・ラ・ランド』が一言でどういう映画だったかというと、あれは「セカイ系ミュージカル映画」だと思う。つまり「ボクとキミ」という関係性がそのまま世界の実存の問題に直結する、無論世界の危機などが描かれるわけではないが、主人公二人の他者との関係や勤務態度を見ていくと、二人の夢と恋が世界の全てであるという世界観ができあがっていることがわかる。『セッション』も同様だが、ディミアン・チャゼル監督は観客に完璧な没入を要求する。宇田丸も指摘するように、彼の映画を愛する為には主人公二人への一体化が必要であり、醒めた視点を持ち込んだ時点で熱は冷めてしまうのだ。

【映画評書き起こし】宇多丸、『ラ・ラ・ランド』を語る!(2017.3.11放送)|TBSラジオAM954+FM90.5~聞けば、見えてくる~

 

夜は短し歩けよ乙女』と『ラ・ラ・ランド』の共通点として、まず色彩と引用の氾濫が挙げられる。ミュージカルシーンの衣装にみられるように『ラ・ラ・ランド』の色使いも多彩だが、『夜は短し〜』の色の多さは凄まじく、とにかく赤、緑、橙、金、紫などなどあらゆる色彩が、それも徹底的な繊細さで鮮やかに組み合わせられていく。夜空の少し緑がかった黒など、絶妙な色指定には目を見張るものがある。

引用に関しては、『ラ・ラ・ランド』が映画なのに対し『夜は短し〜』は文学である。古本市のシーンに顕著なように、谷崎、太宰、三島などの近代日本文学からデュマやオスカーワイルドなどの西洋文学、あるいは萩尾望都大島弓子などの少女マンガから江戸時代の春画、さらには森見登美彦の作品というメタ言及まで、ありとあらゆる文学作品が引用される。

この古本市のくだりに印象的な場面がある。それは「古本市の神様」と自称する小僧(『四畳半〜』の小津の反映)が本のつながりについて力説するところだ。「〜が書いた小説を批判したのが〜で、その〜が死んだときの追悼文を書いたのが〜で」という風にあらゆる作品、作家がなんらかの関連性を持ってひとつの宇宙を形成していくことを小僧は「乙女」に説明するのである。

他にも、「全ては繋がっている」という認識を促す場面が本作にはいくつかある。明確なのは「乙女」が京都一の金貸しである李白が自らの孤独を嘆くときに「あなたはひとりじゃない、全ては繋がっているんです」と慰めるシーンだし、最初の飲み歩きシーンも学園祭での非認可移動演劇もつながりを強調するものだった。この映画は一夜のうちに春〜冬の四季が全てやってくるという構成をもっているが(この四季構成も『ラ・ラ・ランド』と共通する)、実は四季の話それぞれにつながりに関する挿話がまぎれているのだ。

「全ては繋がっている」という言葉は人を励ましもするが、ある種残酷な言葉でもある。それは人の自閉を許さないし、人が意図せずとも誰かを傷つけているという事実を明るみにだすものだからだ。『プラネテス』と『ザ・ワールド・イズ・マイン』という二つの傑出したマンガがそのことを証明している。

haguki-kuzu.hatenablog.com

diskdisk.link

 

『夜は短し〜』はつながりを映していく映画だから、主人公の思い込みは冒頭から相対化される。「先輩」の「乙女」に対する想い、行動はひたすらに滑稽だし、彼の思い込みの強さと現実のあっけなさとの落差は多くの森見小説の動力源となる構造だ。だが、後でみるように、その構造は映画の後半で崩れていくことになる。

ラ・ラ・ランド』とのもうひとつの大きな共通点に平面性と奥行きとの対比がある。『ラ・ラ・ランド』ではジャズバーや車道を真正面から横長に映したショットなど、前半から中盤にかけて奥行きを欠いた平らな場面構成が多用されるが、最後にライアン・ゴズリングエマ・ストーンが出会う場面は奥行きの強い画面で映されることになる。この対比は、夢と現実の対比のアナロジーとして捉えることが可能で、ひたすらにLAの夢の中でまどろんでいた二人が目覚める演出として、平面から奥行き、二次元から三次元への急な転換が起こるように見える。『セッション』で悪夢の再現を行ったディミアン・チャゼルは『ラ・ラ・ランド』では夢からの覚醒を描いてみせた。先程、チャゼル映画の特徴として主役への没入性を挙げたが、『ラ・ラ・ランド』では最後の最後に相対化が為されるのである。

対して、『夜は短し〜』では冒頭の飲み会のシーンから「先輩」と「乙女」の位置関係がかなりの奥行きと距離感をもっているが、後半、学園祭でのミュージカルシーン以降(このミュージカルシーンはあまり評判がよろしくないが、ミュージカルのパブリックイメージを逆手にとった阿呆らしさが観ていてとても楽しかったし、なにがそんなに批判されるのか理解できていない)は平面的な画面構造が多用されるようになり、描かれる世界全体が京都という閉域であることが明らかになり(『ラ・ラ・ランド』のLAとも共通した世界観)、そこから「先輩」の長い夢の中へと物語は落ちていく。その後に現実と思い込みとの緊張が解消されるあるシーンがやってくる。つまり、『夜は短し〜』は現実から夢へと話が進んでいて、夢から現実へと切り替わる『ラ・ラ・ランド』とは全く逆のベクトルを有しているのである。『ラ・ラ・ランド』が「狭い夢に囚われた若者が、広がる現実の豊かさに気づくまでの物語」だとすれば、『夜は短し〜』は「現実の重さに囚われた若者が、軽やかな夢を信じられるようになるまでの物語」なのである。そして、『夜は短し〜』では「全ては繋がってる」という認識を強調することで夢と現実をむすびつけて、夢をうわついた妄想から区別された意志の産物として描くことに成功する。「わたしも風邪を引いたみたいです…」という乙女の言葉がかくも感動的に響くのは、現実を受け入れたが故にひとつの願いが成就するという流れを丁寧に描いた結果であり、それまで執拗に描かれた現実と妄想の重さから解放されるフィーリングが花澤香菜の発する声のいじらしさによって見事に表現されるからなのだ。夢や願いを肯定的に描き出すその強度に、大変感嘆しました。動きの面白さも、前述した色彩の鮮やかさも、キャラクターの個性の力もあるし、非常に贅沢で素晴らしい作品です。おすすめ。

デュレンマット『ギリシア人男性、ギリシア人女性を求む』は今真っ先に読むべき海外文学です

はじめての海外文学、何を読めばいいのかーーこんな風に問われたら今なら僕はこの一冊を勧める。

U209 ギリシア人男性、ギリシア人女性を求む - 白水社

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フリードリッヒ・デュレンマット(1921〜1990)はスイス生まれのドイツ語劇作家・小説家であり、この素っ頓狂なタイトルの小説は1954年に発表された。デュレンマットの作品を読むと、こんなおもしろくてヨーロッパで知名度が高い(らしい)作家が日本で知られていないことがとても不思議に思えてくる。

 

まず言えることは、この作家はスイスと聞いて連想されるような朗らかな自然のイメージ、要するに「アルプスの少女ハイジ」のイメージからかけ離れたスイスの姿を提示するということだ。本作の舞台は雨が降り続ける陰鬱な冬の街である。やりきれない天気が続くなかで、主人公の中年男アルヒロコスが姿を現す。この男はいつもメガネをかけていて、40歳を過ぎても女性経験がなく、道徳意識が強く、尊敬すべき人間に順位をつけている(1位は大統領、2位はキリスト教の司教、3位は彼が勤める機械工場の社長だ)。糞真面目な変人である。彼がよく通うバー(元プロ自転車選手がマスター)のおかみさんは身寄りがいないことを心配して、新聞に結婚相手募集の広告を出すよう説得する。広告の見出しとしてアルヒロコスが提案したのが本作のタイトル、「ギリシア人男性、ギリシア人女性を求む」だ。彼は先祖がギリシア人だったと言い張るのである。

広告を出すや否や、彼に会いたいという女性が現れる。待ち合わせのバーにやってきたのはなんと気品に満ちた美しい貴婦人。彼女と出会った瞬間から男の運勢は急に好転する。デートをすれば尊敬する大統領や司教が彼に挨拶をするし、職場に行けば下っ端社員でしかなかったのに急に昇進の話が持ち上がる。思わぬ幸運の連続に戸惑いを隠せないアルヒロコス。しだいにその幸福が、彼を追いつめていく。

本作にはカフカの諸作を思わせる不条理な展開が待ち受けている。だが、カフカが不条理な不幸(虫に変身したり、覚えのない罪でさばかれたり)を扱ったのに対し、デュレンマットは不条理な幸福を扱っており、その幸福が人の生を困難なものに変えていく様を描いているのだ。

おもしろいのは、何故やってきたのかわからないと思われた幸せに、実は確かな理由があったことが示されているところで、謎が謎のまま残されているわけではないのだ。そして、この理由が主人公を苦しみのどん底へと陥れるが、美女と会った時点で彼の運命は決まっていたことが後になってわかる。

デュレンマットは運命に拘る作家だ。どうあがいても変えられない宿命を自覚したとき、人はどう生きるべきかというテーマが彼のいくつかの作品に共通している。たとえば『デュレンマット戯曲集 第一巻』(https://www.choeisha.com/pub/books/53543.html)に収められた『ロムルス大帝』、は西ローマ帝国最後の皇帝が滅亡を免れない帝国の代表者として自らの定めと向き合う様子を書いた、正に運命についての作品である。こうした作品群を読むと、ぼくは批評家佐々木敦が書いた「マジ」な自己啓発本未知との遭遇』を連想する。

 

未知との遭遇【完全版】 (星海社新書) | 佐々木 敦 |本 | 通販 | Amazon

 

この本は選択肢のあまりの多さと「あの時こうすればよかったのに…」という後悔に苛まれやすいインターネット時代の現代人の特色を素描しながら、古谷実本谷有希子などの作品を援用しつつ、「起きたことはすべていいこと」と考える「最強の運命論」を説いた一冊である。佐々木がデイヴィッド・ルイスや入不二基義の議論を参照しながら「全ては決まっているが、人間は有限な存在であり未来について何も知ることはできない。だからこそ、人は未知に驚くことができる」という内容のことを語る時、彼はデュレンマットについて語っているのではないかと思わず錯覚する。このスイス人作家の著作には運命、あるいはどうしようもない限界を自覚しつつ未知のものに驚くためのヒントが、いくつも眠っているのだ。

 

 

www.kotensinyaku.jp

『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』についての試論(十字、点滅、エルヴィス、歴史)

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今年最大の映画ニュースのひとつがエドワード・ヤン監督『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』の25年ぶり日本劇場公開だろう。台湾映画を代表する1本であり、世界的に評価が非常に高いにも関わらず、日本ではDVD化されず長年観ることが叶わなかった作品だ。

 

www.bitters.co.jp

 

エドワード・ヤンの少年時代に実際に起きた殺人事件を基に、中国本土から国民党と共に台湾にやってきた「外省人」の少年達の葛藤の日々を描いた青春群像劇。この映画はもちろんフィクションだが、1960年の台湾の持つ異様に緊迫した気配をスクリーンに蘇らせ、近現代史の再検討を試みた生々しいドキュメントでもある。

本作の素晴らしさを言葉で説明するのは非常に難しい。あまりに魅力的なポイントが多く、しかもその魅力とはそれぞれの要素が連携することで乱反射されるような、一部分を切り取って語ったらするりと逃げ出してしまうような類いのものだからだ。画面構図、カメラワーク、編集、ストーリーテリング、演技、音響、音楽、実社会との関係性、どれをとっても良いものなのは間違いないが、どれかひとつを抽出して語ることがためらわれる作品なのだ。

 

僕はひとまず映画内で呼応するいくつかのディテールに触れようと思う。全体として圧倒される作品を前にしたときにすぐに出来ることは、細部の検討しかない。といつつも、細部のポイントだけでもあまりに多く存在するので、重要なモチーフを二つ挙げるにとどめる。

まず、「十字・十字路」である。本作には縦の奥行きと横の広がりを同時に映したシーンがいくつか見られる。たとえば主人公二人、シャオスーとシャオミンが軍事演習中の野原を歩くシーン。前方に進んでくる二人を画面左側に映しながら、右側では後方で隊列を組んで軍隊が右から左へ走っていくとき、二つの運動が十字を形作っていることに気づく。学校の外で待ち合わせするシャオスー・シャオミンが冷やかされるシーンでも、前方に広がるのは十字路である。シャオミンの彼氏でシャオスー達グループのリーダー、ハニーが道路の前で敵対者に背中を押されるところでも、車の動きと人間二人の動きが90度に交差している。この映画では、二つの動きが垂直に交わるという事態が決定的ななにかを呼び起こす。あの「事件」の直前に、十字をシンボルとするキリスト教のテーマが急に浮上するのも偶然ではない。

そして、「光りの点滅」。本作の中で非常に闇のシーンが多いということは映画を観た誰もが気づくことだろう。その闇の中で、シャオスーはまるで不安定な自分の居場所を示し、なんとか世界を照らそうとするかのように光りを何度もカチカチさせる。まず、夜の教室の明かりをつけて歩き回る、そこに部屋を出ようとする女学生の横顔が映るという、とても印象的で、後の展開において決定的な意味をもつシーンが序盤にある。直後に、家に帰ったシャオスーは目の異変を感じて、光の感じ方を確かめる為に明かりを付けては消す。そして、学校の隣の映画スタジオから拝借した懐中電灯というアイテム。この懐中電灯が照らしたものは一体いくつあるのだろう。いちゃつくカップル、日記、斬り殺された死体、恋人について語るシャオミン。光りの点滅はストーリーを前に転がすための装置となり、やがて懐中電灯がスタジオに返されるときに、最も深い闇が襲いかかることになるだろう。

この映画は二つの道が、光と闇が、少年と少女が交差することで生まれたドラマであるとひとまず言えるだろう。その交わりの歓喜と受難を、それが呪われたものと知りながら祝福する術を、エドワード・ヤンは体と魂を張って示してくれている。

 

本作の英語での題名にも触れておきたい。英語タイトル『A Brighter Summer Day』はElvis Presley『Are You Lonesome Tonight』の歌詞から引用されているが、実は本来の歌詞は「A Brighter Sunny Day」である。何故歌詞そのままではなく、微妙な改変を施したのか。

 

www.youtube.com

考えられる理由は二つある。

映画中、この曲の歌詞聞き取りをするシーンがあるが、エドワード・ヤンも同じように少年時代に聞き取りをしていたのではないか。そして、聞き取った歌詞が「A Brighter Summer Day」であり、この間違いを面白いと思いそのままタイトルに使ったのではないか。実際、エルヴィスの歌を聴いていると、「Sunny」より「Summer」に近い発音をしているように感じる。

前述の聞き取りシーンでは「Brighterって文法間違いじゃないか?」というセリフが出てくる。当然誤りではなく、歌詞全体を読めば比較級の対象となるのはnowだということがわかるからし、「Brighter sunny day」が「君がいない今より輝いてた晴れた日」という意味だと取れる。この「Brighter」が二つ目の理由につながってくる。

映画内で流れる時間はどのくらいの期間なのか。この疑問に明確に回答できる細部があり、それはシャオスー一家の壁にかけられてるカレンダーである。カレンダーを観ていると、「3月」「6月」と登場ごとに数字をしっかり変えていて、時間の経過を教えてくれる、そしてこの映画のはじまりからおわりは(冒頭のエプローグ的な入学試験の挿話を除いて)「1960年の夏から1961年の夏まで」となる。大事なのは映画内で2度夏が出てくることである。つまり、『A Brighter Summer Day』というタイトルには「1960年の夏より輝いていた1961年の夏」、そして「君の出会った夏以上に君をまぶしく照らそうと思ったあの日」という含意が込められているのだ。まぶしさが「光りの点滅」と繋がっているのは言うまでもないだろう。題名を取って考えてみるだけでも、いくつかの重要な意味が込められている。この映画は観れば観るほど、考えれば考えるほど世界が広がっていくような、途方もない体験なのだ。

 

最後に、ちょっとした飛躍を許してほしい。

僕はこの映画のことを考えているとき、何故か田中宗一郎氏のことを思い出していた。理由ははっきりしていなかったのだけど、以下の記事を読んでなんとなくわかった気がした。

www.cinra.net

『クーリンチェ〜』には、60年代の台湾の少年たちがいかにアメリカ文化に憧れていたかを示すアイテムが多く登場する。エルヴィス、野球バット、バスケットボール、ジョン・ウェインの西部劇。シャオミンの軍隊好きにもアメリカとの関係性を想起させるものがある。このアメリカへの憧憬は、田中氏がSnoozer時代から語っており、Cinraのインタビューでも言及している「少年時代はアメリカ文化一色だった」という発言を思い出すし、あぁタナソーが言っていたのはこういう風景だったのだなとエルヴィスを歌う少年を観て考えたりする。また、本作では登場しないが、エドワード・ヤン鉄腕アトム好きでも知られ、遺作となった『ヤンヤン 夏の想い出』にはアトムのマスコット人形が幾度か出てくる。手塚の短編『アトムの最後』をフェイバリットマンガに挙げる田中宗一郎と通じる部分だ。

なにより、SPOON新作の参照先の多さを基に、「音楽は歴史だ」と語る言葉を読むと、『クーリンチェ〜』には膨大な映画の記憶が重なっており、その歴史の認知具合で観えてくるものが全く違う作品であることに気づかされるのだ。僕は、映画史に関して無知に等しい人間なので、たくさんのものを見落としているだろう。恥ずかしい心情告白をすれば、だからこそもっと映画を観たいし、今回の上映で二度観たこの映画をその後で見返したいと考えているのだ。映画も歴史なのだ。

あまりに当然のことながら、エドワード・ヤン田中宗一郎はジャンルだけでなく性質としてもまったく異なる映画監督と批評家・編集者だが、彼らは同じことを教えてくれている。表現の歴史的多層性がどれだけ重要かということだ。

 

 

Bob DylanとCloud Nothingsについて

2月から3月にかけてほとんど新譜を聴いていなかった。何を聴いていたかというとボブ・ディランを、萩原健太ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』を読みながらディランをひたすら聴いていた。

 

honto.jp

 

この本、デビューから2012年のテンペストに至るまでのほぼ全てのオフィシャルアルバムのレビューという形式を取りながら、ディランの一貫した方向性を示す優れた一冊である。偉いのは、ディランがいかに女癖が悪く、バンドメンバーの扱いがひどく、どれだけ人間として厄介でダメな存在かをちゃんと書いていること。コーラス隊の女性メンバーのほとんどと肉体関係になっていたという時期もあるし、子供は何人いるかよくわからないし、キャリア全体で見渡してみるととんでもないろくでなしなのだ!そこらのエロ親父以下といっていい。だが、そんな変態エゴイスト野郎であるにもかかわらず、音楽は神懸かりにかっこいい。この二面性を描いてこそのディランだろう。そして、ディランの本質が伝統主義者であり、キャリアを通して変わっていないことをこの本は詳細に確かめている。彼の音楽のバックグラウンドはフォーク、ロックンロール、ブルース、カントリー。ここにキリスト三部作時代のゴスペル、21世紀以降のポピュラーソングが入る程度で、つまり音楽的広がりは思春期までに染み込んだものに限定されていて、決して新しい音楽を取り入れるようなことはしないのだ。同じメロディーが歌い継がれていくフォークの継承者であるという意識の上で、新しい言葉、新しい歌唱を追求したのがディランであり、伝統を絶対に崩さずに革新を生むのが彼のスタイルであるということが、『ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』を読むとよくわかるのである。

(ちなみに色々聞き返していちばんグッときたのは68年の『John Wesley Harding』。3人だけのシンプルな演奏とミニマルに盛り上がる展開がまるでポリスみたいでかっこいい)


John Wesley Harding

 

実はディランと平行して聴いていた新譜が一枚だけあり、それはCloud Nothingの『Life Without Sound』だ。

 


Cloud Nothings - "Life Without Sound" [Full LP] (2017)

 

Cloud Nothingsは今のポップミュージックのシーンでは珍しい、とてもシンプルなバンドサウンドを鳴らしている存在である。2009年の活動開始以降常にギター・ベース・ドラムを核に置き、Wipers,Swell Maps,One Last Wish,Pixies,Weezerといったポストハードコア、オルタナティブロックのバンドの影響を感じる楽曲を作り続けている。この4枚目のフルアルバムも基本アプローチは変わらない。ややテンポを落とした曲が増えたものの、半分以上の曲は疾走感を有しているし、ドラムの力強さはより増している。重苦しい曲とメロディが頭に残るポップな曲の共存もほぼ一緒。ただ、歌詞の表現力に変化があったように感じる。以前なら現状の自分と環境への不満をひたすらに叩き付けるような歌詞が目立ったが、今作のリリックはより多義的。「人生が欲しい、今はそれだけが欲しい/僕は生きているけど、ひとりぼっちだ(Modern Act)」「失った僕の一部、勝手に使われてつまらないものになって/だって僕が考えていたのは、傷つくべき人のこと/正しいと感じる、より明るいと感じる(Thing Are Right With You)」といった言葉は、ポジティブな決意を表したものか、ネガティブな失望を描いたのか、どちらかに判断できるものではなく、その両方が混合したような感覚の表現となっている。シンプルな言葉遣いで複雑な人生の機微に触れるようなリリックが増えたのだ。そして、オルタナロックを歌う為に生まれたかのようなざらついた声の持ち主、Dylan Baldiの歌唱は私たちのざらついた日々の真ん中を射抜くかのようである。

 


Cloud Nothings - "Modern Act" (Live at WFUV)

 

思うに、Cloud Nothingのやろうとしていることはボブ・ディランのやってきたこととほとんど同じなのではないだろうか。ディランが4〜50年代の音楽をベースに新しい曲を作り続けたように、Cloud Nothingsは8〜90年代のロックを下敷きに、余計な流行を付け足すことなく音楽を生み続けている。Dirty ProjectorsのDave Longstrengthが中心になって起きた「インディ論争」に置いても、「新しさ」に価値を置くマインドに真っ先に異を呈したのは彼らだった。(以下記事参照)

【徹底討論】インディー・ロックは死んだのか? | Monchicon!

 

Cloud Nothingsが支えとしているハードコアやオルタナティブはここ数年のポップミュージック界では時流に沿わない音楽となっている状態で、おそらく向かい風が吹く場面は多くあっただろう。だからこそ、アメリカのひとつの伝統となりつつあるサウンドを継承し、その灯を絶やさないよう孤軍奮闘を続ける彼らの活動は貴重なのだ。それはボブ・ディランが50年続けてきたこととかなり近い位置にあるのだ。ついでに言うと中心人物の名前もDylanなのだ。

ディランの3枚組の新作は明日発売だし、Cloud Nothingの来日公演は来月に迫っている。以上の観点も含めて、ぼくはとても楽しみにしている。

 

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『わたしは、ダニエル・ブレイク』は今年のベスト映画候補です

danielblake.jp

 

社会問題をテーマに取り込む作品は数多くあれど、ここまで真正面から政治的課題と向き合った映画も珍しいのではないか。ケン・ローチ監督『わたしは、ダニエル・ブレイク』は英国保守党の福祉、医療、教育分野への財政削減政策にストップをかけるという明確な政治的意図を持っている。

テーマ性の強さは映画やその他の表現にとって諸刃の剣となる。テーマを作品の中で活かすことでよりクオリティの高いものをクリエイトすることもできるし、逆に主題の強さに負けて作品の質の悪さが際立ってしまうこともある。人間が背負った重荷を克明に描いて人間存在の本質に迫る作品を作るには、より高度な藝術的技術が要求されるのだ。

『わたしは、ダニエル・ブレイク』のテイストは『戦火のかなた』『自転車泥棒』といったイタリアネオリアリズモ映画、市民が直面している現実をフィクショナルな解決なしに生々しく描いた作品群に近い。特にデ・シーカ『ウンベルト・D』は社会制度の変化によって収入源を失い、次第に追いつめられていく老人が主人公である点が本作と非常によく似ている。現代版『ウンベルト・D』という言い方もあながち間違いではない。

ウンベルト・D - Wikipedia

 

まず讃えられるべきはポール・ラヴァティの脚本だろう。ラヴァティは公共制度から助けをもらえず疲弊していく病持ちの老人ダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)と二児の親であるシングルマザー、ケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)との出会いを用意した。この二人の交流が、イングランドの抱える諸問題を覗き込むためのレンズの役割を果たす。ケイティはアパートの水漏れを管理人に告げたことで無理矢理立ち退きをくらい、仕方なくロンドンからニューキャッスルへ移ってきたという事情をダニエルに話すことで、報復的強制立ち退きの問題を観客は意識することにある。逆に、ダニエルはケイティ親子に心を許す中で妻を介護して死を見届けた過去を語り、介護・孤独死の問題がストーリーに浮上する。他にも売春・子供のいじめ・雇用年金省からの理不尽な制裁措置といったハードな現実が彼らのやりとりの中で立ち現れる。このように、社会問題を複層的に描き出ながら無理なく話を広げて、自然なかたちで結末に向かわせる脚本は実に見事。もちろん、心臓病にもかかわらず受給が受けられないという制度の矛盾とセーフティネットをあえて閉じるような官僚主義の異常さは物語の中心にがっしりと居座っている。

 

また、ロビー・ライアンによるカメラも非常に鋭い。ニューキャッスルの街中や図書館の様子を上空斜めから撮ったショットは、その中を歩くダニエルと一緒に多くの人々を映すなかで、老人の苦境を主観的に感情に寄って描写するのではなく、個人の数だけある現実のなかでダニエルの位置するところをきっちり見据えてその生き様を捉えようという意志の表明となっている。単純に画的にも美しい場面だ。ダニエルとケイティ親子の親密な繋がりも言葉ではなく、それぞれの表情や大工であるダニエルが作った木製の魚といったアイテムによって暗示する。この無駄のなさが素敵だ。ケイティの家のドアを直すときのダニエルの表情の生き生きとした真剣さはいいようもなく魅力的である。

 

本作はアクチュアルなテーマを前面に押し出しながら、撮影や脚本のテクニックを駆使して普遍的な魅力を獲得した傑作だ。映画のラストは決して希望に満ちたものではないしむしろ心痛むものだが、個人として生きることの尊厳を大らかに肯定してみせる映画としての在り方には確かな希望を感じた。また、ダニエルがニット帽をかぶりなおしてある大胆な行動を起こす一連のシーンには、ただでは折れないイギリス労働者階級のしたたかさが漲っている。イギリスの反骨精神とユーモアの伝統を感じさせる点でも非常に優れた作品だろう。必見。

 

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『騎士団長殺し』は物語についての物語である

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村上春樹はほんとに批評しづらい作家だ。ひとつの視点を持ち出して語るにしても、説得力が発生せずに空振りしているような感覚があり、「深読み」の魔の手に囚われるように感じてしまうのだ。自分は穿ったつまらない見方をしているのではないかという思考が頭から離れず、結果的に書くのを諦めてしまう。他の作家・作品のことを書くときにはある程度の飛躍を自分に許すのにも関わらず。村上の作品はあまりに解釈の広がりが確保されすぎててどのような見方にも新鮮味が出ないことが理由のひとつとして考えられるが、おそらく著者本人が批評を回避するような書き方をしているのだろう。作家としての自らを語った『職業としての小説家』の中で、村上は自作が批評的に厳しい評価を受け続けてきたということに言及をしているし、同時に読者との直接的なつながりを強調する表現も見受けられる。村上は批評を経由しない読者それぞれに語りかける言葉を求めていて、結果的に批評の入る隙間がなくなってしまう。筆者は作家の態度を最大限尊重したいと思いつつ、批評行為の魅力を信頼しんている人間として可能限りそれに抗ってみたい。この先の文章も終わりまで勧められるか心もとないのだが、作家の批評不信を拭う言葉をつなぐくらいの気概をもって進めていければと思う。

 

騎士団長殺し』を読みすすめて驚いたこと、それは自身の過去作への反応ともとれるイロニーがあちらこちらに見られることである。まずサブタイトルの『顕れるイデア編』『遷ろうメタファー編』がすでにイロニーであり、タイトル通り何の衒いもなくイデア的存在とメタファー的存在が登場する展開が用意されている。村上作品に特徴的な、象徴性を有する人物・存在と頻繁に使用される比喩の応酬を、そしてそうした特徴に対する今までの読者の皮肉を著者が理解して、若干のメタ視点を導入しながらアイロニックに文章を綴るのが、過去作との大きな差異である。

この自己言及性は本作に棲息している一つのテーマと密接につながっている。それは「物語そのものについての物語」というものだ。多くの村上作品、特に長編の特徴として「主人公が自主的に行動しているのではなく、あらかじめ定められたプログラムに動かされているように思える展開」が挙げられるし、今作では語り手である「私」が「ただプログラムに沿って動いてるだけだ」とこぼしたりするが(ここにも自己言及)、この特徴は読書そのものの比喩として捉えることが可能である。本を読む時、読まれる文字は既に印刷されているし、ストーリーはあらかじめ決められている。ただ、あらかじめ決められた物語が動き出すには読み手の意志が必要になるし、本からどんな意味を見いだすかは個々人の自由だ。『騎士団長殺し』という物語全体が物語を読む行為のメタファーであり、定められたプログラムを作動させるための意志を肯定している。

また、第一部冒頭の「夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた」という描写は、第二部18ページのまりえの母の歌「川の向こう側には広い緑の野原が広がっていて、そちらにはそっくりきれいに日が照っていて、でもこちら側にはずっと長く雨が降っていて・・・」と呼応しており、第二部90ページ「どんなものごとにも明るい側面がある。どんなに暗くて厚い雲も、その裏側は銀色に輝いている」というセリフにも結びつく。このセリフはいかにも紋切り型な人生論であり文章単体での魅力は乏しいが、小説全体の対応関係の中では個人それぞれがポジティブにもネガティブにも捉えることの可能な物語というものの二面性を象徴する言葉として機能していく。あちらこちらで見つかる「半月形」という単語も二面性を想起されるものだ。

他にも、「目に見えるものだけを信じればいい」「目に見えないものと同じくらい、目に見えるものが好きだ」という言葉は「まず、なにより書かれている言葉を読むべきだ」というメッセージに取れるし、度々登場する三点計測のモチーフも「自分と世界の関係を測るための三点目としての物語」についての言及として読める。

 

村上は「物語」という言葉を強調する作家である。たとえばこのようなかたちで。

 

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騎士団長殺し』は村上にとっての「物語」の実践であると同時に「物語とは何か」を語った書であるといえる。故に、本書はこれから物語の深い森へ入らんとする少年少女への冒険の手引きとしての役割を持つし、それはティム・バートン『ミス・ペレグリンと奇妙な子どもたち』で内気な少年を新しい世界へ導いた祖父の果たした役目と同じだ(本書は何故かこの優れたジュブナイル映画を想起させる)。「いまここにある現実とは離れたところにある現実から物事を運んできて、それによって、いまここにある現実を、よりリアルに、より鮮やかに再現する」ことが物語の目的だとする村上の断定を鑑みれば「騎士団長は本当にいたんだよ」という言葉の意味が自ずと見えてくるだろう。誰にでも訪れる通過儀礼を描いたおとぎ話。だが一度読み終わって冒頭に戻れば、イニシエーションは一度きりではないという現実も表現していたことに気づく。口当たりのよい文章の中に、複雑な味わいを隠した充実作だ。

 

ロロ『いつ高シリーズ』まとめ公演はコミュニケーションの在り方を刷新するような大傑作だった

作・演出の三浦直之率いる劇団ロロが不定期に公演している「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」、通称「いつ高」シリーズ。現在その第四弾『いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した』が駒場アゴラ劇場で上演されているが、それに併せて今までのシリーズ全てをまとめ公演している。

 

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「いつ高」シリーズは高校を舞台にした連作劇で、高校演劇のルール(上演は60分以内、舞台セッティングは演者がおこなうなど)に基づいて行われる。登場人物の一部が毎回登場するが、ひとつの劇で全員集合は絶対しないのがシリーズの特徴。筆者は今までvol.2「校舎、ナイトクルージング」vol.3「すれ違う渡り廊下の距離って」を観劇したが、今回改めて通して観ることにした。

 

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率直にいって、大傑作だと思った。

まとめて観劇すると「そこにいない人々をここに再現すること」というテーマが通底していることに気づく。1では模型、2では録音機、3では伝言、4では絵と短歌と、不在の人やものとつながるための装置が必ず用意されているのだ。特に2の引きこもりラジオ女子逆乙女(望月綾乃)が毎夜学校に忍び込み、昼間に隠し録りしたたくさんの声を再生して真夜中に昼休みを再現する試みは、もちろん笑うところだしめちゃくちゃ笑ったんだけど、同時にとても愛おしい気持ちになる。非常に遠回しであるが故に、大事なことを伝えてくれるコミュニケーションがそこには存在する。むしろコミュニケーションというものは本来不在の人とつながるためのツールなのではないかとすら考えてしまう。シリーズのテーマとして掲げられている「まなざし」も触れられないだれかと仮想的に触れ合うための手段として捉えられているのではないか。vol1から4へと一人ずつ演者の数が減っている(6人から3人へ)ことも、そこにいない人々を増やすことで想像する余地を与えるための仕組みに思える。瑠璃色と茉莉と海荷がいちごミルクを飲んでいるあいだに将門は何をしているだろう、太郎が渡り廊下を往復している時にシュウマイはどこにいたのだろう、朝たちが深夜学校で肝試ししているときに白子は眠っているだろうか。見えない彼らのすがたを想像するのがとても楽しい。

 

vol.1とvol.2、vol.3とvol.4が対になっていることにも気づいた。1と2は同じ教室の昼と夜、3と4は同じ校庭の向こう側(渡り廊下)とこちら側(ベンチ)が舞台になっている。1と2のメインテーマ曲はサニーデイ・サービスで3と4はハイロウズだ。この対立項の関係が「いつ高シリーズ」をより立体的な世界へとビルドアップしている。そして、サニーデイハイロウズもいつかは失われゆく、もしくはそもそも存在しなかった青春を歌っている。だからこそ、温かいメロディと跳ねるようなリズムはとてつもなく冷たい寂しさも同時に連れてくるのだが、三浦直之をはじめとするロロのメンバーは今ここに大切な人がいない事実そのものを肯定するような世界を立ち上げることで、寂しさすらも希望に変えていく。端的にいって、僕は勇気をもらった。やはり、いつ高シリーズはコミュニケーションの定義を刷新するような、そんな画期的な演劇だ。

 

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