I was only joking

音楽・文学・映画・演劇など。アボカドベイビー。

twitterが消える前に -2010年代前半のこと-

1.

ツイッターの閲覧制限、新CEOによる広告強化の妨げに=専門家 | ロイター (reuters.com)

   今回の閲覧制限に伴う混乱でツイッターがなくなるかどうかはわからないが、やはりツイッターの記憶はツイッターがあるうちに書いておくべきかと思う。
 2010年代をツイッター抜きで考えるのは完全に無理だ。私たちの世代の人間が紀元前のギリシャや唐時代の中国や19世紀のヨーロッパを研究するのと同じように後世の人が2010年代の精神史を研究するとして、ツイッターアーカイブがぶっ飛んでいたら途方に暮れるだろう。あるいは、SNSに対する過剰な美化や醜化が発生するかもしれない。多くの大きな事件、多くの大きな現象がツイッターと連動して発生していたのはもちろん、個人の言葉遣いも人間関係も精神感覚も、ツイッターのシステムに紐づいているからだ。すでに多くの方が論じている通り、我々の世代はツイッターを享受した経験を後に継ぐ義務を有している。
 私が最初のアカウントを登録したのは2009年12月。途中ログインできなくなってアカウントを変えたりしたものの、2023年7月現在まで使い続けている。つまり、2010年代以降を丸ごとツイッターと過ごしたことになる。もはやツイッターの申し子ではないか。
 しかしながら、ツイッターについて書き残すとしても、資料が膨大にある(それがすべていつ消えるかわからないから問題なのだが)。たとえば、誰がいつどういう内容のツイートをしたのかを記録したりして、資料性のある記事を綴っていくのはかなり骨が折れる。まずは全体図として、私がどのようなものをツイッターから感じ取っていたかの個人的クロニクルをおおまかに記す。そのうえで、細かいことをそのうち書いていけばいいかなと思う。思いつきではじめたのでどこまで続くかわからないが(できればほかの人にも同じことやってほしい、あと公共機関に記録を保存していただきたい)。
 

2.
 2009年12月にツイッターを始めたのは、当時やっていたバンドの宣伝が主な目的だった。ミクシィフェイスブックを始めた理由もそうなのだが、20代までの私はとにかく音楽活動で名が知れて生活もできて自分の作品に満足できる状態を夢見ていて、それの補助になるツールとして、あらゆるSNSを利用していた。ミクシィを2005年から使用していたことを考えると、私のSNS生活はかれこれ20年近くに及ぶ。
 ツイッターも、そうした宣伝活動、あとは実際にあったことのある大学やバンドの友人とわちゃわちゃするために始めた。とはいえ、ツイッターの面白かったところは、早い段階で有名なミュージシャンや作家や芸能人が実名で使っていたことだろう。リプライを飛ばせば、相手には確実に言葉が届いている。時にはそこでコミュニケーションが発生する。今では、そうしたコミュニケーションの安易さに関してネガティブな要素が強調されがちだが、2010年にはやはりその距離の近さが魅力的だった。音楽関係者でいえば、当時は後藤正文氏、七尾旅人氏、曽我部恵一氏あたりが積極的に発言をしていた。今でこそアカウントを残したまま亡くなってしまう著名人も珍しくないが、私が意識した最初の例はレイハラカミ氏だった。2011年の7月27日。フジロックから帰る電車の中、逝去の知らせをみた直後にハラカミさんが数日前までのんきな言葉をツイッターで発していたのを確認して、愕然としたのを覚えている。
 ツイッター開始当初は、バンドのライブと宣伝と、当時勤め始めたばかりの会社の愚痴を言う程度だったが、しだいに、音楽好きっぽい人の間でコミュニティめいた動きがあるのに気付いた。いくらかの人たちがリプライを飛ばしあったりするなかでお互いを認知し、友人のような関係を築いている。音楽に関して楽しそうに言葉を交わしていて、うらやましかった。最近は使わない言葉だが、いわゆる「音楽クラスタ」の一つである。2010年の後半に、半ば無理やり会話に参加しはじめたら、いつの間にか認知されるようになってとても嬉しかった。

 

3.
 2011年3月に大震災が起きて、そこでの情報収集とコミュニケーションにツイッターが役立ったのは確かだろう。毎日なにが起きているかよくわからないし、これからどうなっていくかもよくわからないなかで、会ったことない者同士が言葉を投げるとお互いが無言のうちに確かめ合い、時にはリプライ機能でより直接性の高いやりとりを交わす。それは、少しワクワクするような体験だったと思う。震災の後に、ツイッターで知りあった人の関係は親密になった。
 その証拠というわけでもないが、2011年の4月23日(土)に、私ははじめてツイッターで知り合った人たちと直接会っている。十数名の男女が吉祥寺の飲み屋に集まっており、当時多摩センター駅付近で働いていた私は、少し遅れて会場に到着した。ついたらもうかなりの人が酔っ払っていて、しかも半分くらいは知らない人で、戸惑った記憶がある。今は近いところで仕事をしている照沼健太や八木皓平は、そこではじめて会った。当時、照沼氏と八木氏はツイッター上で論争めいた議論をしており、ちょっとバチバチだった。この前、二人が『鬼滅の刃』に関して仲睦まじくリプライしているのを目撃して、微笑みがこぼれました。というか、2011年の自分にとって照沼くんは「@TeKe1984」および「テケさん」「テケピ」だったし、八木くんは「@lovesydbarrett」および「ラブシドさん」「ラブシドくん」だった。本名を知ったのは随分あとの話だ。

 

(飲んだ後にちゃんと挨拶を交わしているので、めちゃ喧嘩してたわけではなかったらしい)


 音楽の情報の共有感は、当時強烈なものがあった。まだストリーミングサービスがないころだから、新譜情報にはみんな敏感だったし、同じ作品を分け合っている人間の共犯感覚は甘美だった。2010~2011年あたりだと、大勢が聴いていたのはDeerhunterの『Halcyon Digest』やJames Blakeのファーストあたり。日本のミュージシャンだとandymoriogre you assholeが共通に聞かれていたと思う。あとはカニエとか坂本慎太郎とか。Cajun Dance Partyのダニエルとマックスが新しいバンドYuckを組んでそれがめっちゃオルタナっぽいとツイッターでみて、タワーレコードで視聴したらめちゃ好きだったのをよく覚えている。彼らの名前も久しくみてなかったが、2021年に解散していた。

 今も年末に年間ベストアルバムを挙げる人はいるが、2011年から14年あたりの年ベスはそれはそれは楽しかった。一枚一枚購入したものの中でベストを作っているのだから、かけているコストがストリーミングサービス以後と比べてケタ違いなのだ。当時、年間ベストアルバム20とか50とか挙げていた人間は異常な熱量で複製音楽を愛しており、その熱量が集まってムワンムワンの湿度の中でツイッターを見ているのだから、楽しいに決まっている。ArcaやAndy Stottの最初のEPの頃に年間ベストに選んでいる人もいて、その見識の高さにビビった。別に戻りたいとは思わないが、特別な一季節だったのは間違いない。

 

4.
 2011年にツイッター上の知り合いが一気に増えた。この年の5月から8月あたりは私が一番ツイッターを見ていた時期で、1日に数百ツイートをしていた。一体なにをそんなに書くことがあったのだろう。よく覚えていないが、とにかくずっと口を使わずにしゃべりちらしていた。関西や九州や東北や北海道に住んでいる、会ったことのない友人が増えていった。そういう(自分のいる東京から見て)遠くに住む人たちと、ふとしたタイミングで集まるのは最高に楽しかったし、「会ったことないけど友人」という関係も新鮮だった。十代から四十代までの人が一挙に集まって上下関係なく話しているのも面白かった。2011年のフジロックははじめて会う友人が20名近くレッドマーキーに集まっていて、なかなかにすごい光景だった。シャイな人間も多く、集まっているのに無言で向き合ってツイッターを開いている瞬間もあった。当時からの友人は今も時々会って話すし、長く会っていない人ともまたそのうちどこかで会いたいなと思っている。
 そんなノリで、2012年から2013年は過ぎていった。途中でインスタグラムも始まったりして、ツイッターと合わせて楽しんでいた。もう自分もすっかり忘れているが、初期のツイッターは写真や動画を上げられなくて(というかインスタもはじめは動画あげられなかった)、写真はインスタ、言語はツイッターみたいな使い分けをしていた気がする。
 そういえばこの頃、私はリベラルな政治理念の持ち主で、しばき隊のメンバーのツイートを追いながら反原発のデモに参加したりしていた(野間易通と共にしばき隊のスポークスマン的役割を演じていたbcxxxさんは今何をしているんだろう)。今ではかなり不信感を抱いている佐々木中の本も夢中に読んでいた。ツイッターで政治的な話をする人はごく一部で、自分の友人の周りにはほとんどいなかった。あの頃は、いかに面白いことをいうかが肝要で、みんなが平然と下ネタを言いまくっている中で音楽の話をたまにする、くらいのグルーヴがあった。友人の年下の女性が「多目的トイレの「多目的」の意味に思いを馳せたことがある人は、私とおいしい紅茶が飲めます」とツイートしていて、それにいいね(当時は当然「ふぁぼ」)がたくさんついていたりした。私もこのツイート好きだったから、消えたのは少し惜しい。くだらない時間を過ごすのはとても楽しかったけど、真剣な話ができないのが若干不満だった。今のツイッターでは政治問題に誰もが敏感になっていて、むしろ生真面目すぎることに不満があるから、本当に隔世の感がある。

 

5.
 2015年、2016年あたりから、ツイッターでできた友人と会う機会が減ったように思う。単純に時間が経ったからだろう。熱気はそのうち冷めるものだし、長く続けていけば飽きるものだろう。この辺りから、徐々にフェイドアウトする人もいた。私も当時は仕事やプライベートでしんどいことが多い時期で、そうした問題に向き合いつつ、細々とツイッターを続けていた。ずっと落ち込んでいるわけではなかったが、書きたいことも限られていた。むしろ、読書メーターやFilmarksをこの頃にはじめて、本や映画の感想を書く作業がメインになっていた。ツイッターもそうしたサイトのリンクを紐づける形で使用していた。
 2017年の4月に私はゲンロンの批評再生塾に参加する。ここから私の批評業/文筆業のキャリアがスタートするわけだが、あわせてツイッターの使い方も変化する。2017年以降の話もしたいのだが、近い過去に位置するため、そこまで対象化できていない気がする。というか書く気が起きない。そのうち書きたくなったら書く。

 10年以上の時間が経って今どこで何しているかわからない人も増えた。同時に、いまだにツイッターを互いに続けている相互フォロワーもかなりいる。

 北海道に住んでいるたびけんさん(@02tabiken02)は自分と同世代で好きなバンドもかぶっているのだけど、一度もお会いしたことがない。去年の年末、知り合ってから10年以上経ってはじめてスペースで会話して、妙な感慨を覚えた。

 ずっと関西に住んでる一人の女の子(鍵アカなので名前は伏せておきます)は、2011年当時にお互いの日々のつらいことを電話で話し合ったりして友情を深め、その後もどちらかが関東/関西に来るたびにたびたび会っていた。今では結婚して一児の母になっているのもあってしばらく会ってないけど、たまにツイッターやインスタで見かけると安心するし、同じ季節を生きたある種の同志だなと思う。

 全くリプライを飛ばしたこともないし会ったこともないがなんとなくお互いを見ている人もいて、そういう人が今も生きているのを確認すると少し元気になる。さらには、一回もフォローしたこともないのに存在は10年以上知っている人もいる。マジで希薄な関係だが、同じ時間を共有した感覚だけを、こちらは勝手に抱いていたりする。激薄かつ濃密。この、奇妙な共有感覚が、ツイッターにおける何より貴重なものだ。ミクシィにもインスタグラムにもフェイスブックにもこのフィーリングはなかった。ツイッターにしか存在しない奇妙な関係に惹かれているから、私はツイッターをやめようとは一切思わない。

 

 最後に、私が好きなクラシックツイートを何個か引用して終わります。もう消えてしまったものも多いなー。全然思い出せないのでたまに掘り出して見つけたら増やします。

 

 

 

 

 

1月23日

映画や本の感想なら一回観るか読むかすれば書けるけど、音楽は何度も聴いて浮かぶものが多いので難しいのかもしれない。

 

 

 

ロザリアのファッションが目に付く。素肌にブラ、クリスチャンディオールの変形タートルネック(セーターが上の方で切れてマフラーみたいになってるやつ、あれなんて言えばいいの?)。いいじゃん。ビリーは髪の黄緑以外はよく見えない。黒かな?

ビリー・アイリッシュは声がいい、それをめちゃ上手くコントロールしている、という点がこの曲(あとMステにリモート出演した時のパフォーマンス)で如実になっている。

 

網守将平の新しいアルバムが気持ちいい。昨日はこれをききながら眠った。

 

 

 

「Insulok」はタブラ(かな?)の音と不穏なコード感が重なって、全体の雰囲気はトロピカル。でもなんでこの組み合わせでトロピカルに聞こえるんだ?

 

 

 

宇多田の海外盤、ちゃんと聞いてなかったのだけど、思った以上に好きだった。『1998年の宇多田ヒカル』では「宇多田の魅力である密室性が活きてない(コーラスを他人に任せてるから)」という書き方だったと思うけど、太いボトムと細いシーケンス(三味線)の組み合わせとかとても好き(ティンバーランドの作家性?)だし、英語でもリリシズムは活きている。アメリカで大した成功を収めなかったのは、むしろ日本語のリリシズムをちゃんと翻訳できているからではないかという考えが浮かぶ。本人にとっては「翻訳」ではないかもしれないけれど。

 

今日は雨らしい。出かけるつもりだったが・・・

1月17日

Shameの新しいアルバム『Drunk Tank Pink』が出たのでちょっと聴いた。

前作よりポストパンク味が増していて、Fontaine D.CやBlack Country,New Roadとの共振あるのかしら。

この8ビートを15刻みで進んでく曲とか好き。

リリックはI won't get up!I can't get up!(起きないぞ!)と繰り返すビートルズ「I'm only sleeping」みたいなテーマを扱っている。でもビートに眠い感じは全然ない。

 

昨日はイメージフォーラムでセルゲイ・ロズニツァの映画二本(『国葬』『アウステルリッツ』)を観て、合間に「絵画の見かた Reprise」を観た。絵画における「曖昧さを残すこと」の良さみたいなのを感じていた。厳しく作っていく曖昧さ、を全体的に感じる展示だった。

ロズニツァ特集のパンフレットは1400円と少しお高めだけど、『国葬』にでてくる人物たちが紹介されていたり、ロシア研究者二人の対談があったり、批評(四方田犬彦佐々木敦など)も乗っていたりと、なかなかに充実した内容。横長の形、デザインも良い。

 

今日は一年半ぶりに三鷹の天命反転住宅に行った。新鮮さよりなごみを感じたことに驚いた。

 

Merzbowを聞き返している。それぞれのアルバムを別の言葉で表現できるか。ちゃんと聞かないと全部同じに聞こえるところを。

 

 

 

 

この2枚の差異とか、言語化できるか。

Noise Massは「かき回す」感じ、Atsusakuは「引っ掻く」感じがある。

 

宇多田ヒカルも聞き返してる。

First Loveの曲を今きくと、思った以上にメロディと節回しが歌謡曲っぽい(でもJ-POPっぽくない)と感じる。「Automatic」の「でも言葉を失った瞬間」の「でも〜」の低音がブルージーブルーノートになっているのだろうか。あと声がちょっと小さめに録音されている。「Movin' on without you」のヴァースのところとかビートに対してかなり小さく感じる。

1月11日

三日くらいiPhone(特にツイッター)を観ている時間が長いことに後悔の念が湧いてきたので、今日は銀のちっちゃい箱を置いて朝(9時30分頃)から外へ。

結果やったこと:

ドトールモーニングセットを食べながらずっと書いてた原稿を書き上げた

・お昼に野菜つけ麺を食べた

・星乃珈琲店に入り別の原稿を書き始めた(1時間ほど)

・映画を観た(早稲田松竹で『KIDS』。90年代のカルチャーを調べているところ、やはり観るべき映画だった。当時の空気感、男子と女子が軽蔑し合いながらパーティーでセックスしあい、ヘロヘロのインディとビースティーボーイズが流れる)

・本を読んだ

・夜ご飯をおかずなどをスーパーで買った

・シャツをクリーニングに出した

・BIG LOVE Radioの2020年ベストアルバム30をイヤフォンで聴きながら溜まってたゴミを捨てた

・LOCUST vol.4の発送を一冊した

 

大正解。1日でここまでの仕事ができたので満たされてる。今19時過ぎだけど、ここからもう少し原稿書くか、映画見るか、部屋の片付けするか、作曲・録音するか、本を読むか。迷うなぁ。

 

昨日の夜と今日の朝にLOVEのファーストのレコードを聴いた。サイケデリックロックの定義を確認したくて。

名盤と言われることの多い『Forever Changes』と比べると演奏も音も粗い。ていうか下手だな笑 でも前聴いたときよりもいいと思ったな。かわいいと思った。多分耳元で聴いてたら好きにならないやつ。音楽には耳元で聴くにふさわしいものと、少し離れた方がいいものがある。

 

あとArcaの『Kick i』も久しぶりに最初から最後まで聴いた。俗っぽいエッチなカッコ良さをイメージしてたけど、聞き返すと「聖」っぽい曲もある。踊りながら聴いてたら楽しかった。一曲だけ参加kしてるビョークの声、少し落ち着いて聞こえるな。年齢故の成熟か。こちらは耳元でも離れてもいいやつ。

 

ラップカルチャーにちゃんと入り込めそうな予感がしてるので、新しいラップもちょっと前のやつも色々聴いている。さっきKid Cudiの新譜『Man On The Moon 3:The Chosen』を少し聴いた。池城美菜子さんがお勧めしてた。前半数曲だけど、かなり内省的な、重たい感じ。「自分の中の戦争を始める」みたいなリリック。

2009年のこの曲はかなり好き。スムースでジェントルなスタイル。リリックは「Nowhere Man」みたいな感じ。昼も夜もロンリーな男の歌。ラッパーの「俺はイケてるぜ」アティチュードから早めに抜けたのがこの人っぽいな。オハイオ州出身ということはNationalやSun Kil Moonと同郷。細かくいうとクリーブランド出身。「クリーブランドで取れた牡蠣」。

 

 

こちらはV系。DIMLIMのライブ配信。友人におすすめされたので。

前半がめっちゃポストロック、というか残響レコードっぽくて、歌い方だけV。後半はヘヴィロック、Bring Me The Horizonとかを思い出す感じ。

化粧っけもないので、そう言われないとVだとは思わないくらいだ。

 

1月6日

最近は仕事している以外は原稿書いてる気がする。

 

ここ数日で聴いた曲。スピッツはたくさん聴いている。スピッツは別のところで書くことになると思う。「あじさい通り」の歌詞を意識して聴いたら切実さが伝わってきて良かった。

朝になんとなく「恋しさとせつなさと心強さと」を聴く。「恋しさ」で「いとしさ」と読ませていたんだ。サビとメロの落差に灰汁が強い。詞がやっぱり安っぽいなと思ったけど、その印象はどこから来るんだろう。

はっぴいえんどの通称「ゆでめん」を帰りの電車で久々に聴いた。覚えてた以上にロックだった。テンポの速いザ・バンドみたいな曲もあった。「春よ来い」の詞が良いとか悪いとかではんくエモい。

KID FRESINOの新しいアルバム『20,Stop it.』をちょっとずつ聴いている。ポストロックっぽいアレンジが随所に感じられて意外に思う。toeも参加しているし、ゼロ年代のインストのポストロックの気配が戻ってきている?これも「エモラップ」か?いや、それはないか?

カネコアヤノ参加曲がまじでカネコアヤノの曲でビビる。長谷川白紙参加曲は2度→3度→4度→5度と順次上昇して戻るコード進行に四分で連打されるピアノと白紙くんの声が浄化されるような感覚を生み出してる。LCD SoundsystemのAll My Friendsを連想する。

1月2日〜3日

1月2日

ちょっと前に大滝詠一『A LONG VACAITION』のレコードをココ池で購入してそのままにしてたので朝起きて聴いた。

実は最初から最後まで聴いたことなかったかも。

律動操作が良い。聴いていると、楽器音と声の滑らかさと同時に、リズムの(かなり良い意味での)ぎこちなさが感じられる。拍子を見失うような瞬間も何度かあった。おそらく、これは通常のポップソングでは4分か8分で拍を刻むこの多い(故に律動の印となる)ハイハットの音量が小さいことにまず起因する。さらに、キック・タム・スネアの音がそれぞれ似通っていて差別化ができない、しかもキックが16分の裏から入る曲(4曲目、pap-pi-doo-bi-doo-ba物語)があったりする。コードチェンジも裏拍で行われたりする。これでかなりの混乱が発生する。有名な「君は天然色」も、三連符が16分音符と8分音符で重なっていて、それがズレを生み出していてスリリング。

 

3曲目の「カナリア諸島にて」のコードとメロディを分析してみたら、裏コードの使用があったり、続け様の転調があったりとひねりをきかせてる。その中で、ボーカルメロディはルートに対して3度、コードに対して7度の感情的かつ緊張感のある音を強調したり、サビの「カーナーリアンッアーイランッ」のメロディの繰り返しにコードが変化していたりと、メロディを印象づける工夫がある。キャッチーさと噛み応えのバランスが秀逸。

 

音色(曲も)はビーチボーイズフィル・スペクターを意識していると思うのだけど、考えたらエンヤもジーザス・アンド・メリーチェインも彼らを意識した音作りをしている。日本ではAOR/シティポップに、アイルランドではニューエイジに、スコットランドではノイズ・ポップにそれぞれ翻案されている。ビーチボーイズフィル・スペクターの影響力すごい。殺人者だったり、マンソンファミリーとつながってたりするけど・・・。

 

それにしても、曲調の爽やかさに対して、松本隆の詞がとにかく陰鬱なことに驚いた。ほとんどが別れ、孤独、あるいはフラれることをモチーフにしている。恋愛のうまくいく詞も一つだけあるけれど、あれは妄想の歌だろう。バケーションなのに、後悔に苛まれてる。これはかなり変だ。

ただ、どこか詞はうまく機能していないようにも思える。誰かに届けてるというより、独り相撲をしている。その空回りが意識されていない歌詞のように感じられる。あまり上手くない。ボーカルメロディの反復も字余りで崩しているし。

 

松本隆の詞が改めて気になって、いくつかの曲を聴いてみた。

小泉今日子「魔女」薬師丸ひろ子探偵物語」安田成美「風の谷のナウシカイモ欽トリオハイスクールララバイ近藤真彦ハイティーン・ブギ(のPUFFYのカバー)」など。いいのもあれば良くないのもあるなという普通の感想。キョンキョンと薬師丸はいい印象だけど、彼女たちの声が良いからかもしれない。「魔女」は中島みゆき「悪女」に世界観が似ている?

 

実家に帰って、なぜかマリオワールド版モノポリーを家族でプレイ。モノポリーは資本主義ゲーム(の中の不動産ビジネス)のアナロジーとして秀逸だと以前から思っていたけど、資本主義をやめられない理由がなんかわかった。楽しいからだ。運と努力で「所有」を達成し、それによって相手から金を得る。中毒になるし、しかも貧乏から身を救ってくれる。そりゃ誰もやめれるはずがない。資本主義を終わらす、あるいは方向を変えるには、その悪を糾弾するのではなく、別の面白いゲームを開発して広める方が良いのではないか。

 

1月3日

朝にラップソングを何曲か聴く。

Jack Harlow/Way Out(feat Big Sean)

スパニッシュギターっぽい哀愁のリフレインが印象に残る。2周目のBig Seanのラップのリズム解釈が気持ちいい。三連と十六分の混ざり方とか。

調べてみたら、Jack Harlowは白人ラッパーなのか。ケンタッキー州ルイヴィル出身というのも珍しいのではないか。My Morning Jacketと同郷ですね。

CJ/Whoopty

女性ボイスのサンプリングがいい。こちらもマイナー調。なんとなく『ブルータル・ジャスティス』を想起させるものがある。トラップの中ではベースの音階がはっきりしている。

昨年の7月30日に出て、ビルボードチャットの51位まで上がった曲。

 

村上隆の下の動画が結構面白くて、STARS展に滑り込みで行ってきた。

 

www.youtube.com

 

6人の作家の展示だけではなく、今まで書かれてきた批評、今まで海外で行われた日本をテーマにした展示の紹介も行われており、なかなかに興味深い。

村上はやはりコンセプトへの意識が強く、批評を「書かせてる」感じがある。

村上の新作、福島原発へ行く新作動画(映像、歌、語りで構成されてる作品)はなかなか良い。アイロニーとエモーショナルが同時に発生していて、強度がある。

奈良美智の部屋に入るとき、男の子が「この部屋は面白い」と言ってて、子供に通じる力はすごいなと思う。

 

MOMコレクションとして展示されていた二つの作品、サムソン・ヤン『音を消したチャイコフスキー交響曲第5番』とシオン『審判の日』が良かった。

前者は演奏者全員が音をミュートしたままシンフォニーを奏でる映像作品で、動作に対する音の少なさが笑いを誘う。弦の軋みや人の息の音だけが聞こえていて、それがまるで波の音のようにも聞こえるところがいい。撮り方・編集も上手い。ジョン・ケージに代表される音と沈黙の間の文脈、意図から外れた音のノイズ/アンビエント性、音楽に対する視覚性の重要性、などあらゆるテーマと結びつけて考えられる。ラグナル・キャルタンソンの作品とも近いものを感じた。

後者はポルタンスキーの展示にも似た、古着と人形を使ったインスタレーション。イエスの死を扱ったキリスト教の主題に沿っている。これはポーランドキリスト教文化、古着に現れる資本主義のアウラなどを組み合わせてコンセプト化している。ポルタンスキーの作品は死の個別性を排除して一般的な「死」に還元しているという批判があり、ぼくもそれには同意するのだが、シオン(韓国の作家ということだ)の作品には文脈と血が通っている。だから良いと思える。ちょっとエヴァっぽくもあった。あと津波の表象もあり、日本で展示する必然を感じさせる。

サムソン・ヤン『音を消したチャイコフスキー交響曲第5番

新文芸坐で『椿三十郎』(黒澤の中ではベストに面白かった)を観た後に、egg東京のスクランブルエッグとハッシュドポテトを食べる。ハッシュドポテトがめちゃ上手い。濃いめのコーヒーとよく合う。男性の店員さんがなかなかに親切だった。