I was only joking

音楽・文学・映画・演劇など。アボカドベイビー。

2018年ベストカルチャー20

去年書けなかったので2年ぶりにやります。今年の音楽・映画・演劇・本などからのベストカルチャー20。本、特に小説は全然読めなかったのが反省点。本(LOCUST)を作ったのが評価点。

 

20.Tim Hecker(10月2日 渋谷WWW)

アンビエントノイズ王の雅楽奏者を率いたライブ。ほぼ真っ暗な部屋で行われた、厳粛で快楽な喪の儀式。

椅子があるのマジでありがたかった。ワイワイ動いたり踊ったりしないタイプのライブの時は椅子があった方が確実にいいです。ロックとジャンル付けされてるやつでも、グリズリーベアーとかは座ってみたい。

 

19.山本直樹/レッド

10年以上続いた連載が完結。6〜7月頃に一気に読みました。連合赤軍に参加した若者のあさま山荘事件に至る経緯を描いた漫画ですが、山岳ベース事件のところはとにかくしんどくてしんどくて。書く方はもっとしんどかったんじゃないだろうか。

 

18.Low/Double Negative

キャリア20年以上のベテランバンドの新しさ。Red House Paintersと並ぶフォーキースローコアバンドの雄として有名ですが、今作は完璧にインダストリアルなノイズから始まって驚くし、アンビエントR&B感がボーカルやギターの音から漂っているところにもビビる。ひたすらに内省的な夜のアルバムとして。

 

17.花咲くころ

ジョージア映画。もともと2013年公開だけど、日本公開は今年。少女二人の世界が雨上がりの光のように描かれているわけだが、二人がパンの列に割り込んだり家族に対してアホっぽくキレたりしてて、割と下劣な部分も見えてくるところがいい。民族舞踊を踊るシーンで足を一切映さないところに感動した。

 

16.千葉雅也/意味がない無意味

全ての謎が引き寄せられていく穴、意味から逃れられない場所としての「意味がある無意味」と対比して、終わらない思考を停止させて行為に向かうことを可能にする「意味がない無意味」(=身体=物質=儀式)を称揚する論集。思弁的実在論をはじめ、2000年以降のフランス現代思想の紹介としても素晴らしい仕事。

 

15.ワワフラミンゴ/ハートのふゆ合戦

「意味がない無意味」日本演劇代表。大好き。

 

14.ライオンは今夜死ぬ

諏訪敦彦監督のジャン=ピエール・レオを主演に迎えた最新作。異様な光の強さや子供と老人と死者というカップリングのわかりやすさは好き嫌いが分かれるところだけど、人が死ぬことを無理なくポジティブに捉えた映画として僕は心を動かされた。

 

13.ハイバイ/ヒッキー・ソトニデテミターノ

劇団ハイバイの代表作の再演。引きこもりの問題を両義的に引き裂いたまま舞台の時間を最後まで作っていて、本当に強い作品だと思いました。古舘寛治の好演が忘れがたい。ハイバイだと、8月に観た「て」の再演も素晴らしかった。

 

12.15時17分、パリ行き

クリント・イーストウッド最新作。こんな変な映画なかなかない。なんだあの観光シーンは。自分がまだまだ映画のことちっともわかってないって思いました。

 

11.Rafiq Bahtia/Breaking English

インダストリアルノイズと現代ジャズの交点ってなかなかないし、それをめっちゃ巧みにやってのけていて超新鮮でした。

 

10.心と体と

イルディコー・エニェディ監督によるハンガリー映画。映画だけだとこれがベスト。村上春樹の恋愛小説みたいな話で、可愛くなかった女の子が最終的にすんごく可愛く感じられる。キャメラの位置がめっちゃ冴えている。

 

9.阿部共実/月曜日の友達

マンガはほとんど読んでないけど、今年一番泣かされたのはこれ。ボロボロ泣いた。

 

8.SCOOL一周年イベント(初日、山縣太一・ワワフラミンゴ・ZVIZMO×テンテンコ・山崎広太)

ダンス、演劇、ノイズミュージックのバランス良い配置と各パフォーマーが実力を遺憾なく発揮したことで名イベントに。

 

7.Kendric Lamar(7月27日 フジロックフェスティバル

圧巻。超主役。いままで見たフジのグリーントリでベスト。カンフーパロディの下品な映像も良かった。

 

6.Roth Bart Baron/Hex & 12月9日 渋谷WWW

今年はクラウドファンディングにも参加したし、ロットにはとてもお世話になった。アルバムのアグレッシブさとライブの繊細さでダブルポイント。「君さえいなければ、こんな気持ちにはならずに済んだ」。

 

5.R +R=NOW(9月1日 東京JAZZ FESTIVAL)

グラスパーやチャンスコなど、ジャズ最前線メンバーのオールスターバンドの来日公演。反復しているようで少しずつ変化していく音が超気持ちよかった。歴史的名演だと思うので音源化してほしい。それをずっと聴いていたい。

 

4.KERA MAP/修道女たち

ガルシア=マルケスチェーホフの良いところをブレンドさせたような超強力な物語で三時間の長丁場が全く飽きなかった。迫害された修道女たちの苦闘が実に切実

に笑える。最終的な悲劇の感覚も新鮮。プロジェクション・マッピングなどの映像演出も全て効果的に作品とつながっていて、本当に人間が面白いと感じるものを作ろうとする気概に胸を打たれました。

 

3.庭劇団ペニノ/蛸入道 忘却ノ儀

単なるスタジオが蛸の神様を祀る寺社に!お経が読まれ、火は焚かれ、会場は異様な熱気に包まれる。ペニノの舞台装置には毎回驚かされるけど、今回は特に驚いた。宗教の危うさと魅力を危ういまま直接的に伝える。今年一番の異物的体験。

 

2.Jim O'rouke/Sleep Like It's Winter

45分一曲、ジム・オルークまさかのアンビエントニューエイジアンビエントの壮大なトビとは無縁の、単純な音の響きの鋭さだけでトバされる体験。ずっと穏やかだと思ったら大間違い。聴いていると頭がおかしくなるんじゃないかという瞬間がなんども訪れる。危険な音楽。

 

1.NEW TOWN(1日目)

これはフェス全部の総合点なのである意味反則なんですけど、最高だったのでしょうがない。CINRA主催の学校の敷地を利用したほぼフリーのフェス。音楽、美術、映画、演劇、、ゲーム、食、盆踊りetcがシームレスに混じり合うんだけど、ニュータウンや団地というテーマで全体が緩くつながっていて、ある種の喪失感を受け入れるための準備の空間になっていたと思う。喪失を別の何かに変換する、といったほうが適切か。だからか、なんだか勇気を受け取った試みだった。

私が観たのはROTH BART BARON、折坂悠太、Homecomingsのライブ、田中宗一郎×宇野維正×柴那典のトーク、中島晴矢主催の美術展「Survibia!」、劇団子供鋸人「New Town」あたり。そのどれもが素晴らしく、そして会場に合っていた。「みんなで作る、新しい文化祭」というフレーズに若干の不安を感じていたが、運営は非常にプロフェッショナルだったと思う。何より、ライブ会場が体育館なのに音がめっちゃ良くて低音がしっかり鳴っている事に感動した。今年一番ポジティブな試みだったと思う。とにかく、CINRAの底力に心底感服した。

http://newtown.site

 

今年は全体的にダークなものに惹かれる一年だったなと、ここに並んだラインナップを見ると思います。そういう時代なのかもしれない。

以下、各ジャンルごとのベストです。

 

アルバムベスト10

1.Jim O'rouke/Sleep Like It's Winter

2.Rafiq Bahtia/Breaking English

3.Roth Bart Baron/Hex

4.Low/Double Negative

5.Julia Holter/Aviary

6.Nels Cline 4/Currents,Constellations

7.Homecomings/Whale Living

8.Siavash Amini/Foras

9.Iceage/ Beyondless

10.中村佳穂/AINOU

 (時点に、冬にわかれて、Tim Hecker,Nate Smith など)

 

映画ベスト10

1.心と体と

2.15時17分、パリ行き

3.ライオンは今夜死ぬ

4.花咲くころ

5.寝ても覚めても

6.きみの鳥はうたえる

7.アイ、トーニャ

8.万引き家族

9.レディバード

10.大人のグリム童話

(次点にラブレス、夜の浜辺で一人、ゴーストストーリーなど)

 

演劇ベスト10

1.庭劇団ペニノ/蛸入道 忘却ノ儀

2.KERA MAP/修道女たち

3.SCOOL一周年イベント初日(山縣太一・ワワフラミンゴ・ZVIZMO×テンテンコ・)

4.ハイバイ/ヒッキー・ソトニデテミターノ

5.ワワフラミンゴ/ハートのふゆ合戦

6.岩松了、作・演出/市ヶ谷の坂(伝説の虹の三兄弟)

7.ジエン社/物の所有を学ぶ庭

8.新聞家/無床

9.ヌトミック/ヌトミックのコンサート

10.ロロ/グッドモーニング

(次点にコトリ会議「しずかミラクル」、ゲッコーパレード「ガラスの動物園」、スペースノットブランク「ネイティブ」など) 

 

ライブベスト10

1.R +R NOW(9月1日 東京JAZZ FESTIVAL)

2.Kendric Lamar(7月27日 フジロックフェスティバル

3.Roth Bart Baron(12月9日 渋谷WWW)

4.Tim Hecker(10月2日 渋谷WWW)

5.Beach Fossils(3月29日 渋谷クラブクアトロ)

 (次点にMasion Book Girl,Eastern Youth,Iceage,蓮沼執太フィルなど)

 

日記 Powell Tillmansと諸々

三週間前くらいに買ったPowellとWolfgang TillmansのコラボEPが想像以上にぼく好みだった。

 

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これは金属ビートや工事現場ノイズを使わないインダストリアルミュージックだ。インダストリアルは無頓着さによって定義される。人間の情緒に関わる一切に知らんぷりを決め込む、役立たずの機械。

音が細切れのまま継続するシンセ音の上にTillmansの声が乗っかってく。ちょっと甘くてめっちゃクール。ぶっちゃけPowellの今までの作品で一番好きです。

 

今日は六本木に行って何個かギャラリーをのぞいて、友人が出てる坂口安吾のリーディング公演を観た。『文学のふるさと』で「ふるさと大事だけどそこに居続けてはいけないよ」という旨のことを言ってるところがあって頷いた。

 

恵比寿の写真美術館で「小さいながらもたしかなこと 日本の新進作家vol.15」をまわる。「ルポ川崎」の写真があった。

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エクリヲVol.9の写真特集と中平卓馬『なぜ、植物図鑑か』を読んだために写真のことが頭から離れない。今回の展示は映像と写真の間の境目をいく作品展示が見受けられてグッとくるものがあった。

 

仕事用の靴を買い、夜ごはんを食べてシネマヴェーラ東映任侠映画を二本。見事な脚本の勧善懲悪を楽しみつつ少しもの悲しい気持ちになる。鶴田浩二に惚れて帰った。

 

 

加速主義とフレディ・マーキュリー

映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見てから例のごとくクイーンを繰り返し聞いていて、『A Day At The Races』のレコードも買ってみました。と同時に、フレディ・マーキュリーのことをずっとを考えています。フレディは加速主義に抵抗する存在だとおもいあたったからです。

 

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今や加速主義以外に向かう道はないように誰もが感じている。資本主義のプロセスを行けるところまで突き進め、その臨界点において起きるであろう大変化(それは一般に特異点=シンギュラリティと呼ばれる)に賭ける加速主義の発想。つまり、落ちるまで落ちて、そこでの反転を狙う。「それ以外にどうしようもないじゃないか」という空気のこの重さ。マイケル・ムーア『華氏119』が見せる先の見えなさ。トランプが大統領になったことに対する意見で多く聞くのも加速主義的なものである。「剥き出しにダメなものが現れることは、ヒラリー・クリントンが今までの停滞感を延長させるより全然マシ」という意見を、宮台真司外山恒一も語っていた。ポリティカルコレクトネスの重苦しさに耐える価値などないし、経済格差を是正できないまま人種差別を非難することの虚しさに直面できない多文化主義者には唾をかければいい。真っ当な言葉などは流通せず、メディア戦術に長けた金持ちだけが人気を獲得していく。経済的効率性がひたすら優先される社会が崩壊するまで、黙って見ている以外何もできない。加速主義は日和見ニヒリストのエクスキューズに使用されるわけだが、それが強い説得力を持たざるを得ないのが今日の状況だ。

 

ここに、フレディ・マーキュリーというアイコンは登場する。なぜか。多文化主義全体主義に橋を賭けることに成功した唯一の存在だからだ。

ご存知の方も多いだろうが、血統的にフレディ・マーキュリー(本名ファルーク・バルサラ)はインド系ペルシア人で、幼少期〜少年期をザンジバルとインドで過ごしている。映画『ボヘミアン・ラプソディ』でも前半部でフレディが「パキ(パキスタン人の略)」と蔑称を投げつけられる場面があるように、彼は英国においてエスニック・マイノリティであった。

さらに多くの人が知っている事実として、彼は両性愛者であり、エイズの合併症により世を去っている。このことも当然映画において多く描かれているが、フレディはセクシュアル・マイノリティの一面を持っており、つまり彼は二重にマイノリティである。

だが、クイーンというバンドはマイノリティ性を打ち出さなかった。フレディは自らの出自を隠し、イギリス女王を想起させる名前をバンドに与えた。アルバム『Night At The Opera』の最後の曲がイギリス国家「God Save The Queen」のインストルメンタルカヴァーであることを想起してほしい。これはオペラの上演で最後に国家を斉唱する慣習に則ったカヴァーだが、クイーンは愛国的なイメージを利用したバンドであることは確かだ。

 

 

クイーンは多様性より同一性、いわゆる一体感を生み出すことに長けたバンドである。「We Will Rock You」や「We Are The Champions」を知るあなたにはすぐ頷ける話であだろう。ここでの「We」は揃って足踏み、手拍子を行い、手を振り上げて同じ歌を歌う存在だ。一つのルールに全ての人が従う快感。そこでは人々の個性は一つの全体性に捧げられる。ロックコンサートの全体主義をもっとも体現したバンド、それがクイーンである。

  

 

 

しかし、クイーンは同時にその一体感の中に異物を忍び込ませる。「Queen」というバンド名に先ほど言及したが、ここには「女王」の意味だけでなく隠語である「オカマ」の意味も含まれている。マイノリティ性はあからさまではない形で密輸入される。

「Killer Queen」という初期のヒットシングルは、マリー・アントワネットのように喋る、男を激しく誘惑する女(高級娼婦のようにも描かれている)について歌っているが、バンド名がタイトルに含まれていることで自己言及のようにも聞こえるようにもなっている。つまり、ファムファタル的存在を描くと同時に、「俺たちはお前らを魅了する存在だ」というボースティング(自慢)を、一人称ではなく「She」という女性三人称を使って語ることで、ジェンダー的多義性の密輸入に成功しているわけだ。

 

 

 

先ほど言及した「We Will Rock You」のリリックには少年・青年・老人の三人の人物が登場するが、三人とも恥辱を受けた(およびこれから受けるだろう)存在として語られている。あの足踏みと手拍子とフレディの歌の力強さは、屈辱から抜け出したいという欲求につながる。マッチョさや一体感を単に賛美する歌ではないことがわかる。

また、スタジアムが似合うクイーンの代表曲の一つに「Somebody To Love」が挙げられるが、バッハ風のピアノ(ほとんど「主よ、人の望みの喜びよ」の引用に聞こえる)から三連のバンド演奏になだれ込むこの曲ではずっと「誰にも愛されない」「俺を愛してくれる人はいないのか」という言葉が歌われている。フレディはビッグなアレンジのクラシカルな楽曲に合わせて、孤独と屈辱を歌い上げる。

 

 

言葉だけではない。「クイーンは多様性ではなく一体性を表現するのに長けたバンドである」と先ほど述べたが、これは半分嘘である。クイーンは一体性を表現しながら多様性をそこに紛れ込ませるのに長けたバンドである。多重コーラスやブライアン・メイの整数次倍音の豊かなギターの響きといったクイーンの音に常につきまとう特徴はクラシックやオペラからの影響によるものであり(その最たるものが当然「Bohemian Rhapsody」だ)、ロックの黒人音楽要素に西洋の伝統音楽を折衷させたものが彼らのサウンドアイデンティティとなっている。そこにロカビリー(「Crazy Little Thing Called Love」)、ディスコ(「Another One Bites The Dust」)

、フラメンコ(「Innuendo」)、南米音楽(「39」)、イスラム音楽(「Mustafa」)、といった世界中のあらゆる音楽が混ざってくる。日本語で歌われる歌さえある(「Te Wo Toriatte」)。クイーンはメインストリームな音楽を奏でているように見せかけて、実際には多文化の要素を混ぜこぜにしてアウトプットしている。メンバー全員が作曲家であることも多様さを生む要因となる。そうした多様さに一つの筋を通すのがフレディの存在感とコーラスの独特の厚ぼったさである。クイーンは「声」をサウンドの柱に置く。

 

 

 

加えて、クイーンはスタジアムバンドでありながら、レコーディングにおける実験性を追求したバンドである。これも映画『ボヘミアン・ラプソディ』の中で描かれているが、レコーディングに際して、様々なコーラスワークを試したり、録音に逆回転を加えたり、音を極端にパンニングしたり、ドラムの上に物を乗せることで音を変えたりと、あらゆる実験を試みている。こういったレコーディングでの実験精神に富んだロックミュージシャンの多くはライブ活動から離れる。ビートルズを筆頭に、ビーチ・ボーイズスティーリー・ダンXTCブライアン・イーノなど、実験質の穴蔵に閉じこもったミュージシャンは多い。だが、クイーンは実験精神を持ったまま、ライブ活動においても大きく活躍した。フレディのショーマンシップが何より大きく作用しているだろうが、ここでもクイーンは二つの極を両立させている。

 

クイーン、およびフレディ・マーキュリー多文化主義全体主義の橋渡しに成功したバンドであるというテーゼの理由は説明できたかと思う。しかし、ここで気づかなければならない。クイーンがインド音楽を導入していないことに。なぜインド音楽がないか。当然、フレディがインド出身だからである。フレディは出自から離れることに賭けた。地球ではなく水星(マーキュリー)を選んだ。だから、クイーンはインド音楽には手を出さなかった。これがクイーンとフレディ・マーキュリーが二つの極に橋をかけることができた理由である。出自から切り離された(出自を切り離した)人間は、一体性の中でも、多様性の中でも、安住することを良しとしない他者である。自己同一性をそこに見いだすことはせず、常に異物として混入していく。スタジアムの大観衆の中で、フレディとナチュラルに似ているやつはまずいないだろう。クイーンの曲の中でも特にフレディ作曲の曲はクラシックからの影響が強く、どこか貴族じみたオーラを漂わせているが、西洋の要素が強ければ強いほど、異物感が高まる。下に貼った「Millonaire Waltz」でその異様さを是非確認してほしい。故郷から切り離された存在だけが、混ざれる異物として対立項の双方に入り込むことができるのだ。

 

 

 

 

加速主義が受け入れられる理由は「それ以外にすべがない」という感覚が広く共有されているからであり、半ばやけっぱちの時代に我々は突入していると言えるだろう。やけっぱちから脱するためには、自らの出自に立ち返って、自分を見つめ直すことが適切に思えるかもしれないが、そうではない。出自と自らの同一性を別個に考えて、故郷から距離を置くこと。「ふるさとは遠きにありて思うもの」という室生犀星の詩の冒頭になぞらえるように、常に原点に回帰しないこと。「それ以外ないもの」に異物を加えて変容させていくこと。クイーンとフレディ・マーキュリーについて考えていくことは、彼らの音楽を聴くことは、今の重たい世界において、(フレディの愛した)猫のように軽やかに生きるためのヒントとなるだろう。

 

追記:

加速主義については木澤佐登志さんのブログが

http://toshinoukyouko.hatenablog.com/entry/2018/08/24/230418

Bohemian Rhapsody」という歌については

久保賢司さんの記事が(https://www.targma.jp/rock/2018/11/26/post1116/

映画『ボヘミアンラプソディ』の特徴については

伊藤弘了さんの記事が(http://bunshun.jp/articles/-/9782)が参考になります

 

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最近見たあれこれ

LOCUSTの準備で立て込んでいて、はじめてらしくギリギリまで色々やることがある中で、なんとか自分を保つために足は動かしている。

 

今日は五反田アトリエに杉本憲相・堀江たくみ・宮下サトシ三人展「わたしはお皿に落書きをしません」を観に行って、キャラクターモチーフの陶器類の執着と質感に感銘を受ける。「運命」という言葉が浮かんでいた。

 

昨日はロロのいつ高シリーズvol.7「本がまくらじゃ冬眠できない」を早稲田どらま館で観た。いつ高シリーズはだんだん三浦直之自身の青春から今の高校生の青春を描くことにシフトしているのではないか。ひょっとしたら作品一つのインパクトは薄っているのかもしれないが、僕はこの変化はおそらく好ましいのだと思う。「校庭を見る」といういつ高シリーズ頻出の演出の意味をずっと考えている気がする。

 

あと最近は山本卓卓初監督作品『Changes』の多重の暴力性を描く繊細さに胸打たれるものを感じ、フレデリック・ワイズマン『ジャクソン・ハイツへようこそ』を観てトランプ大統領が生まれる背景にある多様性文化の疲弊のことを思い、エイフェックスツインの今年出たEPのレコードを購入してキャリア最高傑作な強度と冒険ごころに感じ入ったりしている。

 

暴力について考えていることが増えてる。

 

『LOCUST』巻頭言

『LOCUST』という本の編集長をしておりまして、創刊号が来週日曜、11月25日の文学フリマ東京で発売することになりました。

文学フリマの情報→https://bunfree.net/event/tokyo27/

僕が去年から今年にかけて参加したゲンロン批評再生塾の同期生を中心に作った本ですが、「批評」という言葉のイメージとはおよそ結びつかないような本になったと思います。とにかくカタチから入らないと始まらない。これは僕の心情というか世の中そういうものなので、カタチは完璧です。なにせオールカラー。そして横開き。写真使いまくりのデザインがんばりまくりです。読むかどうかはまずおいとこう。持ってるだけでも楽しい本です。買うことが大事です。買いましょう。そして読もう。

と言いつつどんな本かわからないと誰も買わないので、巻頭言を先行公開します。

『LOCUST』はこんな本です。

↓ 

 

『LOCUST』創刊によせて 〜盗み合う旅、そして人間へ〜

 

これは旅行×批評誌『LOCUST』の創刊号です。手にとっていただいたみなさん、ありがとうございます。

 

他人の旅を盗みなさい。これが私たちの最初の提言です。

商品や金銭を盗んだら、罰せられます。結婚している人を盗んで恋をすると、社会的・法的に制裁を受けます。しかし、旅の経験は盗んでもなんの罪にもなりません。むしろ、旅はそれを人から盗むことで、より独創的で豊かなものになるのではないでしょうか。

 

『LOCUST』とは英語で「イナゴ」という意味です。私たちはイナゴの群れのように集団で旅行先を訪れ、それからここに掲載された文章を書きます。そうすることで、個体より細かい単位での感覚や言葉の交換が活性化され、元の個体にはなかった機能が発生した。お互いがお互いを無意識に盗み合うことで、新たな感覚や認識が生まれるという実感を得たのです。

 

この本はいわゆる旅行ガイドではありません。その場所にはどんなスポットがあるのか、どこで美味しいごはんが食べられるか、交通手段はどうなっているのかなどの役立つ情報がそれほど載っているものではありません。けれども、私たちは『LOCUST』がガイドとして機能すると考えます。この本と読者であるあなたの間に交換が生じることで、新鮮な感覚が旅先であなたの中に生じるのではないか。つまり、あなたが私たちの旅を盗むことで、あなた自身の旅が生まれるのではないか。私たちはそうした希望を抱いています。

 

今回、私たちは内房地方と東京ディズニーリゾートを旅しました。どちらも千葉県の中にあります。千葉という東京の周辺地を巡ることで、結果的に都市と地方についての関係性を再考する論が多く集まることになりました。都市の権力との微妙な駆け引きの中で、内房という場所は強いファンタジーを生む磁場を獲得していった。そうした主張が、複数の論考の中で繰り返し現れます。ディズニーランドというファンタジーを発生させる場所が千葉県に位置することも、ファンタジーの磁場と大いに関係しているのではないか。ここに掲載された論考を読むと、そのように考えざるを得ません。都市部と周辺部の関係性というのは、全ての近代国家に発生するものです。社会を考えるための一つのアイテムとして、『LOCUST』を読んでいただくこともできるでしょう。

 

旅行に関する文章が何故批評という形をとっているのか、違和感を覚える人もいるかもしれません。私たちはある作品や作家、あるいは現代の社会状況を対象とするものだけではなく、個人の体験を対象とするものとしても批評は機能するのではないかと考えます。「私はこう感じた」ではなく、「私はこう感じた、のは何故か」を語ることができるのが批評です。人というものがどう感じて、どう動くのか。それそのものを考えるための道具として、批評を使うことができます。『LOCUST』には特定の作品、作家を対象とした批評も掲載されておりますが、それらも全て旅行の体験を元に書かれたものです。個人の体験を解釈し捉え直すことで、数値では計測できない人間の感性の正体や、日常では見えてこない人間と社会との関係を照らし出すためのヒントを、少しでも多く提供することができればいいと考えています。



『LOCUST』は旅行ガイドとしても一つの読み物としても、楽しむことができる本です。ご自由にご活用ください。この本と付き合う中であなたが新しい自分を発見し、社会の有様について考えをめぐらせ、人間とは何かを改めて捉え直すことになったとすれば、私たちとしてこれ以上の喜びはありません。

 

『LOCUST』と巡る旅、是非ともお楽しみください。



                      『LOCUST』編集長 伏見 瞬



表紙!

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内房特集!

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ディズニー特集!

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日記のようなもの 有地慈さんとのトークとROTH BART BARONの新作

日記と批評の間の子みたいなものをちょくちょく書いてみようかと。時間作るのが下手なので多分二週間に一回くらいになりそうですが。

 

11月3日に有地慈個展『スーパー・プライベートⅢー約束された街でー』のトークにお呼ばれして、批評再生塾同期の渋革まろん、太田充胤と一緒に有地さんと喋りました。動画も上がってます。

 

 

 

http://chaosxlounge.com/wp/archives/2383

 

有地さんのテーマを乱暴に要約すると「極めてプライベートなものを提示することによってパブリックに開かれた物語を作る」というもので、タイトルの「スーパー・プライベート」にはそういう意味がある。今回は展示そのものが有地さんの娘さんの誕生日パーティーになっていて、今までにも増してプライベート度が極まっていた。

僕は「プライベート/パブリック」という対立項が実は存在しないんじゃないか、少なくとも「私固有のもの=プライベート/万人共通のもの=パブリック」という意味で捉えるとおかしなことになるんじゃないかということを最近考えるようになっていて、その観点から語ったりしています(動画の21分頃)。あと、後半に「有地さんは震災に対して「加害者」の立場に立っている」という話をしていて、この辺りは面白くなったかなと思ってます(1時間17分頃)。

そのほかにも色々話をしていますが、気になりつつトークの中で言えなかったのは、有地さんが「子どもを作品に使うこと」を倫理的問題として気にしている点についてでした。確かに、「子どもを見世物に使っている」という批判はおおいにあり得るし、有地さん自身が傷つかないためにもそうした批判に予防的に対応する必要はあると思う。しかし、倫理的立場を問われる場に踏み込まずに作品を提示していくことが有地さんの場合はマイナスに働く気もしている。僕が思うに有地さんが撃とうとしているのは「多くの人が共有しているとなんとなく思われている空気」のようなもので、自身のプライベートを作品化することでその空気がまやかしであることを伝える。つまり「母と子の関係ってこんな感じでしょ」という個々人が持つイメージを、身も蓋もなくリアルな母子の姿を提示することで刷新する効果がある。そのリアリティにおいて、プライベートな作品は万人に開かれていると思う。だからこそ、「倫理的にやばいんじゃないか」という空気を察知して人々を安心させる方向に作品が向かうのは本末転倒になってしまう。撃とうとしていた「空気」に逆に呑み込まれてしまう結果になっていくのではないか。トークの中で太田さんが「スーパープライベートⅡはⅢより不安感があって好きだった」という感想を言って、それに対して有地さんは「安心させるものにしたかった」と返している。僕は「安心」に寄っていくよりも、観客のなんとなくの倫理を問いただすような「不安」な作品の方が有地さんのやりたいことに近いと感じているので、このあたりの「安心」や「安全」に傾く感じが気になったのでした。

 

そういえば、11月6日に批評再生塾の平田オリザゲスト回の講義にチューターとして参加したのだけど、その中で「日常こそが見世物小屋」というワードが出てきて、有地さんの作品につながっているなぁと思った。春木晶子さんの批評文(https://school.genron.co.jp/works/critics/2018/students/harukishoko/3506/)に対する僕と春木さんとのやりとりにおいて出てきた言葉で、春木さんは(平田オリザ率いる)青年団の演劇において「見世物小屋として「肉体」が活きている」という話と「日常と地続きの演劇だからこそ(作品のテーマで有る)差別の問題が観客にも迫ってくる」という話をしていた。僕がそこで「「見世物小屋」と「日常と地続き」は矛盾しているのでは?」と聞いた時に

春木さんの答えが「日常こそが見世物小屋です」だった。この言葉の意味よりもまず音で聞いた時の強度に僕は反応したんだけど、「なぜ日常を見世物小屋として感じるのか」って問いは考えていくと面白いところに行き着く気がしている。

 

 

 11月7日にROTH BART BARONの新しいアルバム『HEX』が出て、ロットに関してはただのファンなので「好きだ」としか言いようがないんだけど、今回は過去二作のコンセプチュアルさに比べると軽やかな作品だなという印象がある。そしたら今回はボツ曲が100曲以上あるらしく、実は相当に苦労したアルバムらしい。

 

 

 

楽器数が多いのに音に空白が感じられるのが面白くて、おそらくこれはベースが控えめだからだと思う。曲単位だと一番好きな「VENOM」の中で「天国と地獄を行ったり来たり」というフレーズがあって、つまりここには中間地帯としての地上や煉獄が存在していない。この中間のない感じが音にも表れている。

三船雅也のボーカルはファルセットを駆使した天上の柔らかさで世界の痛みを祝うように歌うところが元々有していた魅力だけど、今作は地声で切迫感を宿らせている印象。とても肉体的。声だけでなく音全般に言えることだけど、今まではマインドに効く音楽をやっていたのが、今回はボディにもぶつかっていく音楽になっている。それがトラップやベースミュージックの最新のポップの流れを掴む方向に向かっていない(そういうバンドがいても全然構わない)ところが、ロットの元々の性質にあっているように思う。

 

 

 

「HEX」は最後のコーラスで中原さんがオープンハイハットを八分で入れてくるあたりがいいですね。「並木」が気になる。

朝子のドッペルゲンガー ーtofubeats「RIVER」のミュージック・ヴィデオについてー

 Yuki Moriが監督したtofubeats「RIVER」のミュージックヴィデオは、非常にチャレンジングな作品である。本曲を主題歌となる映画『寝ても醒めても』(濱口竜介監督)が存在するからだ。「RIVER」はそもそもこの映画のために書き下ろされた曲で、しかも『寝ても醒めても』の主人公・朝子を演じる唐田えりかをMVにも抜擢している。当然ながら、映画との比較は免れえない。濱口竜介が『ハッピーアワー』をはじめとする優れた映画群を撮ってきた監督であることはよく知られているし(実際『寝ても覚めても』も大変優れた映画だ)、自ずとMVに対するハードルは上がる。なぜ、わざわざ映画と同じ役者を起用したのだろうか。

 

 

 

 

 

 1.

 

 『寝ても醒めても』と「RIVER」MVを両方観れば誰もが感じることだろう。本当にこの女の子は同一人物なのかと。唐田えりかの顔は映画とMVでまったく違う印象を与える。映画の唐田から感じられるのは恐ろしさだ。不可解なエゴイズムを強烈な意志のもとで発揮させる朝子。彼女を演じる際の唐田の無表情には、全ての人間的感情の意味を否定するような度し難い虚無が宿っている。対して、ソファから目覚め、おでこを出しながら顔を洗い、マスカットを口に頬張るMVの女性にはそうした恐怖や虚無が感じられない。まるでひとつの理想形をなぞるような、ただただひたすらに愛らしい女性像がそこには立ち現れる。MVの女性は、朝子と同じ顔をした全く違う人物、朝子のドッペルゲンガーなのである。

 多くの方がご存知のように、柴崎友香の小説が原作の『寝ても覚めても』は、麦(ばく)と亮平という瓜二つの顔をもつ二人の男と朝子を巡る三角関係の話だ。朝子は大学時代に麦と付き合うが奔放な彼は行方をくらまし、数年後に麦と顔はそっくりだが性格はまるっきり違う亮平と出会い恋人となる。映画では東出昌大一人二役を演じ、そのドッペルゲンガー性が映画内に大きなインパクトを残す。「RIVER」MVが行うのは、映画内で創造されたドッペルゲンガーの機能を、映画とMVを貫通させて反復させる試みなのだ。

 さらに、『寝ても醒めても』の小説と映画は、同じ物語を有しながら、力点が全く違うところに置かれている。小説は朝子の一人称視点であることが大きな役割を果たすが、映画は朝子と亮平という二つの視線の相克がメインテーマとなる。名前も物語の表層は同じだが、その話法は大きく異なるという意味で、映画と小説の間にもドッペルゲンガー的な関係がある。加えて、映画と『River』MVも同じ音楽を全く違う背景に乗せて響かせるという点でドッペルゲンガー関係にある。つまり、ここには

 

麦:亮平

小説『寝ても醒めても』:映画『寝ても醒めても』

映画『寝ても醒めても』:『River』MV

朝子:MVの女性

 

という四つのドッペルゲンガーが存在することになる。「RIVER」MVはドッペルゲンガーが連鎖する構造を利用するために、映画と同じ女優を起用しているのだ。

 

2.

 それでは、朝子を演じる唐田えりかとMVに映る唐田えりかはどうしてこうも印象が異なるのか。

 映画『寝ても覚めても』の朝子の性質を決定づけるのは正面から写した唐田えりかの顔だ。上に挙げた映画予告編の開始7秒目、カメラに対しまっすぐに視線を送る唐田の黒目がちな瞳は何も見ていないような不気味さと、ただ一点をひたすらに凝視しているような強さを同時に帯びている。朝子を見つめる亮平(東出昌大)の瞳は戸惑いを隠さない。亮平は朝子に惹かれながらも、映画の最後にいたるまで彼女の不可解さに苦しみ続ける。『寝ても覚めても』には唐田の正面からのアップが多く映されるが、その顔に翻弄され続ける一人の男を描くのがこの映画の後半部だ。

 「RIVER」のMVは目を閉じて眠る唐田えりかの横顔から始まる。カメラは唐田の顔を決して前から映そうとしない。特にアップの時は常に横顔だ。真正面から異形の表情に向き合わないで済むために、鑑賞者は安心して彼女の横顔を眺めることができる。Cadd9のテンションコードから始まるピアノの響きに合わせて、淡い情感に軽く酔うことができる。映画とMVでの印象の違いは、真正面の顔と横顔の違いに起因している。 

 しかし、正面から向き合わないということは彼女には決して届かないということでもある。MVには途中からtofubeats本人が登場する。異なる場所にいながら、tofubeats唐田えりかの動きは同調している。同じようにカメラから背を向けて、同じようにテーブルにコップを置く。tofubeatsヴォコーダーの声成分を調整するためにつまみを回すとき、唐田えりかは花を写真に収めるためレンズを回している。

 シンクロしているのは彼ら二人だけではない。MVは音楽と律儀に同調している。小節の頭でカットが切り替わるし、ビートとコード進行が一気に変化して曲が盛り上がる場面に合わせてtofuと唐田は部屋から外に出る。冒頭の「ねてもさめてもこいは~」という歌の「さめても」の部分で、眠っていた唐田が目を開けるという詞との同調も発生するし、ピアノの音量が上がってCadd9→B7→Em→Fという緊張度の高い進行(B7に含まれるD#とFメジャーに含まれるFがダイアトニック環境外)になる箇所では、唐田が飲んでいた水を花に与える非日常的で少し異様なシークエンスが重なるという楽曲構造との共時性も確認できる。

  そして、tofuと唐田の二人が外に出た後。日も沈み、あたりは夜に包まれる。カメラは二人にピントを当てていて、奥の景色は共にぼやけており、街の灯りがにじんでいる。その共通性は、それぞれ別に映されているけれども彼らが同じ世界の中に入ってきたことを観る者に感知させる。tofuが橋の上に置かれたキーボードに座って演奏をはじめ、唐田も橋の上で佇む。カット割りも細くリズミカルになって、いよいよ曲も終わりを迎えるというその瞬間。キーボードの椅子から立ち上がり歩き始めたtofuとその姿を追うカメラの間を、唐田が通り過ぎていく。その瞬間は一拍目ではなく、その二泊手前(前小節の七拍目)に訪れた。同調していた二人と、同調していた映像と音楽は、この時完全にすれ違うのだ。

 

3.

 映画『寝ても覚めても』は、真正面から人が他者と向き合わさった時の困難さを表現していた。「RIVER」MVは、他者を正面から直視しないがために最終局面で決定的にすれ違う姿を描いている。『寝ても覚めても』の朝子の振る舞いに対して、醜悪さや不快感を覚えた人も少なくないだろう。けれども、その醜さから逃れることは、他者を幻想の中に押し込めることと同義である。エクリオ掲載のインタビューで濱口竜介はこのように述べている。

 

寝ても覚めても』を観て女性不信になってしまうなら、その人は女性と付き合うべきではないのかもしれません。女性に限らず他人を信じるということは、その他人の自分への「忠誠」を信じるということなのでしょうか。私はまったく違うと思います。格別に「女性像」というものは持っていません。一人一人まったく違うのだな、という認識を持っています。なので、できるだけ「一人一人まったく違うのだ」ということが映画に描かれることが望ましいと思っています。そのまったく違う一人一人が一緒にやっていくことには限りない困難があると思います。だからこそ、一瞬一瞬の通じ合いが奇跡のように思われることもあると思っています。そのことをそのまま映画にしたいと常々考えています。

 

 Yuki Moriが「RIVER」のMVで行っているのは、美しい「女性像」の横顔を描き出し、その幻影がつかめそうなとこで逃げていく姿を4分34秒の時間の中に刻むことだった。朝子のドッペルゲンガーは、「まったく違う一人一人」と向き合うことの意味を、逆説的に指し示しているのだ。『寝ても覚めても』と「RIVER」MVは、逆方向からやってきて、すれ違うことなく出会った。彼らは今、流れる川のような困難な幸福を生きている。

 

  

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