I was only joking

音楽・文学・映画・演劇など。アボカドベイビー。

新芸術校グループ展B『健康な街』に見る理想主義の先

健康な街、というステートメントからは、ある種の皮肉を連想していた。「健康」へのオブセッションを押し付ける「街」の様相をトレースしていくような。実際に作品群を前にすると、そこにあるのはよりストレートな反抗心だ。「健康」と名指された状態が実際は「不健康」であり、本来的な「健康」をここに示すべきだという意思。それは或る意味、理想主義的だといっていいかもしれない。

アトリエに入って瞬間的に感じるのは端正に整理された鮮やかさだ。まず、地面に寝そべるレントゲン写真が我々を迎える。よく観ると写真ではない。五十嵐五十音の手による、いくつかのふぞろいなパネルに描かれた絵だ。体の肉と骸骨が向かい合って手をつなごうとしている。そのイメージは不気味さよりも、分裂したものをなんとか繋ぎあわせたい、だが繋がらないという切実な感情の発露を体現している。同時に、肉まで剥がさなければ、新たな健康を得ることができないという切迫感も見出すことが出来る。

裸へ向かう五十嵐の作品と対象的に、壁にかけられている諸作は服をテーマとしている。作者の長谷川祐輔は、実用性の束縛がタイトになりすぎた服飾の世界において、ファッションの効用を再起させようとする。奔放な筆遣いのスケッチ画、立体的に絵の具が塗りたくられた油絵は実用的な面を一切みせず、役立たずの抽象性に傾いている。長谷川はこれもまたファッションであると語る。人間を覆う布として発生した服は、歴史のどこかでファッションとして独創性を持つに至った。実用から遊びへの転換があった。長谷川はこの転換をアートという場所で再演してみせる。荒削りながらも、野心的な試みだ。

五十嵐と長谷川の作品は、肉を剥ぐ体と布を覆う体という対照性を持つが故にか、隣り合うことで響きあっている。本当の健康を回復するための手段として、逆ベクトルの二作が並ぶことで、強いステートメントを視覚的にもたらす。展覧会全体の鮮やかさは、この入口の印象から齎されている。

その奥で出会う有地慈の作品は、模型とループされる映像、そして二つの石で構成される。日本初の航空機墜落事故の記念碑が残る(という事実を市民が忘れている)所沢市内を有地が自転車で回遊する映像の側で、高低差をつけた八の字ループのレールの上を自転車の写真を貼られたモーター式のおもちゃが進み続ける。映像と模型は当然重ねられている。その重なりは、反復する日常と反復する忘却の重なりでもあるわけだが、目を引くのは石、加えてレールとテーブルに施された花柄のパターンだ。八の字の中央には石が置かれてあり、石を外すと飛行機のプロペラを模した十字形のオブジェが急下降してくる。飛行機墜落のイメージがここで反復される。その反復性はパターン化された花柄の模様にも現れる。そうした全ての反復を奉るかのように、床に置かれた、所沢から持ち出されたもうひとつの巨大な石。ここには、記憶を保存することで不健康な反復、逃げられない街を脱しようとする試みが見られる。

小林真之の作品はなんらかの機械装置を想起させるが、それは定着したイメージ(写真)を崩していく装置である。繋がれた写真の一部が、塩水に浸かっている。この水に浸かることで、写真は会期中に少しずつ色あせ変形していくらしい。ここでは一度定着した記憶を単線的な時間軸から解放することで街の空気を変えていかんととする意思が現れる。 小林は人間を観察しつづける「なにか」がいるような気がしてならない、その「なにか」のためにこの作品を作ったという。そうした第三者の存在自体が人間への、街への不信と連繋しているだろう。興味深いのは、有地と小林の作品にも対照が生じていることだ。有地は記憶を固定することで、小林は記憶を異化することで、街からの脱出を計画する。方法論が分裂しているのだ。その分裂は、グルタミン酸ナトリウムでできた白い山とパンやソーセージの製作過程を映した映像によって内側から健康が破られる契機を示す下山由貴と、ポルターガイスト現象とその種明かしを同時に映す映像により、嘘を真実に感じさせる外からの暴力を感受させようとする中川翔太との関係性にも当てはまる。

こうして観ていくと、『健康な街』という展示自体が、ある種の分裂症の様相を呈していることに思い当たる。だが、むしろ分裂こそが健康なことではないか。過度の統合を要求する社会は、どこか狂っているのではないか。彼らの作品が総合的に語りかける言葉があるとすれば、そのようなものだろう。だとするなら、するべきことは一つ。分裂を、分裂のまま肯定すること。統合の暴力に屈しないこと。その姿勢はすぐに崩れてしまうような危うさを含んでおり、幼い理想主義だとも言える。実際、彼らの作品の間では「健康」をアイロニカルに捉えるか、ストレートに捉えるか、「街」を抜け出す場所と考えるか、留まる、もしくは作り上げる場所として考えるかという基礎的なコンセプトの一致が見られず、シンメトリックに整理(分裂)された作品配置とは裏腹のちぐはぐな内実が露呈してしまっている。ステートメントを説得的に響かせるしたたかな戦略が必要だろう。

いずれにせよ、理想を体現しようとするグループ展Bの作家達は、これから容赦のない逆風に曝されるだろう。その時に、じっと耐えるか、膝から崩れるか、方向転換するか、それとも風を交す術を身につけるか。危ういが故に、この先の展望を見てみたくなる。『健康な街』はそんな期待感を募らせる展示でもあった。

東京デスロック『再生』の非-情緒性、非-ポップス性について

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僕と同じく批評再生塾に参加している渋革まろん氏が、先日上演された東京デスロック『再生』について書いてるのに触発されて僕も書いてみることにしました。

 

marron-shibukawa.hatenablog.com

 

とても面白く読んだのですが、なかなか首肯できない部分もあって余計に面白いなと。ちなみにまろんくんとは偶然同じ回で『再生』を観ました。

 

『再生』は全く同じ劇を3回繰り返すことで成り立っており、しかも演者達は劇中踊りっぱなしで凄まじい運動量を見せる。三度の繰り返しの中で、照明が少しずつ明るくなること、音楽の音量が大きくなっていくこと以外の変化はない。

本作の最大の特徴が「反復」にあることは観劇した誰もが認めるはずだ。私は今回の批評再生塾の課題で、平田オリザが後のロボット・アンドロイド演劇につながる、役者の身体の機械的操作を演出の要諦としたことにより、後続の演出家達が機械的身体を要請する反復の演劇を志向したと考えた。その一例として『再生』を紹介し、同じようなサンプルに、ままごと『わが星』やマームとジプシーの諸作を挙げられるとした。

 

school.genron.co.jp

 

だが、東京デスロックとままごと、マームとジプシーでは反復の性質に差異がある。課題では与えられたテーマに沿わなかったため書くことはなかったが、本稿では「反復の差異」について考察していきたい。議論を明確にするため、以降は『再生』と、マームとジプシーを比較対象に置くことにする。

ここで考慮される要素は主に二つ、ひとつは反復される時間のスパンの長さについてである。『再生』はおよそ30分の時間をワンセットに反復が為される。対して、マームとジプシーの同じシーン、同じセリフを角度を変えながら何度もリフレインさせる演出では、反復のスパンは数秒から数十秒といったところだ。マームとジプシーの演劇はこの数秒のリフレインをいくつも組み合わせて、パズルのように時間を構成していくスタイルをとっている。30分の反復と数秒の反復では与える印象は大きく異なる。

もうひとつの要素は、ざっくり言えば変わるのが舞台設定か演者かという違いだ。『再生』は前述した通り演者の動き、セリフの言い回しなどは一切変わらず、変わるのは照明と音響だ。人間は反復するが、劇の下地となる舞台には変化がある。この反復を「人の反復・地の差異」と呼ぶことにする。マームとジプシーの演劇では、ひとつのセリフの束が後半に再度繰り返されるという演出がたびたび為されるのだが、そこでは同じ言葉にはっきりとした強弱の変化がつけられる。抑制気味に発されていたセリフが、反復される際には叫び声に近い大声で、しばしば涙を伴いながらエモーショナルな様相を呈するのだ。下地は同じだが、演者の態度が異なる。「地の反復・人の差異」に相当する。

以上の、反復についての整理を表にしてみる。

 

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反復スパンが長く、「人の反復・地の差異」である『再生』の反復は表の①に類する。短いスパンで「地の反復・人の差異」を強調するマームとジプシーは④の反復を活用していることになる。正確には、マームとジプシーは演者の同じ動きを90度、あるいは180度回転させながら繰り返す演出も多用することから、③と④の組み合わせにより成り立つといった方がより正しい。

ここで、音楽とのアナロジーで反復の性質を考えると、それぞれの効果・作用の違いを理解する助けとなる。音楽の情動操作において強く作用するのはメロディであり、その土台となるのがリズムであるというのがポップミュージック全般の基礎を成す西洋音楽の規律的解釈である。演劇においては、観客の情動に訴える強いツールは何に置いても演者の発話・動きだろう。メロディ/リズムの対比を、上記の演劇における人/地の対比に重ねると、③はリフと呼ばれる、同一フレーズの繰り返しの組み合わせによって曲に快楽性を付与するロック・ポップスの常套手段と同一視できる。例は枚挙にいとまがないが、たとえばこの有名曲の冒頭ギターリフが挙げられる。

 

 

 

④には同一のコード進行と同一のリズムパターンを用いながら、歌やギターのフレージングが変化していく曲が当てはまる。声のテンションを大きく切り替えるという要素も含めると、U2"With or without you"の循環コードと後半のボノの咆哮による暑苦しいほどのエモーションが思い出される。

 

 

 こうした循環コードによるエモーション生成もポップミュージックで多用される手法だ。つまるところ、マームとジプシーの演出方法は非常にポップスと親しい位置にある。マーム〜の作・演出、藤田貴大はポップス的な快楽性と情動生成を用いて、過去のある一点、劇の中でしばしば「あの日」と名指される、親しかった誰かとの死や別離の記憶を、複数の劇中人物に共有させる。共同体がひとつのトラウマを反復させながら、共通の記憶と感情を確認していく。まろん氏が「必然的に「みんな」を増幅していく「日本的情緒共同体」を劇形式のレベルで反復せざるを得なくなってくる」と語るとき、この構造により当てはまるのは藤田貴大、およびマームとジプシーの演劇なのではないだろうか。詳細は省くが、一人の女性の生涯を登場人物全員が共有するままごと『わが星』も同様の性質を持つだろう。

 

東京デスロック『再生』の長いスパンで舞台装置のみが変化する反復は、劇中の音楽にJ-Popを使用していながら、その実ポップス的ではない。30分のスパンで反復する音楽というのは、私が記憶する範囲では思い当たらない。ただ、近い例では、メロディー要素を最小限に抑えて、リズムの微妙な変化で長い時間をかけての快楽を構成していくミニマムテクノが脳内に浮上してくる。

 

 

あるいは、アドリブによるソロ演奏がジャズの真髄だと考えられていた時代に、管楽器のメロディをひたすら反復させ、ドラム・ベース・ピアノのリズム隊(ジャズにおいてはピアノはリズム要素と考えられることが多い)の変化で曲を聴かせるという逆の発想を具現したマイルス・デイヴィス"Nefertiti"も近いものとして考えられる。

 

 

リッチー・ホウティンやマイルスの楽曲(この二つを一緒に語るのも大分暴論だが)を聴く際には、微小な差異に反応できるリスニングリテラシーが求められる。情動的なドラマ性に慣れている聴き手は、無感情な印象を与える楽曲に戸惑う。だが、微小な差異が少しずつ生成される感覚を掴むと、そこに含まれる心地よさは、飽きることのない、持続的なものとして生き続けるだろう。

こうした、メロディに対するある種のミニマルさを有した音楽が聴衆に与えるものはポップス・ロック的な情動の共有ではなく、感情はばらばらでも同じリズムによって身体が反応する、律動の共有である。まろん氏がいう「多幸感」や「観客の自律性の麻痺」を、私は『再生』の舞台から感じなかった。むしろ、三回の反復の中で立ち現れる微小な差異を、凝視しながら確認する心地よい作業こそが、『再生』の上演を他に類をみない特別な時間へと変成していく梃子になっているのではないか。いくら同じことの反復とはいえ、機械に成り切れない演者達のなかではわずかながらの動きの差異が当然生じるし、完全に同じ動きだとしても照明の明るさが変われば見え方も変わる。そのかすかな差異に観客の目や耳は集中する。ここにあるのは、観客の自律性が普段より活性化されている状態ではないだろうか。

また、劇中で笑いを誘う役者は決まって中年男性を演じる夏目慎也だったが、彼のどの動きに私含めた観客が反応するか、どの言葉に思わず笑いが漏れるかは、三回の反復の中でタイミングがすべて異なっていた。一度目はヘタクソなマイケルジャクソンの物まねをするところで笑うが、二度目は『太陽にほえろ!』の刑事に憧れてたと息切れしながら語るところに微笑んだりする。このタイミングの差異は、舞台上の変化よりも、観客の状態の変化に起因する。同じことの反復でも、時間の経過が伴えば主体の反応は当然異なる。あまりに当たり前の事実だが、それをひとつの上演によって現前化されることはほとんどない。『再生』は観客に自らの心的状態への意識集中と、目と耳の上演への凝集化を同時に生起させる。『再生』の上演は、観客その人の在り方を観客の数だけ個別に問いなおす体験なのだ。そこにあるのはたしかにひとつの共同体だが、それは情緒の共同体ではなく、ひとりひとりに異なる情緒を作動させるための土台を共有した、律動の共同体なのである。

 

本当は、もうひとつ、『再生』で使われる音楽がしばし「J-Pop」と名指しされるし私も先程「J-Pop」と書いたが、実はそれは間違っているということも指摘したかった。ただ、少し長くなったし、書き手の体力も尽きてきたので止めておきます。簡単に触れると、フィッシュマンズあがた森魚安室奈美恵に含まれる意味には違いがあるし、それを「J-Pop」という言葉でひとくくりにするとこの劇の大きなポイントを見逃すことになるという話です。時間とやる気が出てきたら、そのうち。

 

新芸術校グループ展「其コは此コ」

ゲンロン新芸術校グループ展「其コは此コ」に伺いました。

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新芸術校の4つのグループ展のうち、今回は最初のAチーム、四名よる展示。作家それぞれにやりたいことがはっきりしていたため、展示自体の明確な方向性は定めなかったとのことだが、観ていると一貫性が徐々に感じられてくる。すぐに気付くところでは、それは一種の雑多さだったりするだろう。猫を描き続ける友杉宣大にしろ、抽象画を志向するよひえにしろ、同じモチーフを様々な色、様々な線で増殖させることによって、静謐に整理されたものから離散していくような印象を観る者に与える。白黒の線のみを使用する中村紗千の怪獣が描かれた風景も、質の異なる線が入り乱れてカオスの様相を呈しているし、最もミニマリスティックな龍村景一の映像作品も、15秒足らずの白黒素材をいじり倒すことで時間が引き裂かれていくようなダイナミズムが付与されている。個々の作品がバラバラという意味で雑多なのではなく、雑多さによって全体が統一されているということだ。

もう一つ、共通点を挙げるとすれば、それは「移動」という言葉で表される。友杉は猫が旅する様子を何枚も何枚も描き、会期中も設置されたテントの中で猫の絵を描き続ける。猫は現在進行形で移動している。龍村の作品は裸の男(龍村自身)がスクリーンの中心めがけて突進していく映像を基に作られているが、映像はやがてスクリーンと相似をなす多数の長方形で分割され、移動する裸の男の残像がスクリーン上に大量に現れることになる。カチ、カチとなる効果音が次第に増幅して最終的に細かく刻まれたリズムを作り出す音響効果も、疾走感を表現するのに一役買っている。よひえは会場トイレの中にピンクやオレンジといった暖色系の色彩をメインにしたアクションペインティング的抽象画を数点展示しているが、トイレには水洗機の上にライトが用意され、そこから録音された音が鳴っている。この音はよひえがiPhoneで移動しながら収集した、街の音や車のラジオの交通情報などで構成されているものだ。日常的な移動の中で聞こえてくる音と、抽象性の高い絵画を合わせることで、抽象と具体の間に触れるような展示となっている。中村の作品には比較的大きく描かれた怪獣の表象と併せて、橋を渡る小さな怪物達がいくつも描かれているのが特徴的だ。怪獣達が流れるように移動していく様子と、生命力を持っているかのように激しい描線の跡を目で追っていると、一つの平面に時間性が宿っている感覚を覚える。彼らはみな、「移動」を含む表現を志向することにより、静止された平面に時間を刻もうと、あるいは単数の時間を複数に分離させようと努めている。

「其コは此コ」展は、「其コ」と「此コ」の間を「移動」しながら、その間に出会う「雑多」な世界をトレースしていくという、淡い意志に支えられて展開していた。その「雑多」な世界のなかには、時間も空間も心象も外景も含まれるだろう。時間が空間と重なる地点に、抽象的なイメージが具体的な日常と重なる地点に、「其コ」が「此コ」と重なる地点に、作家達は身を置いている。そしてその点は、今日も移動を続けている。

 

 

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ゆうめい/弟兄

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(9月9日 STスポットにて)

 

 ゆうめいは私演劇の「私」の扱いが本当に巧い。作・演出の池田亮の実体験を演劇にしている作風はハイバイの岩井秀人から受け継いでいるのだと思うが、ゆうめいの演劇はハイバイとは異なる新しい魅力を獲得をしている様に思える。今のところその正体ははっきりしていないが、とりあえず『弟兄』を振り返ってみる。

 ステージ上に細見の柔そうな男が現れて「池田亮です」と名乗る。舞台には飲食注意などの指示が書かれたポールが二本立っており、男はそのうちの一本に紙を貼付ける。そこには子供の落書きのような顔が描かれており、横に「池田亮死ね!」と書かれている。男が説明する。これはぼくが中学校の時に学校の掲示板に貼られたものだと。やがて話は回想へと入り、別の背の低い男が現れて中学時代の池田役として演技を始める。いじめられていた当時の様子、復讐の妄想、自殺しようとしてできなかったことなどが、最初に出てきた男のツッコミを交えながら演じられていく。高校に入ると友人ができ、中学時代の池田を演じていた男がこの友人、通称「弟」へと役をシフトさせる。「弟」は池田以上に凄惨ないじめを受けていて、境遇の近かった二人は自然と一緒に過ごすようになる。いじめもなくなり、過去を克服したかに見えた二人だったが・・・。

 あらすじはざっとこんな感じだが、注意したいのは「池田亮です」と名乗った男は実際の作・演出の池田ではなく、別の俳優であるということだ。全て実体験、登場人物は全員実名だと劇中で語られるのだが、そもそも語っている男が名前を騙っている。ここに「私」に対する絶妙な距離が生まれる。もし実際の池田本人が演じれば、それは自分語りになるだろう。実体験をフィクションとして再構築すると、おそらく凡庸な物語として終わってしまう。どちらにせよ、観客が距離を置いて安心して観ていられる見せ物になる。だが、『弟兄』の私、「池田亮」は他人の体へ憑依している。それを観ている観客は「池田亮」の感情が別の人物に転移されているように想像してしまう。おそらく、この転移のイメージが、劇内で起こっていることを他人事にさせない仕組みとなっているのではないか。この転移があるからこそ、「池田亮」のセルフツッコミも切実な感情吐露も、まるで自分のことのように、と同時に他人が感じているもののように、感覚が二つ合わせに重なっているような奇妙な感覚を観客は覚える。「わたしはわたしである」と同時に「わたしはあなたである」という状態が、80分間続いていくのだ。この奇妙な感覚は、今まで観た他の演劇では感じたことのないものだ。 

 みじめな状態の時に体が「かゆい」と感じるのにはリアリティを感じた。昔レディオヘッドがEPのタイトルに『Itch(かゆさ)』とつけてたのを思い出す。個人的には劇中に出てくる地名、春日部と川間が両方仕事で行ったことある場所だったので「わかる、わかる」と頷きながら観ていました。

The National/Sleep Well Beastに関するメモ

9月8日(金)に発売となったThe Nationalの7枚目のアルバム『Sleep Well Beast』を家や外で4、5回リピートしたのでとりあえずの印象を。

 

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今回は4曲リードトラックが発表されてて、どれも抜群の出来だったので期待していました。Casey Ressによるデジタルメディアを駆使したMVもめちゃかっこいいし。特に「The System Only Dreams In Total Darkness」と「Day I Die」の痙攣するようなエレキギターの響きが今まで以上の格好良さなのがグッとくる。ちょっとLou Reedの「Vicious」やDavid Bowieの「Moonage Daydream」みたいなグラムロック感もありますね。

 

 

 

 

 

アルバム全体を聞き通してみて、やはりいい。個人的にNationalのベスト2は「Alligator」「High Violet」なんですが、そこに並ぶかもしれない。音響に関しては今作がベストだと思う。4枚目「Boxer」以降Bryan Devendolfのドラムの立体的な迫力は常に素晴らしかったけど、今作はテクニカルな進歩やリズムパターンの幅広さが功を奏してか、これ以上ない格好よさ。エレクトロニクス楽器によるシーケンスが多く使われているのも今回の特徴で、アコースティック色、オーガニック色の強かった全作とはかなり違った印象。基本はいつもの骨太でダンディなNationalで、曲がいきなりダンスポップ化したわけではないが、成熟した男っぽさが特徴のバンドだからこそ、少し軽薄にも聞こえるシーケンスが弁証法的にうまくマッチしている。エレクトロニクス感は、アルバム全体にSF的なイメージを広げる推進力にもなっていて、未来感があるというよりも、SF小説が得意とする社会構造の骨組みを提示する感じが出ている。まるでレイモンド・カーヴァーが描くどん詰まりの日常にフィリップ・K・ディックの社会的想像力が入り込んできたような世界。そのことにおそらく本人達は自覚的で、MV監督にCasey Reasを起用したことがなにより証左だろう。ホラーの雰囲気も漂う田舎道を進むカメラをデジタル画像で分割した「The System Only Dreams In Total Darkness」の映像は本作のオーラ全体を見事に象徴している。そういえば、一週間前に出てWar On Drugsのアルバムもシンセサイザー多めでSF感でてたけど、北米インディ界ではちょっとしたシンセ(が醸し出すSF)ブームなのだろうか。

 

 

 

今のところベストソングは後半のドラムソロが最高の「I'll Still Destroy You」と幽玄なオーラと囁くヴォーカルが今までにない魅力となっているラス曲「Sleep Well Beast」。StoogesかMudhoneyのようなガレージロック「Turtleneck」は結構驚いた。短3度を使うブルースっぽいコード進行はNationalの曲でははじめてじゃないかな。

 

ナカゴー『地元のノリ』

(9月1日 アートシアターかもめ座にて観劇)

 

冒頭アナウンス(「携帯の電源をお切りください」のやつ)において、出てきた青年がこう告げる。「これから出てくる人たちは僕以外全員人間ではありません。僕も途中から人間ではなくなります」。直後、河童(の恰好)をした役者が現れ青年の予告を裏付けるが、その後出てくるのはみな普段着の男女たち。だが、彼らはほぼ全員が河童であり、赤羽の闇医者に人間の皮膚をつけてもらって偽りの人間生活を営んでいるのだ。そうした荒唐無稽な設定の上で、展開されてくる物語は怒涛の勢いでころころ入れ替わる。母子家庭、三角関係、「積み木崩し」的家庭崩壊、上京と孤独。日本のドラマや演劇ではおなじみの設定の人間ドラマが次々と現れて話が膨張し、いったいこれは何の話なんだろうと思えてくる。ほとんど役者全員集合となるラストのファミレス(ジョリーパスタという設定が絶妙)の場面、店長の気絶からエセ松岡修造の突然の変貌の流れは特に圧巻。さまざまな悩みや問題が解決されたのか、されていないのか。そんな疑問は一切無視して、ブラックジョークな匂いも含みつつ強引に幕が下りる。切実なやるせなさが描かれていないわけではないが、受ける印象はとにかくド派手に馬鹿らしいコメディだ。

だが、このはちゃめちゃで滅茶苦茶な喜劇には、真正面から受け止めるべき希望、と呼んでいいのかわからないが、風通しの良いポジティブさが宿っているように思えた。その要因の一因は、おそらく「壁」の存在だ。バイト先(前述のジョリーパスタ)で、友達のいないことに悩むおかっぱの女(その実は河童)に話しかける、花柄のサロペットを着たギャル風の女性。予告された設定にある通り、当然人間ではないのだが、お互いが秘密を告白する流れで、自分が「ぬりかべ」だと告げるのだ。このあたりの二人の距離のつめ方が実によくて、涙腺を刺激するのだが、その中で河童はぬりかべに向かって走ってはじかれる遊びを行い、二人は笑いあうシーンがある。この「壁にぶつかる」という動きが本作を特徴づけている。たとえば、「怪力の男」という設定を証拠づける方法として、本作では力を受けた相手が「吹き飛ばされてにぶつかる」という(『童夢』の超能力表現のような)演出をとっており、壁へのぶつかり方がわざとらしすぎて何度も笑いを呼び起こす。壁は、共に戯れるものとして存在している。「ぬりかべ」は笑いながら、ぶつかってくる人間を受け入れる。人を閉じ込めるもの、なにかを達成する困難の隠喩として扱われる壁を、ポジティブなものとして捉えなおすこと。『地元のノリ』に感じる風通しの良さは、風を妨害するはずの「壁」から与えられているのだ。

 

あなたは今、この音を聴いている?

ナカコーこと中村浩二氏のツイート。

 

 

これは過去のアンビエントミュージックの概念を作っていった音楽家エリック・サティブライアン・イーノの定義を正統に受け継いでいる発言と考えていいと思います。演奏者や作曲家が主体でなく、聴き手が自由な聴取条件のなかで何かしら世界の本質を発見してほしい、ということですね。

佐々木敦さんなんかは音楽を論じるときは一貫して「聴く」という行為について書いていて、小説について書くときも「読む」ことについて書いていますね。佐々木さんの批評は結論が出ていなかったり、あまりに当たり前な結論に到達するやつも結構ありますけど、読み手が論の流れから自由に読み取ってほしいという態度はアンビエントの概念そのものだって気もします。この本なんかは正にそう。メタフィクションにおける書き手の絶対化が嫌でどうにかして読み手の自由を確保したいって一冊です。

 

honto.jp

 

ぼくがここ一年で一番聴いてるアルバムって『Tired Sounds Of Stars Of The Lid』なんですけど、なんで聴いてるかというと睡眠導入剤として最適なんですね。お昼ご飯食べるとすんごい眠くなる体質なので5分くらい仮眠をとる(座って目を瞑るだけですが、1分くらは意識とんでる)んですが、このアルバム聴いてるとふわっと眠りが訪れるわけです。エフェクトがかかっているからか、演奏感が一切感じられない弦楽器の音の揺れが波のように押し寄せては引いて押し寄せては引いて。どうやって音作ってるかはまったく分からないんですけど、ほんとに心地よい音で、マイブラとボーズオブカナダを足して、リズムを全部引いたような感じが気持ちいいわけです。

 

 

 

ただ、通しで聴くことはほとんどない。CD2枚組のボリュームだし、ずっと集中して聴いていられない。本を読みながら最後まで流すことはあるけど、意識をフォーカスして全部聴こうとしたら絶対途中で寝ちゃうはず。眠ったら当然ながら最後まで聴けない。全体像はいつまでたっても掴めないわけだが、むしろ全体を想定することの無意味さに気付かせてくれるところがにこの作品の本領、およびアンビエントの本領があるわけで、それをナカコーさんは「目を離した瞬間陽が沈むような」と表現した。聴き始めてから眠るまでの時間が短ければ短いほど、つまりその作品を聴いている時間が短いほど、音楽としての価値が上がる。そういう逆説に、ぼくは最近惹かれている気がする。

 

ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』で、複製技術の発展による芸術のアウラの消失について語ったのは割と有名な話ですが、アウラっていうのは作品に含まれる魂みたいなものではなくて、受け手が一つしかないもの、一度きりしか起きないものに覚える歴史的な重みみたいなものなんだと説明されています。

 

いったいアウラとは何か?時間と空間とが縺れあってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを目で追うことーーこれが、その山脈なり枝なりのアウラを呼吸することに他ならない 

ウォルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』

 

この言葉とアンビエントミュージックとの関係にも逆説があると思うんですよね。アンビエントの音源なんて正に「複製技術時代の芸術作品」だし、一回性なんてないように思える。だけどナカコーさんはアンビエントを「夕日を感じるような」ものと言っている。ゆっくり夕日を眺める行為はベンヤミン的には正に夕日のアウラを呼吸することです。複製技術とアウラが両立するという逆説的事態は何故起こりえるのか。これは、録音されたものはいつだって同じものを聴いてるという前提だけど、実は聴き方によって全ての聴取体験は一回性のものになっている、というのが理由かと思うのですが、やはりここでも聴き手の体験がスタートラインになっています。その聴き方は、集中して何かを得ようとするのではなく、ぼんやりと漫然とした態度に基づくもので、寝た後はそもそも「聴いてる」かどうかもわからない。このぼんやり感は、他の芸術、本や映画や演劇や絵画やまんがや建築に臨むときにも適応されてしかるべきだと思うし、そういう体験を意識した作品があってもいいのじゃないかなと思っています。寝ながら読める小説みたいなものを、最近はよく夢想しています。滝口悠生の小説はちょっとそんな感じあるな。