I was only joking

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『わたしは、ダニエル・ブレイク』は今年のベスト映画候補です

danielblake.jp

 

社会問題をテーマに取り込む作品は数多くあれど、ここまで真正面から政治的課題と向き合った映画も珍しいのではないか。ケン・ローチ監督『わたしは、ダニエル・ブレイク』は英国保守党の福祉、医療、教育分野への財政削減政策にストップをかけるという明確な政治的意図を持っている。

テーマ性の強さは映画やその他の表現にとって諸刃の剣となる。テーマを作品の中で活かすことでよりクオリティの高いものをクリエイトすることもできるし、逆に主題の強さに負けて作品の質の悪さが際立ってしまうこともある。人間が背負った重荷を克明に描いて人間存在の本質に迫る作品を作るには、より高度な藝術的技術が要求されるのだ。

『わたしは、ダニエル・ブレイク』のテイストは『戦火のかなた』『自転車泥棒』といったイタリアネオリアリズモ映画、市民が直面している現実をフィクショナルな解決なしに生々しく描いた作品群に近い。特にデ・シーカ『ウンベルト・D』は社会制度の変化によって収入源を失い、次第に追いつめられていく老人が主人公である点が本作と非常によく似ている。現代版『ウンベルト・D』という言い方もあながち間違いではない。

ウンベルト・D - Wikipedia

 

まず讃えられるべきはポール・ラヴァティの脚本だろう。ラヴァティは公共制度から助けをもらえず疲弊していく病持ちの老人ダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)と二児の親であるシングルマザー、ケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)との出会いを用意した。この二人の交流が、イングランドの抱える諸問題を覗き込むためのレンズの役割を果たす。ケイティはアパートの水漏れを管理人に告げたことで無理矢理立ち退きをくらい、仕方なくロンドンからニューキャッスルへ移ってきたという事情をダニエルに話すことで、報復的強制立ち退きの問題を観客は意識することにある。逆に、ダニエルはケイティ親子に心を許す中で妻を介護して死を見届けた過去を語り、介護・孤独死の問題がストーリーに浮上する。他にも売春・子供のいじめ・雇用年金省からの理不尽な制裁措置といったハードな現実が彼らのやりとりの中で立ち現れる。このように、社会問題を複層的に描き出ながら無理なく話を広げて、自然なかたちで結末に向かわせる脚本は実に見事。もちろん、心臓病にもかかわらず受給が受けられないという制度の矛盾とセーフティネットをあえて閉じるような官僚主義の異常さは物語の中心にがっしりと居座っている。

 

また、ロビー・ライアンによるカメラも非常に鋭い。ニューキャッスルの街中や図書館の様子を上空斜めから撮ったショットは、その中を歩くダニエルと一緒に多くの人々を映すなかで、老人の苦境を主観的に感情に寄って描写するのではなく、個人の数だけある現実のなかでダニエルの位置するところをきっちり見据えてその生き様を捉えようという意志の表明となっている。単純に画的にも美しい場面だ。ダニエルとケイティ親子の親密な繋がりも言葉ではなく、それぞれの表情や大工であるダニエルが作った木製の魚といったアイテムによって暗示する。この無駄のなさが素敵だ。ケイティの家のドアを直すときのダニエルの表情の生き生きとした真剣さはいいようもなく魅力的である。

 

本作はアクチュアルなテーマを前面に押し出しながら、撮影や脚本のテクニックを駆使して普遍的な魅力を獲得した傑作だ。映画のラストは決して希望に満ちたものではないしむしろ心痛むものだが、個人として生きることの尊厳を大らかに肯定してみせる映画としての在り方には確かな希望を感じた。また、ダニエルがニット帽をかぶりなおしてある大胆な行動を起こす一連のシーンには、ただでは折れないイギリス労働者階級のしたたかさが漲っている。イギリスの反骨精神とユーモアの伝統を感じさせる点でも非常に優れた作品だろう。必見。

 

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『騎士団長殺し』は物語についての物語である

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村上春樹はほんとに批評しづらい作家だ。ひとつの視点を持ち出して語るにしても、説得力が発生せずに空振りしているような感覚があり、「深読み」の魔の手に囚われるように感じてしまうのだ。自分は穿ったつまらない見方をしているのではないかという思考が頭から離れず、結果的に書くのを諦めてしまう。他の作家・作品のことを書くときにはある程度の飛躍を自分に許すのにも関わらず。村上の作品はあまりに解釈の広がりが確保されすぎててどのような見方にも新鮮味が出ないことが理由のひとつとして考えられるが、おそらく著者本人が批評を回避するような書き方をしているのだろう。作家としての自らを語った『職業としての小説家』の中で、村上は自作が批評的に厳しい評価を受け続けてきたということに言及をしているし、同時に読者との直接的なつながりを強調する表現も見受けられる。村上は批評を経由しない読者それぞれに語りかける言葉を求めていて、結果的に批評の入る隙間がなくなってしまう。筆者は作家の態度を最大限尊重したいと思いつつ、批評行為の魅力を信頼しんている人間として可能限りそれに抗ってみたい。この先の文章も終わりまで勧められるか心もとないのだが、作家の批評不信を拭う言葉をつなぐくらいの気概をもって進めていければと思う。

 

騎士団長殺し』を読みすすめて驚いたこと、それは自身の過去作への反応ともとれるイロニーがあちらこちらに見られることである。まずサブタイトルの『顕れるイデア編』『遷ろうメタファー編』がすでにイロニーであり、タイトル通り何の衒いもなくイデア的存在とメタファー的存在が登場する展開が用意されている。村上作品に特徴的な、象徴性を有する人物・存在と頻繁に使用される比喩の応酬を、そしてそうした特徴に対する今までの読者の皮肉を著者が理解して、若干のメタ視点を導入しながらアイロニックに文章を綴るのが、過去作との大きな差異である。

この自己言及性は本作に棲息している一つのテーマと密接につながっている。それは「物語そのものについての物語」というものだ。多くの村上作品、特に長編の特徴として「主人公が自主的に行動しているのではなく、あらかじめ定められたプログラムに動かされているように思える展開」が挙げられるし、今作では語り手である「私」が「ただプログラムに沿って動いてるだけだ」とこぼしたりするが(ここにも自己言及)、この特徴は読書そのものの比喩として捉えることが可能である。本を読む時、読まれる文字は既に印刷されているし、ストーリーはあらかじめ決められている。ただ、あらかじめ決められた物語が動き出すには読み手の意志が必要になるし、本からどんな意味を見いだすかは個々人の自由だ。『騎士団長殺し』という物語全体が物語を読む行為のメタファーであり、定められたプログラムを作動させるための意志を肯定している。

また、第一部冒頭の「夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた」という描写は、第二部18ページのまりえの母の歌「川の向こう側には広い緑の野原が広がっていて、そちらにはそっくりきれいに日が照っていて、でもこちら側にはずっと長く雨が降っていて・・・」と呼応しており、第二部90ページ「どんなものごとにも明るい側面がある。どんなに暗くて厚い雲も、その裏側は銀色に輝いている」というセリフにも結びつく。このセリフはいかにも紋切り型な人生論であり文章単体での魅力は乏しいが、小説全体の対応関係の中では個人それぞれがポジティブにもネガティブにも捉えることの可能な物語というものの二面性を象徴する言葉として機能していく。あちらこちらで見つかる「半月形」という単語も二面性を想起されるものだ。

他にも、「目に見えるものだけを信じればいい」「目に見えないものと同じくらい、目に見えるものが好きだ」という言葉は「まず、なにより書かれている言葉を読むべきだ」というメッセージに取れるし、度々登場する三点計測のモチーフも「自分と世界の関係を測るための三点目としての物語」についての言及として読める。

 

村上は「物語」という言葉を強調する作家である。たとえばこのようなかたちで。

 

www.lifehacker.jp

 

騎士団長殺し』は村上にとっての「物語」の実践であると同時に「物語とは何か」を語った書であるといえる。故に、本書はこれから物語の深い森へ入らんとする少年少女への冒険の手引きとしての役割を持つし、それはティム・バートン『ミス・ペレグリンと奇妙な子どもたち』で内気な少年を新しい世界へ導いた祖父の果たした役目と同じだ(本書は何故かこの優れたジュブナイル映画を想起させる)。「いまここにある現実とは離れたところにある現実から物事を運んできて、それによって、いまここにある現実を、よりリアルに、より鮮やかに再現する」ことが物語の目的だとする村上の断定を鑑みれば「騎士団長は本当にいたんだよ」という言葉の意味が自ずと見えてくるだろう。誰にでも訪れる通過儀礼を描いたおとぎ話。だが一度読み終わって冒頭に戻れば、イニシエーションは一度きりではないという現実も表現していたことに気づく。口当たりのよい文章の中に、複雑な味わいを隠した充実作だ。

 

ロロ『いつ高シリーズ』まとめ公演はコミュニケーションの在り方を刷新するような大傑作だった

作・演出の三浦直之率いる劇団ロロが不定期に公演している「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」、通称「いつ高」シリーズ。現在その第四弾『いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した』が駒場アゴラ劇場で上演されているが、それに併せて今までのシリーズ全てをまとめ公演している。

 

lolowebsite.sub.jp

 

「いつ高」シリーズは高校を舞台にした連作劇で、高校演劇のルール(上演は60分以内、舞台セッティングは演者がおこなうなど)に基づいて行われる。登場人物の一部が毎回登場するが、ひとつの劇で全員集合は絶対しないのがシリーズの特徴。筆者は今までvol.2「校舎、ナイトクルージング」vol.3「すれ違う渡り廊下の距離って」を観劇したが、今回改めて通して観ることにした。

 

http://lolowebsite.sub.jp/ITUKOU/wp-content/uploads/2017/01/lolo04fls.jpg

率直にいって、大傑作だと思った。

まとめて観劇すると「そこにいない人々をここに再現すること」というテーマが通底していることに気づく。1では模型、2では録音機、3では伝言、4では絵と短歌と、不在の人やものとつながるための装置が必ず用意されているのだ。特に2の引きこもりラジオ女子逆乙女(望月綾乃)が毎夜学校に忍び込み、昼間に隠し録りしたたくさんの声を再生して真夜中に昼休みを再現する試みは、もちろん笑うところだしめちゃくちゃ笑ったんだけど、同時にとても愛おしい気持ちになる。非常に遠回しであるが故に、大事なことを伝えてくれるコミュニケーションがそこには存在する。むしろコミュニケーションというものは本来不在の人とつながるためのツールなのではないかとすら考えてしまう。シリーズのテーマとして掲げられている「まなざし」も触れられないだれかと仮想的に触れ合うための手段として捉えられているのではないか。vol1から4へと一人ずつ演者の数が減っている(6人から3人へ)ことも、そこにいない人々を増やすことで想像する余地を与えるための仕組みに思える。瑠璃色と茉莉と海荷がいちごミルクを飲んでいるあいだに将門は何をしているだろう、太郎が渡り廊下を往復している時にシュウマイはどこにいたのだろう、朝たちが深夜学校で肝試ししているときに白子は眠っているだろうか。見えない彼らのすがたを想像するのがとても楽しい。

 

vol.1とvol.2、vol.3とvol.4が対になっていることにも気づいた。1と2は同じ教室の昼と夜、3と4は同じ校庭の向こう側(渡り廊下)とこちら側(ベンチ)が舞台になっている。1と2のメインテーマ曲はサニーデイ・サービスで3と4はハイロウズだ。この対立項の関係が「いつ高シリーズ」をより立体的な世界へとビルドアップしている。そして、サニーデイハイロウズもいつかは失われゆく、もしくはそもそも存在しなかった青春を歌っている。だからこそ、温かいメロディと跳ねるようなリズムはとてつもなく冷たい寂しさも同時に連れてくるのだが、三浦直之をはじめとするロロのメンバーは今ここに大切な人がいない事実そのものを肯定するような世界を立ち上げることで、寂しさすらも希望に変えていく。端的にいって、僕は勇気をもらった。やはり、いつ高シリーズはコミュニケーションの定義を刷新するような、そんな画期的な演劇だ。

 

www.youtube.com

 

早稲田松竹「はじめての映画たち~映画作家の初期作品集~」で学生たちの映画を観ました

昨日早稲田松竹で、早稲田大学【映像制作実習】で制作された2作品と黒澤清ドレミファ娘の血は騒ぐ』を観ました。

今週の早稲田松竹は「はじめての映画たち」ということで是枝裕和塚本晋也など日本映画のトップランナーの処女作を上映しているんですが、その中の特別企画として現役の早大学生の作品二本と『ドレミファ娘の血が騒ぐ』の三本立てが昨日から明日まで上映されています。恥ずかしながら黒澤清の映画を一本も観たことがなかったのでちょうどいいと思って高田馬場へ。

 

今週の上映作品 | 2017/3/4〜3/10 | 『萌の朱雀』/『幻の光』/『鉄男』/『その男、凶暴につき』 | 早稲田松竹

 

自分が座った席の後ろには早稲田の学生と思わししき四人組が座り、なかなか楽しい話を聞かせてくれます。「『菊次郎の夏』は最高、他の武映画観たことないけど」とか「いいレビュー書いてるんだから隠さないでいいじゃん」みたいな会話。無言で待つ早稲田松竹に慣れているのでちょっと新鮮でした。

 

学生の映画ということで不安はあったのですが、結果的に行ってよかったと思いました。当然粗はあるんだけど、思った以上にクオリティ高かったし、これから世界に向かっていこうとしている作品がスクリーンに出る事自体にドキドキした。

 

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学生のぎこちなく若々しい挨拶があった後でまずは城真也監督『さようなら、ごくろうさん』。この映画が捉えているのは世界が過ぎ去っていくことのノスタルジアなのだが、それを表現していく方法が鮮烈だった。舞台は過疎地域の小学校、主役となるのは用務員のおじいさんで、学校に警備システムが導入されたためにお払い箱になってしまった後も夜になると校舎に現れては教員に煙たがれている。ある日、おじいさんが学内をさまよっているところに忘れ物をとりにきた小学生男子が現れ、戸惑いながら会話をすすめる。そんな彼ら二人の一夜限りの交流を中心に描かれる映画なのだが、白眉は後半の展開。序盤で導入される写真や鉄棒というアイテムの持つ意味が明らかになるに連れて、胸を締め付けるなにかが少しづつ溢れていく。特に、夜中に逆上がりを練習するもののずっと失敗していた少年が体育の授業で逆上がりに成功するシーンは、隣に座るかわいい女の子へ向ける誇らしげな表情と視線の動きだけで恋心の芽生えを見事に表現していて、その日におじいさんが亡くなっているという設定を考えると余計に切なくなる。また、夜の学校では硝子が鳴ったり机が勝手に移動したりなどの怪奇現象が起きるのだが、それはおじいさんの説明によると遊び相手がいなくて学校が寂しがっているからだという。だれもいない校舎というのはたしかに寂しくて、観ているとなんだか置き去りにされた気持ちになるものだけど、校舎のほうでも寂しがっているというのは視点として新しく、「寂しいのは自分だけじゃない」という安心感を与えてくれた。ここまででも十分に魅力的な作品なのだが、ラストシーン、おじいさんの写真が倒れると同時にカメラが上空へ向かっていき、学校回りの地理の様子を映すと建物が圧倒的に少なくて、本当に過疎化された地域であることが明らかになる。この映像の寂寥感たるや。さらに、この時点で学校が廃校になっているという事実が感情へズンとのしかかってくる。ものがなくなり、人がいなくなる。人間であればだれもが感じる無常感の発露を描いた作品は多くあるだろうが、そのなかでもよりオリジナルな作品に出会えたことが素直に嬉しかった。そうえいば、青年団などでよく芝居を見ていた前原瑞希さんが教員役で出ていて驚いた。

 

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二本目は橋本麻未監督『今晩は、獏ちゃん』。ダメ男の願望が急に現実化して戸惑う設定は『めぞん一刻』などから引き継がれるある種古典的なラブコメのテーマを参照しているといっていいと思う。夢を食べる貘がアイドルとして具現化するというストーリーも夢の描き方も特段目新しいものではないが、終わり方は独特だった。主人公と貘の女の子は一緒になることも明確に別れることもなく、二人が嘔吐感を共有するところで終わりを告げる。なんというか、少し怖い話として決着している。調子に乗ったダメ男に駄目出しするようなラストに思えたのだが、はっきりとした説明はなされない。この消化不良感を作家の技量不足に帰するのは簡単だが、説明のない終着に味のある不気味さが漂っているのはたしかで、今後発展できる可能性は十分にあるように感じた。また、獏役の女の子はチャイナドレスを着た見た目だけでおすのではなく、話し方や仕草で少しずつかわいく感じさせていくところがとてもよかった。

 ちなみに僕としては城監督の作品のほうが好きだったのですが、うしろの学生たちは『今晩は、獏ちゃん』により関心していたみたいです。

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最後は『ドレミファ娘の血は騒ぐ』。これはとんでもない映画だった。赤や黄の看板を使った色の氾濫とインテリじみた言葉の応酬。説明のないエロシーンによるストーリーのぶったぎり。とにかく実験的演出で世界を塗りまくっていて、その中でどこまでも凛々しく清らかに見える(だが劇中で処女ではないと喝破される)洞口依子だけがスッと浮かび上がる。この構造がたまらなく痛快。最後の河原での長回し岡崎京子『リバーズエッジ』のテーマ「平坦な戦場で生き延びること」を8年先取りしている。破天荒な勢いと暴走をギリギリで止める知性の綱引きを存分に楽しんだし、たしかにこれは学生の映画と併せて観ることに意味がある。今まで観ていなかったことを後悔しました。

 

今回の企画は総じてすごくよいものだと思う。やはり世界に向かい合う前の監督の作品が観られるというのは貴重な機会だし、もっとこういうチャレンジはあっていい。もちろん上映されるのが未来のない駄作では観客としては困るが、ある程度厳しいハードルを設ければ十分に魅力的なものになる。そのことを証明して見せた早稲田松竹と早稲田の学生チームには拍手を送りたい。

明日の夜が最後の上映なので、お時間ある人は是非是非。

2016年ベストカルチャー20とサイレント・マイノリティ宣言

 ブログのフォーマットをはてなブログに変えてみました。しゅんです。

 2014年からはじめて三年目になる個人的ベストカルチャー。遅くなってしまったけど2016年をまとめてみます。まずは長ったらしい前置きを。

 

 2016年のいくつかのトピック、ピッチフォークの年間ベストアルバム1位から5位までがすべてビルボードで1位を獲得したものであったこと(4位のボウイ以外は黒人ミュージシャン)、『この世界の片隅に』がキネマ旬報映画芸術の邦画ベスト1位に映画秘宝の2位と主要映画誌のベストを独占したこと、ボブ・ディランノーベル文学賞受賞、芥川賞受賞作『コンビニ人間』のヒット、『フリースタイルダンジョン』を契機とした日本語ラップブームなどは、ある側面から切り取ればひとつの中心を共有した同心円である。その中心点とは一言で言うとこうなる。「ポピュリズムに対抗するポピュリズム」と。

 

pitchfork.com

 大衆社会批判の嚆矢『大衆と反逆』で有名なオルテガ・イ・ガセットは1925年に『芸術の非人間化』という文章(白水社オルテガ著作集 第3巻』収録)の中で、当時諸ジャンルで台頭しつつあった新芸術の特徴を「非人間的」と形容している。それまでの19世紀ロマン主義時代の芸術は感傷的な人間ドラマで人々の現実感覚と感情を刺激した。代表格がワーグナーユゴーのような作家だ。対して、新芸術はそうした人間性の押しつけを拒絶した。ドラマで感動を起こそうとするのは隣人の喜びや苦しみが感染しやすいという人間の弱みを利用しているにすぎない、この感染は精神的なものではなくタマネギを切れば涙が出るのと同じ機械的な反射反応だ。芸術に精神性を与える為には、非人間的で非現実的かつ知的で美的な要素を持たなくてはいけない、芸術作品を芸術そのものとして客観性をもって「観照」できるような力を有しなくてはいけない。こうした意識を持った新たな作家がドビュッシーマラルメ、あるいはプルーストピカソのような作家である。オルテガは以上のような定義付けを行ったのだ。ロマン主義と新芸術の区分けは、大衆娯楽芸術とハイアートという分け方にに近いものとかなり重なるところがある。

 

 

 

 

 二つの区分を同じ時代に並列するものではなく、時代の流れのなかで縦列しているものと見なしているところは興味深いが、オルテガが分析した時代以降その区分けはより曖昧なものとなっているし、ある種使い古された、ステレオタイプな分け方である感は否めない。エリーティズムだと批判する声もあるだろう。だが、重要なのは作り手ではない鑑賞する側の態度にも二通りあることを示したことである。これは映画で考えるとわかりやすい。『タイタニック』や『君の名は』を観てそこで展開される恋物語に感情移入して涙を流す態度と、ゴダールタルコフスキーの映画を前にして知性・感性をフル稼働させて観照する態度の差は明らかに今も存在している。

 この二つの態度を、ここでは仮に前者を「感動派」、後者を「観照派」と名付けよう。

 

 2016年の文化状況の特徴はこの二つの態度の距離が今までにないほど近づいたところにある。もちろん、作品の距離が近づいているせいもある。特に音楽に関しては先日グラミーを争ったアデル、ビヨンセのアルバムをはじめポップフィールドで活躍するアーティストの作品の充実っぷりが顕著だった。だが、ロマン主義と新芸術、あるいは大衆文化とハイアートの混合は今に始まったことではないし、ロックや映画といったここ100年で栄えた芸術フォームはジャンル自体がアマルガム的である。ヒップホップやアニメーションならなおさらだ。接近の理由は作品そのもの以外に見いだせる。それはポピュリズムの隆盛に対する脅威の意識だ。

 

 もう一度オルテガを参照したい。彼の代表作『大衆の反逆』は正にポピュリズムの分析だった。ファシズムの足音が近づく時代、大衆文化が勢いを増す中で、それまで少数者が責任を持って引き受けてきた政治・宗教・文化のリーダーシップを大衆が侵し始めた。オルテガはこの現象に対して厳しく批判的だ。いくつか引用してみよう(引用元はすべて中公クラシックス・寺田和夫訳『大衆の反逆』)

大衆は、すべての差異、秀抜さ、個人的なもの、資質に恵まれたこと、選ばれたものをすべて圧殺するのである。みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、排除される危険にさらされている。この《みんな》が本当の《みんな》でないことは明らかである。《みんな》とは、本来大衆と、大衆から離れた特殊な少数派との複雑な統一体であった

現代の大衆的人間の心理分析表に、二つの重要な特性を書き込むことが出来る。生の欲望の、したがって、かれの性格の無制限な拡大と、かれの生活の便宜を可能にしてくれた全てのものにたいする、まったくの忘恩である。

社会生活の諸事実に注意を払いながら、この大衆的人間の心理構造を研究すれば、次のことがわかる。

(1)大衆的人間は、生は容易であり、ありあまるほど豊かであり、悲劇的な制限はないというふうに、心底から、生まれたときから感じており、従って、各平均人は自分のなかに支配と勝利の実感をいだいている。

(2)そのことから、あるがままの自分に確信をもち、自分の道徳的・知的資質はすぐれており、完全であると考えるようになる。この自己満足から、外部の権威に対して自己を閉鎖してしまい、耳をかさず、自分の意見に疑いを持たず、他人を考慮に入れないようにする。たえず彼の内部にある支配感情に刺激されて、支配力を行使したがる。そこで、自分とその同類だけが世界に存在しているかのように行動することになるだろう。

したがって(3)慎重さも熟慮も手続きも保留もなく、いわば《直接行動》の制度によって、すべてのことに介入し、自分の凡庸な意見を押し付けようとするだろう。

 

 これらの言葉は、恐ろしいことに本の発行から100年近く経った現代の大衆にも驚くほどあてはまる。いや、むしろインターネットの発達以降、オルテガにより描出された排他性・忘恩性・自己中心性・自己閉鎖性が世界中で加速度的に強まっているように感じる。有名人の不祥事やスキャンダルへの執拗な中傷、揶揄などは我々の身近でみられる卑近な典型例だろう。そして、大衆化・ポピュリズム現象は当然ながら政治の中心にもおよび、その象徴は言うまでもなく第45代アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプである。

www.huffingtonpost.jp

 冒頭にあげた幾つかのトピックは、ポピュリズムに抗する為に、観照派に位置する批評文化が感動派を巻き込もうした結果ではないか。世界を包み込まんとしている薄暗い脅威から身を守る為に兵を集めようとしているのではないか。そうした想いがどこか無意識的に働いてはいないか。ビヨンセも『この世界の片隅に』も日本語ラップも貧困、反戦、あるいは反差別といったテーマを共有している。「正しさ」が売りになっているのだ(それが作家の本意かどうかは置いておいて)。

 

 そんな現象に共感を覚える部分は筆者にもある。だが、今はそれ以上に違和感が強い。数に対して数で対抗するのは手段として適切なのか。数字という見える形で勝たないと安心できないのか。それはもう一つのポピュリズムを生み出すだけではないか。

 オルテガは大衆の反語としての「貴族」、地位としてではなく責任と義務感を持った少数者としての貴族を称揚した。だが、『大衆の反逆』は大衆批判の書ではあるが、決して大衆を覚醒させんとするアジテーションの書ではなかった。なぜなら大衆に貴族観念を植え付けようとしたその瞬間に、貴族としての自負は最も堕落したポピュリズム、つまりファシズムに転換するからだ。あくまでも個として、孤独の中で自らに課した義務を全うすること以外に人類を救う道はないと考えたところにオルテガの慧眼はあった。大衆心理に最も精通した男の一人、秋元康が2016年に「No!といいなよ!サイレントマジョリティ」と少女たちに歌わせたことはとても象徴的だ。

 それならば文化も、藝術も、数を価値とせず、孤独に臆することなくサイレントにマイノリティの道を進むべきではないか。少なくとも、鑑賞者として、音楽や文学を愛するものとしては、感情に溺れることなく、オートマティックな感動に踊らされることもなく、エリート的だと非難され用とも「観照派」でありたい。もちろん二つの異なる態度に橋をかけることはとても大切だし、マスとコアを行き来する重要な表現はたくさん存在する。だが、今表現に携わるものに必要とされるのは、自らが課した義務を淡々と遂行していく、いじけることも媚びることもしない自律した姿勢なのではないか。

 

 

参考→199夜『大衆の反逆』オルテガ・イ・ガセット|松岡正剛の千夜千冊

 

 ランキングは2016年に日本で発表された小説、映画、演劇、音楽アルバム、ライヴ・コンサートのなかから選んだ。順位を決めたときは上に書いたような考えをまとめていなかったけれど、1~3位あたりを見ると無意識に感じていたことなんだなと実感する。

僕の言葉がかなりの暴論を含んでいるのは承知の上だし、なるべく丁寧に書こうと心がけたが、それこそ欅坂46のそれぞれのメンバーの違いを見ずに「同質な少女たち」と決めつけてしまうような誤りもあるだろう。だが、ジャンルを貫通したときだけに見えてくる概念やイメージを素描することは批評行為を豊かにしてくれるものだし、それがひとつのところに居座れるような落ち着きを持たない(自信を持って自分のフィールドだと言える場所のない)自分のような人間が文化に貢献できる数少ないポイントだろう。なにより孤独を恐れてはいけないということは、断言と批判を恐れてはいけないということだ。

というわけで、前段が長くなったのでベストはサクッと書きます。

 

20.Damien Dubrovnik(12月6日原宿アストロホール)

Marching Churchとのカップリング公演だけど、今回はDamienに軍配。マイクからノイズが出るエフェクトの猥雑さと白シャツを着て髪を後ろになでつけたLoke Rahbekの高貴なビジュアルの組み合わせに息を呑んだ。2015年にLAで観た時以上の完成度。

 

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19.ダリボル・マタニッチ/灼熱

アドリア海に面したクロアチアの小さな村を舞台に、1991年、2001年、2011年と異なる時代の3つの恋物語を同じ俳優が演じる。女はセルビア人、男はクロアチア人であることが彼らの関係に深い亀裂を生じさせている。

偶然と運命のいたずらを描くプロットや3つの話が少しずつ繋がっている感じ、音楽をストーリーの中で有効に機能させていく技術はキェシロフスキのトリコロール三部作や『偶然』を思い起こさせる。それぞれの話がどれもおもしろい上に力強くリンクしてくるから、観終わった後の満足感がすごかった。

 

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18.宮沢章夫/子どもたちは未来のように笑う(駒場アゴラ劇場 9月12日)

子どもを産むことと社会との関係の今。俳優を追いつめるような最後のセリフの応酬は衝撃的だった。

http://tachesong.jugem.jp/?eid=79 

 

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17.Ryoji Ikeda(10月29日渋谷WWW-X)

こちらはMerzbowとの対バン。Merzbowのノイズ金太郎飴っぷりも素晴らしかったが、Ryoji Ikedaの白黒映像とリズミカルに刻まれるノイズ音の同調は絶品だった。精神が洗われて、あたらしい視界を獲得したかのようなライヴ後の余韻。

 

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16.堀江 敏幸/その姿の消し方

そっけない風景の絵はがきに書かれた詩のような言葉。その言葉に導かれるように「私」は詩人の孫、生前の詩人を知るもの、古物市を生業にする人々との出会いと触れ合いを重ねていく。詩人の記憶、人々の記憶、「私」の記憶がすれ違っては重なる。その記憶の重みが本書の魅力だろう。文章の短さ、軽さ、淡さがその重みをより鮮やかに浮かびあげる。

 

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15.Fat White Family/Songs For My Mother

ブルースとガレージとクラウトロックが混ざった、酩酊感たっぷりのやさぐれロックンロールミュージック。演奏技術を一切磨かなずにぶっ飛び感だけ追求してる感じがエレガント。今年一番バンド的な魅力を放っていた存在だった。

 

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14.滝口 悠生/死んでいない者たち

芥川賞受賞作。最初読んだ時は醒めた目線で書いてるように感じたが、再読するとそんなことはない。思った以上にエモーショナルだ。人が縁によりつながっていることの厄介さを厄介なまま祝福したいという思い、忘れ去られてしまう記憶や感情を文章の中で残したいという思いが強く迸っている。一家のはぐれものであり読者に忘れがたい印象を残す男、美之はまるで音楽の体をなさない記憶そのもののような音楽をインターネット上に公開する。この何気ない挿話は思いの外重要だ。すべてはつながっているという本作のテーマを凝縮しているが故に。

 

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13.地点/かもめ(吉祥寺シアター 12月13日)

普通にやったら3時間はかかる『かもめ』を80分に凝縮しているあたりがすでに批評的。チェーホフのメロドラマ性をとことん排除して、喜劇性をフルスロットルにしたところがすごい。

 

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12.エドゥアルド・ハルフォン/ポーランドのボクサー

グァテマラ出身ユダヤ人作家の、作家自身が語り手として登場するオートフィクション的短編集。全ての短編が密接に繋がっていて、長編を手にしたかのような読後感を覚える。

「短篇小説は僕たちに見えるもの、読めるものですが、整理してみると何かそれ以上のもの、見えないけれど、それでもここに、つまり行間に、暗示的に存在する何かにもなるんです。」というのは冒頭の短編『彼方の』に登場する学生の言葉だが、この小説集全体の企図を完璧に言い表している。作家本人が語り手の、12の物語によって成された複雑なつづれおり。グァテマラとテルアビブとベオグラードアウシュヴィッツを280ページの中で行き来したので体全体がヘトヘトになった。

 

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11.ブレイディみかこ/This Is Japan

彼女の文章の強さは、おそらく「自分が実際に体験したこと以外は絶対に書かない」という線引きを守れるところから来ている。この態度、言うは易く行うは難しいものの代表格で、実行するには常に常に足を動かし続けなければいけない。普通は無理。だが、彼女はしぶとさとしなやかさで泥臭くこなしていく、だからこそ、保育や経済について英国と日本の比較をする時も、どちらが優れているという話に終わらせずにそれぞれの欠点を的確に指摘できる。思うことあげたらキリがないけど、とりあえずめちゃくちゃおもしろいってことは強調しておきたいです。

 

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10.東京デスロック/Peace(at any cost?)(3月25日キラリ富士見)

戦争、地震原発などに関する様々な文書、津波で母親を無くした少女の作文、震災時に外国から日本へ寄せられた文章、マララ・ユスフザイさんのノーベル賞受賞スピーチ、東京五輪召致に際して原発はアンダーコントロールされていると全世界に言い放った首相のスピーチなどを次々と演者が朗読していく。客席とステージにはロープが張られているだけ。ロープのこちら側には喪服の女性が数人紛れ、彼女たちも立ち上がり朗読に参加する。やがて、観客の座っていた白い床がはがされ、そこからは世界中の惨状を映した写真が現れる。

会場全体が悲鳴を起こすような、世界の引き裂かれ方を具現化するような2時間。既存の言葉だけを再構築するだけで起きる大きなうねりは衝撃的だった。

 

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9.Frank Ocean/Blonde

正直まだまだリリックなど咀嚼しきれていない部分も多々あるのだが、音像のオリジナルっぷりとポップの両立を考えるといれないわけにいかなかった。圧倒的に心地いいしな。ピッチフォークの年間ベスト2位がこれ。他のベストに選ばれた作品、ソランジュやカニエの作品に比べても、めっちゃ変な作品。ヒップホップとインディーロック、クラブカルチャーのミックスの先達となったカニエ『My Dark Beautiful Twisted Fantasy』を『Never Mind The Bollocks』、シリアスなメッセージと豊富な音楽性が特徴のケンドリック・ラマー『To Pimp A Butterfly』を『London Calling』とするなら、『Blonde』はシーンに対する醒めた批評として機能したJoy Division『Closer』に近い作品なのではないか。これからも聴き続けるでしょう。

 

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8.中野成樹+フランケンズ/カラカラ天気と5人の紳士たち(STスポット横浜 12月28日)

今年一番希望を感じた作品かもしれない。別役実が90年代に書いた戯曲が原作。『ゴトーをまちながら』的な不条理性とキャラクターの生真面目さによって生まれる笑い。「我々は死を待つことができる」という言葉は、今の時代には皮肉でもなんでもない勇気の言葉として響いた。

 

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7.Kamasi Washington(7月24日、フジロックフェスティバル

演奏力で一番もってかれたのがこのライヴ。メンバー全員がテクニシャンで、とくにダブルドラムはどれだけ激しいフィルを叩いた後でも一切ズレない息の合い方がすごかった。ドラムンベース風のスピード感ある曲からゆったりとしたグルーヴのソウルナンバーまで、曲調もヴァラエティに富んでいて楽しい。優れた音楽は疲労感を吹き飛ばす。

 

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6.Danny Brown/Atrocity Exhibition

 デトロイト出身ラッパーのサードアルバム。今までまともに聴いてなかったのを反省。Joy Divisionの曲名から引用したアルバムタイトル(元はJ.G.バラードの小説の名前)が示すように、ポストパンク的な引き攣った音像と不穏なコードが特徴のトラックに独特の甲高いフロウが乗っかる。その不機嫌で攻撃的な音楽はJoy DivisionよりもPILの『Metal Box』を想起させる。百花繚乱の米ヒップホップ界のなかでもひときわオリジナルな存在。

 

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5.Flight Facilities(7月22日、フジロックフェスティバル

全ての音・メロディ・ステージ演出が踊るために機能する最高のダンス空間。適切に配置された音からは健康的な官能性が滲み出ていた。

 

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4.山田 尚子/聲の形

橋の上の再会シーンは三回観ても泣く。映画であることに意味があるアニメ。本当に観に行って良かった。

http://tachesong.jugem.jp/?eid=102

 

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3.アピチャッポン・ウィーラセタクン/光りの墓

2016年はアピチャッポン・ウィーラセタクンの年だった。『光りの墓』の公開に全長編映画の特集上映、さいたまトリエンナーレのアート展示に東京都写真美術館の『亡霊たち』。『光りの墓』にグッときて以降、すっかり私にとっても重要な作家になった。三層の異なる時代の記憶が、二つの体のなかで一つに重なりあうロマンティックな本作は、現実に対するクリティックな視線を持ちながらも、柔らかい夢のような優しさで観る者を包み込む。

 

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2.マイケル・ドゥドク・ドゥ・ヴィット/レッドタートル

難解さの一切ない、究極にシンプルな物語とどこをとっても美しい画面の質感。空の青さが時に応じて変化していたり、森が虫のような動きで蠢いていたり、蟹が砂浜を歩いていたり、そうしたものを眺めているときに訪れるなにか大きな歓び。世界中のどこよりも幸福な81分間があると思った。

 

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1.木下古栗/グローバライズ

巧みすぎる描写力がどこまでもひどい内容にしか向かっていかないことに感動を覚える。だけど、ここにある嫌悪感や違和感や笑いはトランプ以降の世界のスケッチとして非常に的確。『GROBARISE』の世界を、我々は生きている。「WE ARE THE WORLD」の意味が反転する世界を。

 

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以上です。

ここ数ヶ月で長年逡巡していた個人的な問題から解かれたような感覚があり、それを表してみようと思った結果が今回の長めの文になったかと思います。

2016年は今まで距離をとっていた映画にがっつりと入り込むことになりまして、なんでもっと早くハマらなかったのだろうと若干後悔している最中です。

多くの人や作品に助けられた実感が年を追うごとにより強くなっている気がします。

自分が文章を書くのが、というか言葉が好きな人間だなというのが最近よくわかったので、ブログの更新頻度は高くなると思います。

だいぶ遅くなりましたが、2017年もよろしくお願いします。

 

 

おまけで各分野のベストのっけておきます。

 

アルバムベスト2

1.Danny Brown/Atrocity Exhibition

2.Frank Ocean/Blonde

3.Fat White Family/Songs For My Mother

4.Kaumwald/Rapa Nui Clan

5.Beyonce/Lemonade

6.宇多田ヒカル/Fantome

7.David Bowie/★

8.CtM/Suite For a Young Girl

9.Esperanza Spalding/Emily's D+Evolution/

10.Rihanna/Anti

11.Julianna Barwick/Wil

12.Paul Simon/Stranger To Stranger

13.Kanye West/Life Of The Pablo

14.Noname/Telefone

15.Anderson Paak/Malibu

16.PJ Harvey/The Hope Six Demolition Project

17.Car Seat Headrest/Teens Of Denial

18.The Novembers/Hallelujah

19.Diiv/Is The Is Are

20.Babyfather/BBF Hosted By DJ Escrow

 

ライヴ・コンサートベスト10

1.Flight Facilities(7月22日、フジロックフェスティバル

2.Kamasi Washington(7月24日、フジロックフェスティバル

3.Ryoji Ikeda(10月29日、渋谷WWW-X)

4.Damien Dubrobnik(12月6日、原宿アストロホール

5.Aca Seca Trio(8月31日、渋谷WWW)

6.Radiohead(8月21日、サマーソニック

7.The Novembers(11月11日、新木場スタジオコースト

8.Christian Scott(10月30日、Blue Note Tokyo

9.Anderson Paak(9月21日、恵比寿リキッドルーム

10.NHK交響楽団、オール・ガーシュイン・プログラム(指揮:ジョン・アクセルロッド、ピアノ:山中千尋)(8月17日東京藝術劇場)

 

書物ベスト10(国内)

1.木下古栗/グローバライズ

2.ブレイディみかこ/This Is Japan

3.滝口悠生/死んでいない者たち

4.堀江敏幸/その姿の消し方

5.佐藤亜紀/吸血鬼

6.青木淳吾/学校の近くの家

7.奥泉光/ビ・ビ・ビ・ビバップ

8.藤井光/ターミナルから荒れ地へ 「アメリカ」なき時代のアメリカ文学

9.山田詠美/珠玉の短編

10.夏目深雪+金子遊(編)/アピチャッポン・ウィーラセタクン 光と記憶のアーティスト

 

書物ベスト10(海外)

1.エドゥアルド・ハルフォン/ポーランドのボクサー

2.ノヴァイオレット・ブラワヨ/あたらしい名前

3.エマニュエル・キャレール/リモノフ

4.アンソニー・ドーア/全ての見えない光

5.フアン・ガブリエル・バスケス/コスタグアナ秘史

6.フェルナンド・イワサキ/ペルーの異端審問

7.ジョイス・キャロル・オーツ/邪眼

8.レイナルド・アレナス/襲撃

9.ブライアン・エヴンソン/ウィンドアイ

10.アンナ・スタロビネツ/むずかしい年ごろ

映画ベスト2

1.マイケル・ドゥドク・ドゥ・ヴィット/レッドタートル

2.アピチャッポン・ウィーラセタクン/光りの墓

3.山田 尚子/聲の形

4.ダリボル・マタニッチ/灼熱

5.トッド・ヘインズ/キャロル

6.ジャ・ジャンク―/山河ノスタルジア

7.オタール・イオセリアーニ/皆さま、ごきげんよう

8.ジョアン・ペドロ・ロドリゲス/鳥類学者

9.庵野秀明/シンゴジラ

10.ルシール・アザリロヴィック/エヴォリューション

11.リチャード・リンクレイター/エヴリバディ・ウォンツ・サム

12.クリント・イーストウッド/ハドソン川の奇跡

13.深田晃司/淵に立つ

14.片淵須直/この世界の片隅に

15.ブラディ・コーベット/シークレットオブモンスター

16.イエジー・スコリモフスキ/イレブン・ミニッツ

17.バイロン・ハワード、リッチ・ムーア/ズートピア

18.ペドロ・コスタ/ホース・マネー

19.ジャック・オーディアール/ディーパンの闘い

20.小路紘史/ケンとカズ

 

演劇ベスト10

1.中野成樹+フランケンズ/カラカラ天気と5人の紳士たち

2.東京デスロック/Peace(at any cost?)(キラリ富士見、3月25日)

3.地点/かもめ(吉祥寺シアター、12月13日)

4.宮沢章夫/子どもたちは未来のように笑う(駒場アゴラ劇場 、9月11日)

5.はいばい/おとこたち(東京藝術劇場、4月2日)

6.範宙遊泳/昔々日本(東京藝術劇場、9月12日)

7.小田尚稔/是でいいのだ(新宿眼科画廊、10月12日)

8.青年団/ニッポンサポートセンター(吉祥寺シアター、6月29日)

9.Wけんじ/ザ・レジスタンス(駒場アゴラ劇場、5月4日)

10.青年団リンク ホエイ/麦とクシャミ(駒場アゴラ劇場、8月14日)