I was only joking

音楽・文学・映画・演劇など。アボカドベイビー。

小松台東『山笑う』と「外のない人々」について

小説家の保坂和志はインタビューでこのようなことを語っている。

ぼくにとってまず世界とか人生とかを外側から見る視点をいかに自分のなかから完全になくしていくかということだから。世界というのは外から見えない、自分の人生とかも外から見えないわけでね。外から見えるというその救いみたいな出口みたいなものは、ひとが知的なひとたちとそうじゃないひとたちって現実にいるわけでさ、知的なひとたちってそういった俯瞰的思考ができるようになっているんだよね。(中略)それによってほんとうに自分の人生が豊かになるかといえばちがうと思うんだよ。それで人生を歩めるか、人生をもっとも充実させられるかといえば、外に出てしまうやり方はダメなんだよ。人生や世界を外から見ない訓練を徹底していかないと充実したものにならないんだよ。 『世界の外に立たない思考 ベケットカフカ小島信夫』【別冊ele-king 読書夜話】より

 

三鷹市芸術文化センターで小松台東の『山笑う』を観ながらぼくは保坂和志いうところの「人生や世界を外から見ない」人々のことを考えていた。母の通夜に、男を連れて東京から宮崎に帰ってきた妹に対してこんがらかった感情を抱える兄夫婦、その息子と夫婦の友人らを混ぜた家族劇。はじめは宮崎弁の語気の強さに怖れをなすが、やがてそれぞれの人間関係、状況、想いなどが明らかになってくるにつれて気づいたら言葉の癖にもなれている。

 

小松台東|komatsudai.com

 

「外」から見れば、全ての登場人物には何らかの欠陥があり、決して褒められた態度はとっていない。がなり声で妻に父権をふりまわしながら妹をこっぴどく責め立てる兄、その場で最年長なのに気が小さく会話の飲み込みも遅い妹の彼氏(?)、やたら人との距離が近く酒癖の悪い兄の友人。「世間」を気にしているのかと思えばそこから逸脱した行動や発言がいくつも飛び出してきて、公演時間100分のなかで観客を何度も笑わせるわけだけど、『山笑う』を観ることはそのまま「人生や世界を外から見ない訓練」となっているのではないかと思った。この作品は登場人物たちを肯定も否定もしていない。いや、肯定しているのかもしれないが、そこに論理として説明できるような理由はない。ただ、無条件で抱きしめている。昨日、新文芸座観たチェコのイジー・メンツェルによる映画『剃髪式』も、外からの視点を持たない愚かな人々を無条件に抱きしめるような大らかな作品だった。声がデカすぎる人物が出てくるところも共通している。

 

indietokyo.com

 

この無条件さは、キリスト教の隣人愛とは違うのだろうか。おそらく、違う。少なくとも、教えを広げて宣教を他者にほどこすような啓蒙を含んだ隣人愛とは違う。それはただ、自分に偶発的に与えられた環境のなかで、関係を持つことになった(「隣人」となった)存在を引き受けること。有限を受け入れることだ。無限の神の愛ではない。『山笑う』を観ることは、有限性から立ち現れる豊かさに触れる体験だ。小賢しく外を伺いながら生きることに慣れてしまっている人間(間違いなくぼくもその一員だ)の凝り固まった思考をほぐすような時間が、そこには流れていた。

 

ぼくは、「ではこの劇を論ずることは外側に立つことと同義なのではないか」と訝しんでいるわけで、批評とはそもそも「外側に立つこと」が条件となっている行為なのではないかと思ったりする。だけれど、なにかについて語る批評の営為に強く惹かれているのも事実。「外側に立たないこと」と「批評すること」のと間の解消不可能にも思える矛盾とどう対峙していくか。その答えが出ているわけでもないのだけど、作り手に直接語りかけることと、それ以外の第三者的な読み手に直接語りかけること。説明はできないが、この二つのダイレクトな語りが両立するような言葉が必要になってくるのだと思う。こんなことを、最近ずっと考えている気がする。ただまぁ、作劇もある種「外側から観る作業」だしなぁ。批評に限った話ではないのかもしれない。

 

自分の話が少し長くなってしまったが、『山笑う』はユーモアとペーソスが少しずつにじむ様が素晴らしい作品です。最後のライト消灯の瞬間に感じた愛しさのようななにかが今でも体に残っている。是非観てみてください。

 

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ジャック・リヴェット、13時間の傑作『アウト・ワン』を観た

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5月6日と7日にクラウドファンディング出資者限定で、昨年亡くなったジャック・リヴェット監督の12時間43分に及ぶ1971年の大作『アウト・ワン』の上映が都内某所で行われた。

 

indietokyo.com

 

『アウト・ワン』は8つのエピソードに分かれたパリの若者達の群像劇であるが、厳密な脚本は用意されておらず、役者の演技を観ながら即興的に作られていったという話である。話の中心には二つの劇団がいて、彼らはそれぞれアイスキュロスの劇の上演のためにいささか前衛的な雰囲気のリハーサルを日々行っている。そこにジャン=ピエール・レオ演じるコランと、ジュリエット・ベルト演じるフレデリックという二人のアウトサイダーが絡んでいき、次第にバルザックの小説から取られた《13人組》という秘密結社の存在が浮き彫りになってくる。13時間という異様な上映時間もこの《13人組》から決められたものだとリヴェットは語っている(Indie Tokyo作成の本作パンフレット参照)。

 

最後まで観れば明らかなように、この映画は68年のパリ5月革命の残滓についての映画であり、激動の時代に賭けた青春を取り戻そうとして挫折する物語が中心にある。ラストの8エピソードにおける73分は夢が音を立てて瓦解していく様を克明に記録しており、映画が終わってしまうという事実認識と相まって観ていてかなり切ない気持ちにさせられた。だが、最後のカットの突然の挿入にはとても驚かされたし、切なさが一気に飛んでいった。ある方法でラストカットは予告されているものの、それでもあの一瞬の映像には驚愕せざるを得ない。本作はおそらく予算の限界もあって一つのカメラでの長回しが多用されるが、継続される映像の流れの中に短いカットが挿入されることで観客をハッと驚かせる効果が生まれている場面がいくつかあり、最後のカットはその最たるものだろう。こうした異化作用から感じられるリヴェット流の遊び心が、「革命の挫折」の裏側にあるもう一つのテーマと言えるかもしれない。

 

その遊びがもっとも画面に表出してくるのは色彩によってである。本作の中で特権的位置を占めている色がひとつだけあり、それはオレンジ・橙色だ。序盤から、服装や小道具、例えばマイケル・ロンズデールが演じるトマの劇団のプライマルスクリーム療法的リハーサル(参加者全員が思いのままに叫んだり這いずり回ったりする)でオレンジのトルソーに皆が纏わり付く場面やベルナデット・ラフォン演じるスランプの小説家サラの部屋にオレンジの花が花瓶にいくつも挿してあったりする。登場するいくつかのカフェの椅子はことごとくオレンジ色だし、壁紙やソファの色もオレンジがやけに多い。このオレンジの存在感はどんどん積み重なっていき、後半に流れる血の色までがオレンジに染まっている。

 

また、数字も重要なモチーフであることは疑い得ない。なにせタイトルに「1」という数字が含まれた、「8」つのエピソードに分かれた、『13人組物語』を基にした「13」時間の映画である。電話番号や住所、ジュリエット・ベルトがつぶやく数字の羅列など暗号めいた数字がいくつも現れるが、ここで注目されるのは1、8、13をすべて含む数列、フィボナッチ数列だろう。

 

org.kk-online.jp

 

フィボナッチ数列とは大雑把にいえば「直前の二つの数の和が次の数になる」数列でああり、

「1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89、144・・・」と続いていく。

この数列の特徴は「となりの数との差がどんどん大きくなっていくこと」にある。『アウト・ワン』は明確なストーリーやひとつの目的に収縮するのではなく、どんどん拡散していく意志をもった映画であり、その性質はフィボナッチ数列と共有されたものだと言えよう。タイトルに含まれる「アウト」という単語も、単一性の外へ外へと広がる運動の現れである。だから、この映画を画一的な意味で解釈することには、決定的な過ちとなると言っていい。批評自体も、外へと進んでいかなければいけない。

 

他にも、ピストルや帽子やたばこなど強烈な存在感を主張するアイテムがいくつも存在し、バルザックアイスキュロスルイス・キャロル作品とのインターテクスチュアリティも忘れてはいけない要素だろう。ともあれ、この映画には多くの遊戯成分が含まれており、製作陣の意図を超えたところまでそれは浸透していく。ここで映像ににじむ遊びの在り方に深く言及するとキリがなくなるので止めておくが、一言だけ、『アウト・ワン』と戯れることは、映画の本質、さらには生きることそのものの本質へ触れることにもなる、とは明言しても許されるだろう。

 

そういえば、もうひとつ観ていて驚いたのは71年のパリの姿が現代とさして変化していないこと。筆者は2015年にパリへ訪れているが、街の様子にはほとんど違いがなく、ファッションなどの風俗に関しても、ヒッピー文化が現代では廃れていることをのぞけば大きな差異はないように見受けられた。71年の日本は今と比べて決定的な差があるだろうし、当然もっと古びたものに感じるはずである。この変化のなさはヨーロッパの町並み全般に言えることなのかもしれないが、もしかしたら西洋人と日本人では、この50年に対する時間感覚が大きく異なるのかもしれない。

 

最後に、今回の上映を実現してくださった大寺眞輔さん、およびIndie Tokyoの皆様には感謝の言葉しかありません。フィルム権利の買取にはじまり、字幕翻訳、パンフレット等グッズ類作成、上映場所の検討・交渉・準備など、相当の苦労と時間を費やしたはずです。本当にありがとうございます。

来週には京都での上映も控えているし、東京での再上映の検討もされているとのこと。予定があえば是非もう一度みたいです。さらに13時間かけても全然苦にならないぞ。

映画『夜は短し歩けよ乙女』は『ラ・ラ・ランド』の完璧な陰画である

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森見登美彦原作、湯浅政明監督のアニメーション映画『夜は短し歩けよ乙女』を観ました。同じスタッフ陣によるアニメ『四畳半神話体系』は観ていない(正確には3話まで観てそこから先を観ていない)ので今回がはじめての湯浅作品。原作は読んでいるはずだがぼんやりとしか覚えていない。

kurokaminootome.com

 話は自意識だけが発達したうだつの上がらない大学生(「先輩」とだけ呼ばれていて名前は明かされない)が後輩の黒髪の女の子(こちらも「乙女」という呼び名しか与えられない)に恋して、彼女を追いかけるうちにあらゆる災難・騒動に巻き込まれるドタバタな喜劇。ブログのタイトルで示した通り、この映画は『ラ・ラ・ランド』を想起させる要素がいくつもある。かなり突飛な比較に感じるかもしれないが、Filmarksに感想をかいているうちに直接的影響があるとはまず考えられない二つがどうにも結ぶついていると思えて仕方なくなった。だが、最終的にはこの二作は真逆のところへ着地する。

 

ラ・ラ・ランド』が一言でどういう映画だったかというと、あれは「セカイ系ミュージカル映画」だと思う。つまり「ボクとキミ」という関係性がそのまま世界の実存の問題に直結する、無論世界の危機などが描かれるわけではないが、主人公二人の他者との関係や勤務態度を見ていくと、二人の夢と恋が世界の全てであるという世界観ができあがっていることがわかる。『セッション』も同様だが、ディミアン・チャゼル監督は観客に完璧な没入を要求する。宇田丸も指摘するように、彼の映画を愛する為には主人公二人への一体化が必要であり、醒めた視点を持ち込んだ時点で熱は冷めてしまうのだ。

【映画評書き起こし】宇多丸、『ラ・ラ・ランド』を語る!(2017.3.11放送)|TBSラジオAM954+FM90.5~聞けば、見えてくる~

 

夜は短し歩けよ乙女』と『ラ・ラ・ランド』の共通点として、まず色彩と引用の氾濫が挙げられる。ミュージカルシーンの衣装にみられるように『ラ・ラ・ランド』の色使いも多彩だが、『夜は短し〜』の色の多さは凄まじく、とにかく赤、緑、橙、金、紫などなどあらゆる色彩が、それも徹底的な繊細さで鮮やかに組み合わせられていく。夜空の少し緑がかった黒など、絶妙な色指定には目を見張るものがある。

引用に関しては、『ラ・ラ・ランド』が映画なのに対し『夜は短し〜』は文学である。古本市のシーンに顕著なように、谷崎、太宰、三島などの近代日本文学からデュマやオスカーワイルドなどの西洋文学、あるいは萩尾望都大島弓子などの少女マンガから江戸時代の春画、さらには森見登美彦の作品というメタ言及まで、ありとあらゆる文学作品が引用される。

この古本市のくだりに印象的な場面がある。それは「古本市の神様」と自称する小僧(『四畳半〜』の小津の反映)が本のつながりについて力説するところだ。「〜が書いた小説を批判したのが〜で、その〜が死んだときの追悼文を書いたのが〜で」という風にあらゆる作品、作家がなんらかの関連性を持ってひとつの宇宙を形成していくことを小僧は「乙女」に説明するのである。

他にも、「全ては繋がっている」という認識を促す場面が本作にはいくつかある。明確なのは「乙女」が京都一の金貸しである李白が自らの孤独を嘆くときに「あなたはひとりじゃない、全ては繋がっているんです」と慰めるシーンだし、最初の飲み歩きシーンも学園祭での非認可移動演劇もつながりを強調するものだった。この映画は一夜のうちに春〜冬の四季が全てやってくるという構成をもっているが(この四季構成も『ラ・ラ・ランド』と共通する)、実は四季の話それぞれにつながりに関する挿話がまぎれているのだ。

「全ては繋がっている」という言葉は人を励ましもするが、ある種残酷な言葉でもある。それは人の自閉を許さないし、人が意図せずとも誰かを傷つけているという事実を明るみにだすものだからだ。『プラネテス』と『ザ・ワールド・イズ・マイン』という二つの傑出したマンガがそのことを証明している。

haguki-kuzu.hatenablog.com

diskdisk.link

 

『夜は短し〜』はつながりを映していく映画だから、主人公の思い込みは冒頭から相対化される。「先輩」の「乙女」に対する想い、行動はひたすらに滑稽だし、彼の思い込みの強さと現実のあっけなさとの落差は多くの森見小説の動力源となる構造だ。だが、後でみるように、その構造は映画の後半で崩れていくことになる。

ラ・ラ・ランド』とのもうひとつの大きな共通点に平面性と奥行きとの対比がある。『ラ・ラ・ランド』ではジャズバーや車道を真正面から横長に映したショットなど、前半から中盤にかけて奥行きを欠いた平らな場面構成が多用されるが、最後にライアン・ゴズリングエマ・ストーンが出会う場面は奥行きの強い画面で映されることになる。この対比は、夢と現実の対比のアナロジーとして捉えることが可能で、ひたすらにLAの夢の中でまどろんでいた二人が目覚める演出として、平面から奥行き、二次元から三次元への急な転換が起こるように見える。『セッション』で悪夢の再現を行ったディミアン・チャゼルは『ラ・ラ・ランド』では夢からの覚醒を描いてみせた。先程、チャゼル映画の特徴として主役への没入性を挙げたが、『ラ・ラ・ランド』では最後の最後に相対化が為されるのである。

対して、『夜は短し〜』では冒頭の飲み会のシーンから「先輩」と「乙女」の位置関係がかなりの奥行きと距離感をもっているが、後半、学園祭でのミュージカルシーン以降(このミュージカルシーンはあまり評判がよろしくないが、ミュージカルのパブリックイメージを逆手にとった阿呆らしさが観ていてとても楽しかったし、なにがそんなに批判されるのか理解できていない)は平面的な画面構造が多用されるようになり、描かれる世界全体が京都という閉域であることが明らかになり(『ラ・ラ・ランド』のLAとも共通した世界観)、そこから「先輩」の長い夢の中へと物語は落ちていく。その後に現実と思い込みとの緊張が解消されるあるシーンがやってくる。つまり、『夜は短し〜』は現実から夢へと話が進んでいて、夢から現実へと切り替わる『ラ・ラ・ランド』とは全く逆のベクトルを有しているのである。『ラ・ラ・ランド』が「狭い夢に囚われた若者が、広がる現実の豊かさに気づくまでの物語」だとすれば、『夜は短し〜』は「現実の重さに囚われた若者が、軽やかな夢を信じられるようになるまでの物語」なのである。そして、『夜は短し〜』では「全ては繋がってる」という認識を強調することで夢と現実をむすびつけて、夢をうわついた妄想から区別された意志の産物として描くことに成功する。「わたしも風邪を引いたみたいです…」という乙女の言葉がかくも感動的に響くのは、現実を受け入れたが故にひとつの願いが成就するという流れを丁寧に描いた結果であり、それまで執拗に描かれた現実と妄想の重さから解放されるフィーリングが花澤香菜の発する声のいじらしさによって見事に表現されるからなのだ。夢や願いを肯定的に描き出すその強度に、大変感嘆しました。動きの面白さも、前述した色彩の鮮やかさも、キャラクターの個性の力もあるし、非常に贅沢で素晴らしい作品です。おすすめ。

デュレンマット『ギリシア人男性、ギリシア人女性を求む』は今真っ先に読むべき海外文学です

はじめての海外文学、何を読めばいいのかーーこんな風に問われたら今なら僕はこの一冊を勧める。

U209 ギリシア人男性、ギリシア人女性を求む - 白水社

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フリードリッヒ・デュレンマット(1921〜1990)はスイス生まれのドイツ語劇作家・小説家であり、この素っ頓狂なタイトルの小説は1954年に発表された。デュレンマットの作品を読むと、こんなおもしろくてヨーロッパで知名度が高い(らしい)作家が日本で知られていないことがとても不思議に思えてくる。

 

まず言えることは、この作家はスイスと聞いて連想されるような朗らかな自然のイメージ、要するに「アルプスの少女ハイジ」のイメージからかけ離れたスイスの姿を提示するということだ。本作の舞台は雨が降り続ける陰鬱な冬の街である。やりきれない天気が続くなかで、主人公の中年男アルヒロコスが姿を現す。この男はいつもメガネをかけていて、40歳を過ぎても女性経験がなく、道徳意識が強く、尊敬すべき人間に順位をつけている(1位は大統領、2位はキリスト教の司教、3位は彼が勤める機械工場の社長だ)。糞真面目な変人である。彼がよく通うバー(元プロ自転車選手がマスター)のおかみさんは身寄りがいないことを心配して、新聞に結婚相手募集の広告を出すよう説得する。広告の見出しとしてアルヒロコスが提案したのが本作のタイトル、「ギリシア人男性、ギリシア人女性を求む」だ。彼は先祖がギリシア人だったと言い張るのである。

広告を出すや否や、彼に会いたいという女性が現れる。待ち合わせのバーにやってきたのはなんと気品に満ちた美しい貴婦人。彼女と出会った瞬間から男の運勢は急に好転する。デートをすれば尊敬する大統領や司教が彼に挨拶をするし、職場に行けば下っ端社員でしかなかったのに急に昇進の話が持ち上がる。思わぬ幸運の連続に戸惑いを隠せないアルヒロコス。しだいにその幸福が、彼を追いつめていく。

本作にはカフカの諸作を思わせる不条理な展開が待ち受けている。だが、カフカが不条理な不幸(虫に変身したり、覚えのない罪でさばかれたり)を扱ったのに対し、デュレンマットは不条理な幸福を扱っており、その幸福が人の生を困難なものに変えていく様を描いているのだ。

おもしろいのは、何故やってきたのかわからないと思われた幸せに、実は確かな理由があったことが示されているところで、謎が謎のまま残されているわけではないのだ。そして、この理由が主人公を苦しみのどん底へと陥れるが、美女と会った時点で彼の運命は決まっていたことが後になってわかる。

デュレンマットは運命に拘る作家だ。どうあがいても変えられない宿命を自覚したとき、人はどう生きるべきかというテーマが彼のいくつかの作品に共通している。たとえば『デュレンマット戯曲集 第一巻』(https://www.choeisha.com/pub/books/53543.html)に収められた『ロムルス大帝』、は西ローマ帝国最後の皇帝が滅亡を免れない帝国の代表者として自らの定めと向き合う様子を書いた、正に運命についての作品である。こうした作品群を読むと、ぼくは批評家佐々木敦が書いた「マジ」な自己啓発本未知との遭遇』を連想する。

 

未知との遭遇【完全版】 (星海社新書) | 佐々木 敦 |本 | 通販 | Amazon

 

この本は選択肢のあまりの多さと「あの時こうすればよかったのに…」という後悔に苛まれやすいインターネット時代の現代人の特色を素描しながら、古谷実本谷有希子などの作品を援用しつつ、「起きたことはすべていいこと」と考える「最強の運命論」を説いた一冊である。佐々木がデイヴィッド・ルイスや入不二基義の議論を参照しながら「全ては決まっているが、人間は有限な存在であり未来について何も知ることはできない。だからこそ、人は未知に驚くことができる」という内容のことを語る時、彼はデュレンマットについて語っているのではないかと思わず錯覚する。このスイス人作家の著作には運命、あるいはどうしようもない限界を自覚しつつ未知のものに驚くためのヒントが、いくつも眠っているのだ。

 

 

www.kotensinyaku.jp

『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』についての試論(十字、点滅、エルヴィス、歴史)

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今年最大の映画ニュースのひとつがエドワード・ヤン監督『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』の25年ぶり日本劇場公開だろう。台湾映画を代表する1本であり、世界的に評価が非常に高いにも関わらず、日本ではDVD化されず長年観ることが叶わなかった作品だ。

 

www.bitters.co.jp

 

エドワード・ヤンの少年時代に実際に起きた殺人事件を基に、中国本土から国民党と共に台湾にやってきた「外省人」の少年達の葛藤の日々を描いた青春群像劇。この映画はもちろんフィクションだが、1960年の台湾の持つ異様に緊迫した気配をスクリーンに蘇らせ、近現代史の再検討を試みた生々しいドキュメントでもある。

本作の素晴らしさを言葉で説明するのは非常に難しい。あまりに魅力的なポイントが多く、しかもその魅力とはそれぞれの要素が連携することで乱反射されるような、一部分を切り取って語ったらするりと逃げ出してしまうような類いのものだからだ。画面構図、カメラワーク、編集、ストーリーテリング、演技、音響、音楽、実社会との関係性、どれをとっても良いものなのは間違いないが、どれかひとつを抽出して語ることがためらわれる作品なのだ。

 

僕はひとまず映画内で呼応するいくつかのディテールに触れようと思う。全体として圧倒される作品を前にしたときにすぐに出来ることは、細部の検討しかない。といつつも、細部のポイントだけでもあまりに多く存在するので、重要なモチーフを二つ挙げるにとどめる。

まず、「十字・十字路」である。本作には縦の奥行きと横の広がりを同時に映したシーンがいくつか見られる。たとえば主人公二人、シャオスーとシャオミンが軍事演習中の野原を歩くシーン。前方に進んでくる二人を画面左側に映しながら、右側では後方で隊列を組んで軍隊が右から左へ走っていくとき、二つの運動が十字を形作っていることに気づく。学校の外で待ち合わせするシャオスー・シャオミンが冷やかされるシーンでも、前方に広がるのは十字路である。シャオミンの彼氏でシャオスー達グループのリーダー、ハニーが道路の前で敵対者に背中を押されるところでも、車の動きと人間二人の動きが90度に交差している。この映画では、二つの動きが垂直に交わるという事態が決定的ななにかを呼び起こす。あの「事件」の直前に、十字をシンボルとするキリスト教のテーマが急に浮上するのも偶然ではない。

そして、「光りの点滅」。本作の中で非常に闇のシーンが多いということは映画を観た誰もが気づくことだろう。その闇の中で、シャオスーはまるで不安定な自分の居場所を示し、なんとか世界を照らそうとするかのように光りを何度もカチカチさせる。まず、夜の教室の明かりをつけて歩き回る、そこに部屋を出ようとする女学生の横顔が映るという、とても印象的で、後の展開において決定的な意味をもつシーンが序盤にある。直後に、家に帰ったシャオスーは目の異変を感じて、光の感じ方を確かめる為に明かりを付けては消す。そして、学校の隣の映画スタジオから拝借した懐中電灯というアイテム。この懐中電灯が照らしたものは一体いくつあるのだろう。いちゃつくカップル、日記、斬り殺された死体、恋人について語るシャオミン。光りの点滅はストーリーを前に転がすための装置となり、やがて懐中電灯がスタジオに返されるときに、最も深い闇が襲いかかることになるだろう。

この映画は二つの道が、光と闇が、少年と少女が交差することで生まれたドラマであるとひとまず言えるだろう。その交わりの歓喜と受難を、それが呪われたものと知りながら祝福する術を、エドワード・ヤンは体と魂を張って示してくれている。

 

本作の英語での題名にも触れておきたい。英語タイトル『A Brighter Summer Day』はElvis Presley『Are You Lonesome Tonight』の歌詞から引用されているが、実は本来の歌詞は「A Brighter Sunny Day」である。何故歌詞そのままではなく、微妙な改変を施したのか。

 

www.youtube.com

考えられる理由は二つある。

映画中、この曲の歌詞聞き取りをするシーンがあるが、エドワード・ヤンも同じように少年時代に聞き取りをしていたのではないか。そして、聞き取った歌詞が「A Brighter Summer Day」であり、この間違いを面白いと思いそのままタイトルに使ったのではないか。実際、エルヴィスの歌を聴いていると、「Sunny」より「Summer」に近い発音をしているように感じる。

前述の聞き取りシーンでは「Brighterって文法間違いじゃないか?」というセリフが出てくる。当然誤りではなく、歌詞全体を読めば比較級の対象となるのはnowだということがわかるからし、「Brighter sunny day」が「君がいない今より輝いてた晴れた日」という意味だと取れる。この「Brighter」が二つ目の理由につながってくる。

映画内で流れる時間はどのくらいの期間なのか。この疑問に明確に回答できる細部があり、それはシャオスー一家の壁にかけられてるカレンダーである。カレンダーを観ていると、「3月」「6月」と登場ごとに数字をしっかり変えていて、時間の経過を教えてくれる、そしてこの映画のはじまりからおわりは(冒頭のエプローグ的な入学試験の挿話を除いて)「1960年の夏から1961年の夏まで」となる。大事なのは映画内で2度夏が出てくることである。つまり、『A Brighter Summer Day』というタイトルには「1960年の夏より輝いていた1961年の夏」、そして「君の出会った夏以上に君をまぶしく照らそうと思ったあの日」という含意が込められているのだ。まぶしさが「光りの点滅」と繋がっているのは言うまでもないだろう。題名を取って考えてみるだけでも、いくつかの重要な意味が込められている。この映画は観れば観るほど、考えれば考えるほど世界が広がっていくような、途方もない体験なのだ。

 

最後に、ちょっとした飛躍を許してほしい。

僕はこの映画のことを考えているとき、何故か田中宗一郎氏のことを思い出していた。理由ははっきりしていなかったのだけど、以下の記事を読んでなんとなくわかった気がした。

www.cinra.net

『クーリンチェ〜』には、60年代の台湾の少年たちがいかにアメリカ文化に憧れていたかを示すアイテムが多く登場する。エルヴィス、野球バット、バスケットボール、ジョン・ウェインの西部劇。シャオミンの軍隊好きにもアメリカとの関係性を想起させるものがある。このアメリカへの憧憬は、田中氏がSnoozer時代から語っており、Cinraのインタビューでも言及している「少年時代はアメリカ文化一色だった」という発言を思い出すし、あぁタナソーが言っていたのはこういう風景だったのだなとエルヴィスを歌う少年を観て考えたりする。また、本作では登場しないが、エドワード・ヤン鉄腕アトム好きでも知られ、遺作となった『ヤンヤン 夏の想い出』にはアトムのマスコット人形が幾度か出てくる。手塚の短編『アトムの最後』をフェイバリットマンガに挙げる田中宗一郎と通じる部分だ。

なにより、SPOON新作の参照先の多さを基に、「音楽は歴史だ」と語る言葉を読むと、『クーリンチェ〜』には膨大な映画の記憶が重なっており、その歴史の認知具合で観えてくるものが全く違う作品であることに気づかされるのだ。僕は、映画史に関して無知に等しい人間なので、たくさんのものを見落としているだろう。恥ずかしい心情告白をすれば、だからこそもっと映画を観たいし、今回の上映で二度観たこの映画をその後で見返したいと考えているのだ。映画も歴史なのだ。

あまりに当然のことながら、エドワード・ヤン田中宗一郎はジャンルだけでなく性質としてもまったく異なる映画監督と批評家・編集者だが、彼らは同じことを教えてくれている。表現の歴史的多層性がどれだけ重要かということだ。

 

 

Bob DylanとCloud Nothingsについて

2月から3月にかけてほとんど新譜を聴いていなかった。何を聴いていたかというとボブ・ディランを、萩原健太ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』を読みながらディランをひたすら聴いていた。

 

honto.jp

 

この本、デビューから2012年のテンペストに至るまでのほぼ全てのオフィシャルアルバムのレビューという形式を取りながら、ディランの一貫した方向性を示す優れた一冊である。偉いのは、ディランがいかに女癖が悪く、バンドメンバーの扱いがひどく、どれだけ人間として厄介でダメな存在かをちゃんと書いていること。コーラス隊の女性メンバーのほとんどと肉体関係になっていたという時期もあるし、子供は何人いるかよくわからないし、キャリア全体で見渡してみるととんでもないろくでなしなのだ!そこらのエロ親父以下といっていい。だが、そんな変態エゴイスト野郎であるにもかかわらず、音楽は神懸かりにかっこいい。この二面性を描いてこそのディランだろう。そして、ディランの本質が伝統主義者であり、キャリアを通して変わっていないことをこの本は詳細に確かめている。彼の音楽のバックグラウンドはフォーク、ロックンロール、ブルース、カントリー。ここにキリスト三部作時代のゴスペル、21世紀以降のポピュラーソングが入る程度で、つまり音楽的広がりは思春期までに染み込んだものに限定されていて、決して新しい音楽を取り入れるようなことはしないのだ。同じメロディーが歌い継がれていくフォークの継承者であるという意識の上で、新しい言葉、新しい歌唱を追求したのがディランであり、伝統を絶対に崩さずに革新を生むのが彼のスタイルであるということが、『ボブ・ディランは何を歌ってきたのか』を読むとよくわかるのである。

(ちなみに色々聞き返していちばんグッときたのは68年の『John Wesley Harding』。3人だけのシンプルな演奏とミニマルに盛り上がる展開がまるでポリスみたいでかっこいい)


John Wesley Harding

 

実はディランと平行して聴いていた新譜が一枚だけあり、それはCloud Nothingの『Life Without Sound』だ。

 


Cloud Nothings - "Life Without Sound" [Full LP] (2017)

 

Cloud Nothingsは今のポップミュージックのシーンでは珍しい、とてもシンプルなバンドサウンドを鳴らしている存在である。2009年の活動開始以降常にギター・ベース・ドラムを核に置き、Wipers,Swell Maps,One Last Wish,Pixies,Weezerといったポストハードコア、オルタナティブロックのバンドの影響を感じる楽曲を作り続けている。この4枚目のフルアルバムも基本アプローチは変わらない。ややテンポを落とした曲が増えたものの、半分以上の曲は疾走感を有しているし、ドラムの力強さはより増している。重苦しい曲とメロディが頭に残るポップな曲の共存もほぼ一緒。ただ、歌詞の表現力に変化があったように感じる。以前なら現状の自分と環境への不満をひたすらに叩き付けるような歌詞が目立ったが、今作のリリックはより多義的。「人生が欲しい、今はそれだけが欲しい/僕は生きているけど、ひとりぼっちだ(Modern Act)」「失った僕の一部、勝手に使われてつまらないものになって/だって僕が考えていたのは、傷つくべき人のこと/正しいと感じる、より明るいと感じる(Thing Are Right With You)」といった言葉は、ポジティブな決意を表したものか、ネガティブな失望を描いたのか、どちらかに判断できるものではなく、その両方が混合したような感覚の表現となっている。シンプルな言葉遣いで複雑な人生の機微に触れるようなリリックが増えたのだ。そして、オルタナロックを歌う為に生まれたかのようなざらついた声の持ち主、Dylan Baldiの歌唱は私たちのざらついた日々の真ん中を射抜くかのようである。

 


Cloud Nothings - "Modern Act" (Live at WFUV)

 

思うに、Cloud Nothingのやろうとしていることはボブ・ディランのやってきたこととほとんど同じなのではないだろうか。ディランが4〜50年代の音楽をベースに新しい曲を作り続けたように、Cloud Nothingsは8〜90年代のロックを下敷きに、余計な流行を付け足すことなく音楽を生み続けている。Dirty ProjectorsのDave Longstrengthが中心になって起きた「インディ論争」に置いても、「新しさ」に価値を置くマインドに真っ先に異を呈したのは彼らだった。(以下記事参照)

【徹底討論】インディー・ロックは死んだのか? | Monchicon!

 

Cloud Nothingsが支えとしているハードコアやオルタナティブはここ数年のポップミュージック界では時流に沿わない音楽となっている状態で、おそらく向かい風が吹く場面は多くあっただろう。だからこそ、アメリカのひとつの伝統となりつつあるサウンドを継承し、その灯を絶やさないよう孤軍奮闘を続ける彼らの活動は貴重なのだ。それはボブ・ディランが50年続けてきたこととかなり近い位置にあるのだ。ついでに言うと中心人物の名前もDylanなのだ。

ディランの3枚組の新作は明日発売だし、Cloud Nothingの来日公演は来月に迫っている。以上の観点も含めて、ぼくはとても楽しみにしている。

 

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『わたしは、ダニエル・ブレイク』は今年のベスト映画候補です

danielblake.jp

 

社会問題をテーマに取り込む作品は数多くあれど、ここまで真正面から政治的課題と向き合った映画も珍しいのではないか。ケン・ローチ監督『わたしは、ダニエル・ブレイク』は英国保守党の福祉、医療、教育分野への財政削減政策にストップをかけるという明確な政治的意図を持っている。

テーマ性の強さは映画やその他の表現にとって諸刃の剣となる。テーマを作品の中で活かすことでよりクオリティの高いものをクリエイトすることもできるし、逆に主題の強さに負けて作品の質の悪さが際立ってしまうこともある。人間が背負った重荷を克明に描いて人間存在の本質に迫る作品を作るには、より高度な藝術的技術が要求されるのだ。

『わたしは、ダニエル・ブレイク』のテイストは『戦火のかなた』『自転車泥棒』といったイタリアネオリアリズモ映画、市民が直面している現実をフィクショナルな解決なしに生々しく描いた作品群に近い。特にデ・シーカ『ウンベルト・D』は社会制度の変化によって収入源を失い、次第に追いつめられていく老人が主人公である点が本作と非常によく似ている。現代版『ウンベルト・D』という言い方もあながち間違いではない。

ウンベルト・D - Wikipedia

 

まず讃えられるべきはポール・ラヴァティの脚本だろう。ラヴァティは公共制度から助けをもらえず疲弊していく病持ちの老人ダニエル・ブレイク(デイヴ・ジョーンズ)と二児の親であるシングルマザー、ケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)との出会いを用意した。この二人の交流が、イングランドの抱える諸問題を覗き込むためのレンズの役割を果たす。ケイティはアパートの水漏れを管理人に告げたことで無理矢理立ち退きをくらい、仕方なくロンドンからニューキャッスルへ移ってきたという事情をダニエルに話すことで、報復的強制立ち退きの問題を観客は意識することにある。逆に、ダニエルはケイティ親子に心を許す中で妻を介護して死を見届けた過去を語り、介護・孤独死の問題がストーリーに浮上する。他にも売春・子供のいじめ・雇用年金省からの理不尽な制裁措置といったハードな現実が彼らのやりとりの中で立ち現れる。このように、社会問題を複層的に描き出ながら無理なく話を広げて、自然なかたちで結末に向かわせる脚本は実に見事。もちろん、心臓病にもかかわらず受給が受けられないという制度の矛盾とセーフティネットをあえて閉じるような官僚主義の異常さは物語の中心にがっしりと居座っている。

 

また、ロビー・ライアンによるカメラも非常に鋭い。ニューキャッスルの街中や図書館の様子を上空斜めから撮ったショットは、その中を歩くダニエルと一緒に多くの人々を映すなかで、老人の苦境を主観的に感情に寄って描写するのではなく、個人の数だけある現実のなかでダニエルの位置するところをきっちり見据えてその生き様を捉えようという意志の表明となっている。単純に画的にも美しい場面だ。ダニエルとケイティ親子の親密な繋がりも言葉ではなく、それぞれの表情や大工であるダニエルが作った木製の魚といったアイテムによって暗示する。この無駄のなさが素敵だ。ケイティの家のドアを直すときのダニエルの表情の生き生きとした真剣さはいいようもなく魅力的である。

 

本作はアクチュアルなテーマを前面に押し出しながら、撮影や脚本のテクニックを駆使して普遍的な魅力を獲得した傑作だ。映画のラストは決して希望に満ちたものではないしむしろ心痛むものだが、個人として生きることの尊厳を大らかに肯定してみせる映画としての在り方には確かな希望を感じた。また、ダニエルがニット帽をかぶりなおしてある大胆な行動を起こす一連のシーンには、ただでは折れないイギリス労働者階級のしたたかさが漲っている。イギリスの反骨精神とユーモアの伝統を感じさせる点でも非常に優れた作品だろう。必見。

 

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