I was only joking

音楽・文学・映画・演劇など。アボカドベイビー。

ものかたりのまえとあと Gallery SCOOL Vol.1

 

 8月2日〜8日の期間に三鷹SCOOLで行われた展示「ものかたりのまえとあと」を観に行った。

scool.jp

 

 美術展として企画されているが、一般的に考えられているような展示とは少し異なる。たしかに、三野新による写真や青柳菜摘による旗形の作品は展示されているものの、それ以上に重きをなすのは1日に3度上映される映像作品の上映、加えて4作家それぞれが会期中に行うそれぞれのイベントである。つまり、この展示は以下の三層でなっている。

 

①.会期中いつでも観られる作品・インスタレーション展示

②.決まった時間に上映される4作家の映像作品

③.それぞれ一夜限定で行われる各作家のイベント

 

 番号が下るごとに鑑賞できる時間は限定される。美術展は普通、会期中いつでも鑑賞できる作りになっているが、今回の展覧会は①の展示数が少なく②、③の比重が大きいため、鑑賞者の拘束時間が規定される作りとなっている。その意味で、いわゆる通常の展覧会ではないのだが、映画や演劇のような鑑賞体験とも異なる。なんとも名付け得られぬ微妙な感覚を、「ものかたりのまえとあと」は観るものに与える。その体験には、鑑賞者が主体的に関わった感覚が残る。参加型アートのような、観客の主体性が直接的に要求される展示ではないにも関わらずだ。その主体性の感覚がおそらく僕にこの文章を書かせているわけだが、何故そうした感覚が生まれるのか。今のところ理由はよくわかっていないのだが、多分「入り口の狭さ」のせいだろう。上記の三層構造を認識せず、①だけで鑑賞を済ませた場合、展示への理解がかなり限定されてしまう。②まで行くとある程度の充実度があるが、展示全体の持つ意味が体得されるのは③に参加した時点だと思う。僕は8月4日に②までを鑑賞して、7日に清原惟のイベント(③の一つ)に参加した。そこでようやく、「ものかたりのまえとあと」という展示の可能性を理解したと思った。③に至る所で何かを掴んだ感覚があるとなると、そこへ行くまでの入り口がかなり狭いということになる。そう考えると随分不案内な展示だとも思うが、その分長く付き合った分だけ密度が濃い体験ができると言える。これが良いことなのか悪いことなのかは簡単に判断できないが、あまり他にはない試みであることは間違いない。

 

 (・・・12時までに書いて寝ようと思ってたら12時を過ぎてしまった。以下、さらっと書きます。)

 

 展示のタイトルは何故「ものがたり」ではなく「ものかたり」なのか。それは「もの」を「かたる」ということのもっともシンプルな状況に立ち返るためだ。「物語」という言葉には多くのものが付加されてきた。起承転結やプロップの物語構造などの様式が定型化され、それを批判する言説も多く提示された。だが、一番単純に言えば、「物語」とは、「もの」を「かたる」ことである。そこにはない「もの」を、言葉によってあるように伝える手段である。今回上映された映像作品全てに共通する特徴がある。モノローグが多く含まれていることだ。その言葉たちは、映像に映されていないものを描こうとする。村社祐太朗の作品では、定点カメラに映された風景とは関係を持たない言葉を、カメラに対して横向きの話者が発話する。三野新の作品は3人の男女の眼を交互に映すが、断片的に聞こえてくる「愛してる」などの言葉は彼らの眼と共鳴しない。「もの」を「かたる」言葉は映像と不協和だ。青柳菜摘の作品では朗読される三人の言葉が画面上でタイピングされるが、音として聞こえる言葉と映像として映る言葉が微妙にズレている。清原惟の作品の中で、モノローグで語られる言葉とその時に映る映像とは違う時間軸の上にあり、観る者を混乱させる。

 四者の映像には全て、「もの」をかたっていながら、そこにはかたられていない「もの」が映っている。そして、かたられなかった「もの」は、かたられた「もの」があることで、はじめて意識される。「ものかたりのまえとあと」が結果的に感覚させるのは、かたりえない「もの」を伝えるために「ものかたり」が必要であるという、逆説的なメッセージである。それと同様に、僕が展示の内容を知らせるために書いたこの文章は、書かれなかったことを意識させるために存在している。

 「ものかたりのまえとあと」で変わったのは何か。「かたりえないもの」が僕らに見えるようになった、ということに尽きる。

 

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批評再生塾3期最終課題を全部読んで全部コメントしました

批評再生塾の最終課題の提出が終わり、投稿されたすべての批評文が読めるようになっています。僕(伏見)もなんとか書き上げました。

 

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/subjects/19/

 

今回は再生塾OB三名による「下読みシステム」がないので、僭越ながら僕がコメントしようと思い立ちました。参加者はもちろん、ウォッチしている人にもなんらかのご参考になれば。

まだ、全員分出来ておりませんが、明日・あさってくらいには全ての論考にコメントつけたいと思っています。(4日付記:全部書きました。自分のやつ含む)

 

谷美里

「母殺しの時代における連帯ーーあるいは、新しい「きびだんご」の可能性について」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/misatotani/2819/

「桃太郎」の意味合いの変遷から水曜日のカンパネラの楽曲を通して「母殺し」の主題を提示する流れはおもしろく、村田沙耶香、円上塔における「家族の遍在」を取り出して最後にビットコインときびだんごをつないで伏線を回収する手つきも綺麗。ただし、大澤の「〇〇なき〇〇」は多分にネガティブな意を含んだ形容であり、「母殺し」の難題を無効にする「家族なき家族」にポジティブな意を込めるにはもう少し手順が必要だったように思う。論者のなかでも「家族なき家族」「信頼なき信頼」に対する評価は揺れており、それが素直に現れているのは好印象でもあるのだが、批評文としてはもう少し踏み込んでいくねばりがほしかったか。ビットコインの登場もいささかの唐突感があるので、全体の構成に工夫がほしかったところ。

 

イトウモ

ソラリス/2020」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/gonzomi/2853/

私的な語りと作品分析の語りの乖離がどうしても気になってしまい、かつ論旨もまとまりに欠けるのだが、時々ハッとするような表現に出会ったときにはなにかしらの快楽がある(「自分が生まれる前の一人の人間としての母親と、子はどのように知り合えるかという問題だ」など)。そしてやはり私語りがおもしろい。「きっとこの部分は消すことになるだろう」を残したのは本意ではなかったのかもしれないが、そこも含めて魅力的。この文体は論者にとってもかなりチャレンジングであったと感じるが、批評を所謂「批評」に閉じ込めないような、新鮮な批評のスタイルを作り上げられるようにも思う。

あと『トーク・トゥ・ハー』への導入が好き。

 

小川 和輝

Mystic Tokyo Bay & Literary Face Of Globalization/リアルとファンタジーの境海」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kazukigenron/2852/

「郊外」と「移民」の二つをシンメトリカルに対置し、『木更津キャッツアイ』の捉えなおしとして冒頭と結部をつなぐことで、論点の多い文章を力技ながら一つの形へ納めていてる。「橋」とディケイドごとのカルチャーの関係を論じた部分は特に秀逸。難点としてはやはり、「移民」の部分、小沢健二、神里雄大星野智幸を並列するあたりで強引さが目立つところか。時系列的に神里の前に位置する星野の小説を「さらに」可能性を深めるものとして描くのは無理があるし、「誤配」と〈固有名〉を通した「連帯」も、「「ガイジン」としてではなく具体的に名をもつものとして外国人と関われ」というメッセージに収縮されており妥当すぎる感は否めない。全体的な論のフォーカスもまだ絞りきれていない。けれども、提示された一つ一つの論点は魅力的であった。

 

 脇田敦

「真面目に働いて幸せになるならAIはいらない」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/hanoisan/2855/

以前から論点として提示していた「天皇SMAP説」は魅力的だし、労働や独身者の問題にも筆者なりの切実さは感じられるのだが、全体がどうにも散漫で弛んだ論に終始している。論を進める際に論理構築やエビデンス提示が欠けており、「実は、水戸光圀天皇の代わりだった」や「BI導入を求める国民がまだ少ないのだ」という断言が突然現れたり、定義が示されないまま「幸せな家庭」といった言葉が飛び出したりする。そうした早急さには「なんとなく空気でわかるでしょ?」という言外のメッセージを感じてしまうのだが、「空気」を論拠にしていたら分析も描写も成立せず、つまり批評にならない。「不可能性の時代」やAIの話に論のつながりが見いだせないことにも「空気」頼りな印象を覚える。社会現象を語るにも、もっと論者本人の目線の提示が必要であったように思う。

 

斉藤千秋

「イワン・カラマーゾフへの応答」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/chiaki/2809/

カラマーゾフの兄弟』の哲学的考察として論理的に記述されており、全体の構成も非常にクリアである。ただし、文体の硬さ、論の堅実さ、結論の妥当さなどは「論文」のそれであり、「語り口」自体にメッセージを持たせたり、鮮やかな飛躍や意外性のある議論で読み手に快楽やショックを与えるような「批評」の魅力はないと言わざるをえない。「2020年代の批評」という課題に対するリアクションが冒頭に述べられるが、東浩紀の言葉のみで「現代性がある」とするのは論拠として足りず、2020年代がどのような時代であり、なぜ「カラマーゾフ」の議論が時代に有効なのかというところまで(東の言葉を経由するにせよしないにせよ)示さないと、研究論文と本稿との差異は現れないのではないか。

 

 灰街令

「キャラジェクトの誕生」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/akakyakaki/2748/

「キャラジェクト」という概念が新鮮だし、文章も今までの批評文に比べて無駄が少なく読みやすい。Vtuberの記述などは単純に勉強になった。ただ、これはわたしがアニメ文化や「キャラクター」概念に疎いことに起因するのかもしれないが(とはいえ『動ポモ』や「キャラクターが見ている」は読んでます)、議論に説得されない部分が多く、「今、ここ」性や「袋づめ」の関係が本当に「キャラジェクト」に当てはめられるのかが、本稿を読んだだけでは判然としない。また、3DCGは実際に空間が存在するわけではない以上「空間的現前性」と単純に言えるのか疑問であり、この部分は丁寧に論じる必要があったように思う。文章の流れも堅苦しく、こなれていない印象があった。しかしながら、論者の批評のレベルが確実に上がっているのは感じとれた。

 

寺門信

「無責任な観客、あるいは不能の天使」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/jimonshin/2839/

写真と瓦礫を重ね、「成る」ことへの違和を表明する冒頭の問題提起、Port Bを「マージナルなものへの想像力」とする規定、「ワーグナー・プロジェクト」における問題点の抉出など魅力的な論点が多かった。以前の文章にはなかった読み応えがあり、着実な成長を感じる。さすがにオリンピックを「東京の成人式」と見立てるのは無理筋だと思うが・・・。未完なのが惜しい。

 

谷頭 和希

ドン・キホーテ論〜あるいはドンペンという「不必要なペンギン」についての考察〜」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/improtanigashira/2827/

ドンペンの形象、街ごとの店舗内部の多様性、開いたファサードといったドンキの特徴を抜き出しつつ、生と死の渾然一体、資本主義の再利用という結論を導く流れは非常に鮮やかだったし、無理な定義を後で補強する手法も利いていたように感じる。なんかわからんけど説得力がある、という点は大いに評価できるだろう。砂時計型形象の話はオチはわかっていたのに「なんということだろうか」で笑ってしまった。注文があるとすれば、先達の議論の多量の参照が話をつなげるための「道具」になっている感はあるので、もう少し自分の言葉で議論を展開してほしかった。とはいえ概ね楽しく読んだ。

 

高橋 秀明

「引き裂かれた作家、村上春樹ーー『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』ーー」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/hide6069/2828/

塾生有志の諮問会で提出した時点の論考に比べて、論に意外性があったり、自身で考察して書いた部分が増えたりと、格段に良くなった。しかし、論拠に雑な部分や誤りがかなり多いのも事実。「大衆文学」と「純文学」という二項対立が大雑把であるというのが一番大きいが、細かいところを思いつく限り羅列すると、蓮實重彦は映画という大衆文化を愛しており単純な大衆嫌いとはいえない、サマーオブラブのバンドは別に政治的ではない、幼少期の体験のみで村上に日本文学の教養があるという結論は出せない、ガンダムが詳細な設定を持っているからといってそれが「リアル」であることの証左にはならない、『雨月物語』を題材にしているだけで「日本文学」を継承しているはいえないなどなど、論拠が無理矢理であったり間違っていたりする箇所が目立つ。「MIC・KEY・MOUSE」から「鼠」が彼女に堕胎をさせたことを探り当てる論も興味深いのだが牽強付会にすぎる。ただ、全体としての主張になにかしらの面白みは感じるので、ひとつひとつの論点に丁寧にあたっていけば良いものができたように思う。

 

ユミソン

「タイトル未定」の草稿

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/yumisong/2836/

本人の言葉通り批評文ではないのだが、エッセイと呼ぶにもこなれていない部分が多く、読むのにかなり苦労してしまったのが正直なところ。コミュニケーションにおける言語の非重要性と、ソクラテスの議論と、ニコラ・プッサンの絵の話が乖離しているところに顕著なように、文章の流れがうまく進んでいないように思う。エッセイとして書くにも構造や論理に対する意識は(そうした構造・論理体系を文章で直接使わないにせよ)必要かもしれない。細かいところだとフェティシズム全体主義を生まないというのは大いに疑問がある(詳しくは私のアンビエント論のアドルノの箇所を参照)。余談ですが、ユミソンさんの文章から僕が昔よく聴いてたブルーハーブの名前が出てくるのは超意外でした。

 

北出 栞

「「オルタナティブゼロ年代」の構想力ーー時空間認識の批評に向けて」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kitade/2847/

論の流れはスムーズで、主張もクリアかつ構成も読みやすいように上手く練られている。「ズレ」という言葉の扱いも魅力的。ただし、バンプと欅坂の論は、批評対象のメディアが方や歌詞とライブ、方やMVで、抽出される結論も異なるため、本来は全く別のものである。それをラッドと深海誠を挟んで(この二つは論旨には直接必要がない)、実際には繋がっていないものを文の流れの上で繋げているところは難点。『天体観測』一曲のみで「時間の共有不可能性」を抽象するには論拠が少ないし(『スノースマイル』『Embrace』など使える曲はたくさんあったはず)、2016年デビューの欅坂を「オルタナティブゼロ年代」と形容するのも無理がある。また、フィッシャーの『資本主義リアリズム』の解釈にも疑問があり、わたしが読んだ限り、あの本は「資本主義下の現実主義」ではなく、リアルもファンタジーもオルタナティブもキャラクターもヴァーチャルも全て資本主義に回収されてしまうことを問題視している。「確固たる「外部」を許さない」と論者が欅坂に対して肯定的に書いた言葉は、そのまま「資本主義リアリズム」の最も度し難い部分を表している。バンプも欅坂も資本主義の「リアル」の「外部」に出たという論拠はなく、つまるところ、本稿はフィッシャーの論を逆転できていない。論の強度を高めるには、前提となる文献との関係性に注視する必要があったか。

 

伏見 瞬

アンビエントと二つの〈死〉」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shunnnn00/2854/

アンビエント・ミュージック」というマイナーなジャンルを開かれた形で書くための努力が感じられ、その試みはある程度成功しているように思えた。アンビエントとカタストロフが結びつくという論点も興味深い。ただし、文章にくどい部分があり、読みにくい印象をうける。「はじめに」「次からは」「最後に」などの冒頭句が多く、論の流れを沈滞させているのもあまりよろしくない。また、終章はまとまりにかけており、2017年の作品紹介も「時間と向き合っているもの」とだけ形容するのは後半に持ち出す議論としては弱く、最終段落で不眠症の話が挿入されるのも唐突。論を終わらせる上で、論者の主張、いうべきことは何かをもっと意識すべきだったように思う。

 

太田 充胤

「アートとしての病、ゲームとしての健康 -10年後に読む『ハーモニー』-」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/lemdi04/2821/

 粘り強く思考する力が出ていて論理的にも良く練られているし、「健康」がゲーム化しているという論点も興味深かった。論者の持ち前のユーモアがところどころで発揮されているのも魅力的で、たとえば「「イライラする」と感じてから「ラーメン食おう!」まで一足飛びです(私だけかもしれませんが・・・)」という箇所で思わず笑った。しかしながら、(有志諮問会でも同様のことを指摘したが)『ハーモニー』と國分功一郎に対する新たな読みがなされているという印象は覚えず、それらを「健康」を考えるための道具にしてしまった感は否めない。國分を時系列で読み解いた点はよかったが、その分『ハーモニー』とのバランスの悪さが目立ったようにも思える。「オートプレイ」という論点については、我々が普段食事を選ぶ時に作動する「オート」と、『ハーモニー』結部の人類の意識が全て消滅するような「オート」ではやはり差異があり、そこが一緒くたに語られしまっているため、説得力のある議論になっていないように思える。加えて、最後に「アートとしての病」という論点を提示するなら、『ハーモニー』(もしくは他の伊藤計劃作品)もそこで今一度言及するべきだったのではないだろうか。本稿における「アート」は正に『ハーモニー』のことなのだから。

 

渋革まろん

チェルフィッチュ(ズ)の系譜学ー私たちはいかにしてよく群れることができるか」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shibukawa0213/2856/

山カッコを多用した暗号的な文体自体が読み手の身体に反応を与えるような感覚があり、刺激的だった。オウム真理教平田オリザを表裏関係として配置する議論も面白いし、そこからチェルフィッチュ(ズ)が00年代に登場するという流れにも説得力がある。「身体」と「共同体」の関係性を論じたものとして、普遍的な射程を持っていると感じる。難点があるとすれば、暗号文体が続くことで、どこかだまくらかされている印象を受けるところ。平田オリザにおける「コンテクストの擦り合わせ」はつまり〈身振り〉の「身体化」であるという断言は、「言葉」の問題もすべて「身体」の一語に内包させているようにも感じるし、その結果か、日本的主体では「みんな」が身体化するという主張でも、「言葉」や「イメージ」もすべて内に取り込んだ状態で「身体化」という言葉が使われてしまっている。こうした言語使用は、ノイジーな身体を特権化して、言葉やイメージや音を抑圧する方向に働かないだろうか?極端な主張が文体をカモフラージュにして「感応=共振」されていく可能性もこの論考は含んでいる。無論、現状を鑑みてあえて極に振り切るという政治性も要請される場合はあるだろうが、この文章自体がある種オウム的な感染力を持つことを論者は自覚する必要があるかもしれない。

 

 みなみしま

「「絵画」の時間–現代の「現在」の条件をめぐって–」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/9090mm/2812/

現代の「現在」性を導くというテーマ自体は魅力的だし、一歩一歩誠実に議論を進めていこうとする姿勢にも個人的には好感を持つが、特定の絵画や小説を通しても未だ抽象的な議論に終始している印象は否めず、具体的なイメージが読み手に与えられないまま論が終わってしまっている。本稿が小説論なのか絵画論なのか明確ではなく、中心が定まっていないのもその一因か。他文献への言及も佐々木敦批判を除けば、援用しているだけで論者なりの解釈が含まれていないように感じたし、文体も美術批評に明るくなければ読みにくいものとなっている。自分の主張をブラッシュアップしつつ、伝えるべき読者に考えをめぐらしていけば、もともと知識量と文章力が長けているだけに、「読ませる」文章が書けるのではないかと思う。

 

山下 望

「NEO TOKYO STATE OF MIND(demo)」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/yamemashita/2808/

ジャンルレスに蓄積された知識に裏付けられた蛇行を繰り返す文章はやはり独特の魅力を放っている。今回はいつもより一文の長さは短く読みやすいが、それでも論者の特徴は良く出ているように思えた。ヒップホップと「母」という独自の論点を開示したところで終わってしまっているのが残念。続きを期待しています。

 

 

ふぅ、やっと全員終わりました。疲れたけど楽しかった。

ジャンル別に見ると小説/音楽/演劇/映画/絵画/建築/医学とバラエティに富んでいて、その意味でも今期の3期は特異だったのだなとあらためて実感。各自のテーマも主張もなんだかんだでバラバラですね。講評会たのしみだな。

 

新芸術校成果展「サードパーティ」レビュー 「引き裂かれ」としてのアレゴリー

※ゲンロンβ23号に載りそうだったがギリギリで載らないことになった無念のレビューを掲載します。こちらも読んで、ゲンロンも是非読んでください→https://genron.co.jp/shop/products/detail/155

 

 

 

明確に規定されていながらも相互に相容れないふたつの読みが、おたがいを知らぬまま対峙するよう仕向けられていることが問題なのだ。そのいずれかひとつを選択するのは不可能である。

ーークレイグ・オーウェンス『アレゴリー的衝動ーーポストモダニズムの理論に向けて』※

 

 

 今回の成果展および裏成果展についてまず言うべきは、事前にグループ展が行われているということだ。今年度の新芸術校のプログラムには、最終展示の前に受講生が4つに分かれて開催するグループ展が含まれ、双方を観た者は作家達が短時間で大きな変化を遂げていることを体感する。二つの展示を線で結ぶことで作家達の生の軌道に触れる。その軌道は複数の作家の間で交差し、新芸術校の営みを一つの複雑な生成体へと変える。今回成果展だけ観た方には、次回はグループ展も併せて観ることを薦める。複数の作家が同時に変化していくダイナミズムを、これほどダイレクトに感じられる機会は滅多にないからだ。

 金賞を獲得した新井健、銀賞を獲得した村井智はグループ展の時点で他を圧倒するクオリティの作品を発表し、成果展では着実に自らの課題と向き合い、作品をアップデートした。金賞の新井は一月の青山蜂摘発事件にいち早く反応し、短い準備期間にも関わらず風営法の問題が現場に何をもたらしているかをクリアに実感させる驚異の完成度の作品を見せつけた。家族をテーマにした村井の作品も、音響装置とビデオと絵画を効果的に配置し、揺らぎ続ける自身と家族の関係性を説得的に具象化した。他の作家たちの成長も目を見張るものがあり、最終展示から落選してしまった作家たちにより開かれた裏成果展も、「怪獣の時代」というテーマのもとで巧みに全体を統一し、高い能力を証明した。

 

 だが、私はどうしても有地慈の作品に触れないわけにはいかない。彼女の作品には簡単には整理できない強烈な引力があった。

 有地はグループ展において、日本初の航空機墜落事故の記念碑をモチーフに、記憶を回復することで悪しき反復を抜け出すという願いを複合的なオブジェに託した。そこでは日常的反復の中でありうべき姿を見失う自分を公にさらすという私性の意識的発露が見出されたが、今回の作品「スーパー・プライベートⅡ~成長しないで、ぷーちゃん~」ではより徹底された私性の開陳が見られた。

 外観は板と段ボールでできた小屋。小屋の中心にはモニターがあり、海辺ではしゃぐ少女の姿が映されるが、彼女の顔にはモザイクが。狭い入口を通り中に入ると、海の音が聞こえる。暗い部屋の中にアヒルの着ぐるみが座っていて、モニターをじっとみている。そこに映るのは小屋の外と同じ映像だが、少女のモザイクが外されている点だけが違う。着ぐるみの隣におかれたヘッドフォンを耳に当てれば、少女の声も聞こえる。この少女は有地の実の娘で、アヒルのぬいぐるみを手につけた撮影者は有地だ。そして、着ぐるみの中にいるのも有地本人である。

 

 2011年11月3日(ひっくり返せば3月11日だ)に生まれた娘の成長を有地は執拗に記録し、それとは裏腹に外部への露出を徹底して避けた。今回の作品において、有地は隠しつづけた娘の姿と名前を晒すのと同時に、自らが取ってきた行動の不気味さも外部に開示する。それが「震災の年に生まれた子ども」の生を肯定することに繋がる可能性を持つと有地はステートメントに記している。

 今回の成果展は「サードパーティ」と名付けられている。もちろん今期の新芸術校が「第三期」であることにかけられているのだが、同時にそれは「第三者」「非当事者」を意味している。当事者意識を持ちつつ、非当事者(=他者)に語りかける強度を作品に与えること。その名付けは、成果展に課されたミッションの内実を暗に示すものである。新井の作品が金賞を獲得したのは、他者に開かれた当事者性を示すことでそのミッションに応えたからだ。一方、母による娘のドキュメントの側面が強い有地の作品は極私的な印象を与えかねないし、非当事者を受け付けない作家の独りよがりと捉えられてもおかしくない。果たして本当にそうか。

 

 クレイグ・オーウェンスは「アレゴリー」をメタファー(隠喩)とメトニミー(換喩)の両方を含意するものと定義しているが、その意味で有地の作品は優れてアレゴリカルである。

 ステートメントを通して作品を概観すれば、有地の作品がある種の「母性」をテーマに据えていることがわかるし、小屋が娘を守る母親のメタファーとして機能していることが理解できる。小屋を他者に開放することで、娘の生も同時に未来へと開いていくのだと。だが、作品に触れるとそれとは真逆のメッセージも同時に実感する。

 海と少女を見ている着ぐるみの姿は、娘を失って嘆き悲しんでいるように見える。リピートされる映像はまるでトラウマの反復のようだ。小屋の中の壁に貼られた震災のがれきの写真と室内を満たす波の音がその印象を累乗する。娘を守るはずの小屋は内側に廃墟を内包しており、狭く薄暗い小屋はむしろ娘を守れなかった痛みを表現する装置として感覚されるのだ。さらに、がれきの写真には多数のぬいぐるみが映されており、薄汚れたアヒルの着ぐるみ自体が廃墟を体現していることがわかる。映像の中の汚れていないアヒルのぬいぐるみと比較すればその対称性は明らかだ。このように、作品の構成要素のひとつひとつに触れる度に、「未来の生」とは相容れない「過去の死」が顕然する。作品にちりばめられたいくつもの断片が、とめどもない喪失感を感知させるメトニミーとなるのだ。

 

 対峙する二つの解釈を両立させてしまう「アレゴリー」の効果を引き出しているのは、有地自身が演じるあひるの着ぐるみである。演じる主体としての母は隠れた「意味」としてのメタファーとなり、演じられるキャラクターとしてのアヒルは顕れた「断片」としてのメトニミーの役割を果たす。演じる/演じられるの二重性は、映像内のアヒルと母の二重性によって強度を増す。この二重の二重性が、「母性」や「喪失」のシンボリックな表象を無効化し、「母性」(当事者)と「喪失」(非当事者)に引き裂かれる在り方自体を表現する。そして、引き裂かれた私性の徹底的開示が、あの震災をステレオタイプな象徴へと収束させることなしに、震災後の「内なる廃墟」を引き受けるための指針の提示を可能にするのだ。

 「スーパープライベート」と名指された有地の試みは、「私」を「アレゴリー」として示すことで、当事者/非当事者という対立に引き裂かれた「廃墟」の時代の様相を捉えている。それは、成果展に課されたミッションに応えるだけでなく、当事者/非当事者の線引き自体を問題化する実践だったと言えよう。

 

※新藤淳訳、『ゲンロン』1,2,3に収録

Stars Of The Lid/The Tired Sounds Of Stars Of The Lid

批評性の全くない、ただ好きだという気持ちを伝えるためだけの文章を書いてみることにしました。多分続けてなんこか書く。最初に、この一年くらいで一番聴いたアルバムです。

 

 

もし君が死にたくなったら、これを聴けばいい。これを聴いてるあいだ、君は死んでいる。すべての音が逆再生されたかのようなぐにぅあとしてうねりの中で、眠ることもできるし、本を読むこともできるし、耳を澄ますこともできる。何をしていても、この音楽が鳴っている間は、死の中にいる。最高だ。暖かい陽のうちに死ねるなんて。

Stars Of The Lidのアルバムはどれも悪くないけれども、この2001年のアルバムは格別だ。My Bloody ValentineLoveless』の先に存在するのはこれしかない。この音が鳴っているとき、世界に必要なのはこの音だけだ。

"Austin, Texas Mental Hospital "の押し寄せるギターの音(加工が見事すぎてギターなのかどうかよくわからない、ギターじゃないかもしれない) を君はもう聴いたか?"Requiem For Dying Mothers"の弦楽器の広がりと異様な低音の迫り方を感じたか?しかし、曲のタイトルも最高だな。意味はよくわからないけど、なんかすげえわかるし、わからないやつとはともだちになれそうにないしならない。

僕は毎日大抵短い昼寝をするのだけど、その時にこれを聴いていることが多くて、意識を失ってからぱっと目覚めた時の開放感がすごいから。音の重なり方がよすぎる。なにが最高かって聴いているとよく眠れることですよ。まぁ前半の方の曲が最高すぎて、後半のピアノの曲とかは静かなやつはあんまよく覚えてないんだけど、その辺りの曲は晴れた暖かい冬の日の陽が落ちる少し前くらいの時間がよく合う。孤独のありがたさが身にしみる。

やっぱり少しずつ大きくなってくシンセやギターの音(ヴァイオリン奏法最高)とか、サステインが無限にのびていく音とか微妙に揺れ続ける音とかそういうのが大好きすぎるんですよね。そういうの好きな人と眠りたい人と気持ち良くなりたい人と死にたくないけど死にたい人は是非聴いてみて下さい。人生ベストアンビエント

 

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新芸術校グループ展B『健康な街』に見る理想主義の先

健康な街、というステートメントからは、ある種の皮肉を連想していた。「健康」へのオブセッションを押し付ける「街」の様相をトレースしていくような。実際に作品群を前にすると、そこにあるのはよりストレートな反抗心だ。「健康」と名指された状態が実際は「不健康」であり、本来的な「健康」をここに示すべきだという意思。それは或る意味、理想主義的だといっていいかもしれない。

アトリエに入って瞬間的に感じるのは端正に整理された鮮やかさだ。まず、地面に寝そべるレントゲン写真が我々を迎える。よく観ると写真ではない。五十嵐五十音の手による、いくつかのふぞろいなパネルに描かれた絵だ。体の肉と骸骨が向かい合って手をつなごうとしている。そのイメージは不気味さよりも、分裂したものをなんとか繋ぎあわせたい、だが繋がらないという切実な感情の発露を体現している。同時に、肉まで剥がさなければ、新たな健康を得ることができないという切迫感も見出すことが出来る。

裸へ向かう五十嵐の作品と対象的に、壁にかけられている諸作は服をテーマとしている。作者の長谷川祐輔は、実用性の束縛がタイトになりすぎた服飾の世界において、ファッションの効用を再起させようとする。奔放な筆遣いのスケッチ画、立体的に絵の具が塗りたくられた油絵は実用的な面を一切みせず、役立たずの抽象性に傾いている。長谷川はこれもまたファッションであると語る。人間を覆う布として発生した服は、歴史のどこかでファッションとして独創性を持つに至った。実用から遊びへの転換があった。長谷川はこの転換をアートという場所で再演してみせる。荒削りながらも、野心的な試みだ。

五十嵐と長谷川の作品は、肉を剥ぐ体と布を覆う体という対照性を持つが故にか、隣り合うことで響きあっている。本当の健康を回復するための手段として、逆ベクトルの二作が並ぶことで、強いステートメントを視覚的にもたらす。展覧会全体の鮮やかさは、この入口の印象から齎されている。

その奥で出会う有地慈の作品は、模型とループされる映像、そして二つの石で構成される。日本初の航空機墜落事故の記念碑が残る(という事実を市民が忘れている)所沢市内を有地が自転車で回遊する映像の側で、高低差をつけた八の字ループのレールの上を自転車の写真を貼られたモーター式のおもちゃが進み続ける。映像と模型は当然重ねられている。その重なりは、反復する日常と反復する忘却の重なりでもあるわけだが、目を引くのは石、加えてレールとテーブルに施された花柄のパターンだ。八の字の中央には石が置かれてあり、石を外すと飛行機のプロペラを模した十字形のオブジェが急下降してくる。飛行機墜落のイメージがここで反復される。その反復性はパターン化された花柄の模様にも現れる。そうした全ての反復を奉るかのように、床に置かれた、所沢から持ち出されたもうひとつの巨大な石。ここには、記憶を保存することで不健康な反復、逃げられない街を脱しようとする試みが見られる。

小林真之の作品はなんらかの機械装置を想起させるが、それは定着したイメージ(写真)を崩していく装置である。繋がれた写真の一部が、塩水に浸かっている。この水に浸かることで、写真は会期中に少しずつ色あせ変形していくらしい。ここでは一度定着した記憶を単線的な時間軸から解放することで街の空気を変えていかんととする意思が現れる。 小林は人間を観察しつづける「なにか」がいるような気がしてならない、その「なにか」のためにこの作品を作ったという。そうした第三者の存在自体が人間への、街への不信と連繋しているだろう。興味深いのは、有地と小林の作品にも対照が生じていることだ。有地は記憶を固定することで、小林は記憶を異化することで、街からの脱出を計画する。方法論が分裂しているのだ。その分裂は、グルタミン酸ナトリウムでできた白い山とパンやソーセージの製作過程を映した映像によって内側から健康が破られる契機を示す下山由貴と、ポルターガイスト現象とその種明かしを同時に映す映像により、嘘を真実に感じさせる外からの暴力を感受させようとする中川翔太との関係性にも当てはまる。

こうして観ていくと、『健康な街』という展示自体が、ある種の分裂症の様相を呈していることに思い当たる。だが、むしろ分裂こそが健康なことではないか。過度の統合を要求する社会は、どこか狂っているのではないか。彼らの作品が総合的に語りかける言葉があるとすれば、そのようなものだろう。だとするなら、するべきことは一つ。分裂を、分裂のまま肯定すること。統合の暴力に屈しないこと。その姿勢はすぐに崩れてしまうような危うさを含んでおり、幼い理想主義だとも言える。実際、彼らの作品の間では「健康」をアイロニカルに捉えるか、ストレートに捉えるか、「街」を抜け出す場所と考えるか、留まる、もしくは作り上げる場所として考えるかという基礎的なコンセプトの一致が見られず、シンメトリックに整理(分裂)された作品配置とは裏腹のちぐはぐな内実が露呈してしまっている。ステートメントを説得的に響かせるしたたかな戦略が必要だろう。

いずれにせよ、理想を体現しようとするグループ展Bの作家達は、これから容赦のない逆風に曝されるだろう。その時に、じっと耐えるか、膝から崩れるか、方向転換するか、それとも風を交す術を身につけるか。危ういが故に、この先の展望を見てみたくなる。『健康な街』はそんな期待感を募らせる展示でもあった。

東京デスロック『再生』の非-情緒性、非-ポップス性について

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僕と同じく批評再生塾に参加している渋革まろん氏が、先日上演された東京デスロック『再生』について書いてるのに触発されて僕も書いてみることにしました。

 

marron-shibukawa.hatenablog.com

 

とても面白く読んだのですが、なかなか首肯できない部分もあって余計に面白いなと。ちなみにまろんくんとは偶然同じ回で『再生』を観ました。

 

『再生』は全く同じ劇を3回繰り返すことで成り立っており、しかも演者達は劇中踊りっぱなしで凄まじい運動量を見せる。三度の繰り返しの中で、照明が少しずつ明るくなること、音楽の音量が大きくなっていくこと以外の変化はない。

本作の最大の特徴が「反復」にあることは観劇した誰もが認めるはずだ。私は今回の批評再生塾の課題で、平田オリザが後のロボット・アンドロイド演劇につながる、役者の身体の機械的操作を演出の要諦としたことにより、後続の演出家達が機械的身体を要請する反復の演劇を志向したと考えた。その一例として『再生』を紹介し、同じようなサンプルに、ままごと『わが星』やマームとジプシーの諸作を挙げられるとした。

 

school.genron.co.jp

 

だが、東京デスロックとままごと、マームとジプシーでは反復の性質に差異がある。課題では与えられたテーマに沿わなかったため書くことはなかったが、本稿では「反復の差異」について考察していきたい。議論を明確にするため、以降は『再生』と、マームとジプシーを比較対象に置くことにする。

ここで考慮される要素は主に二つ、ひとつは反復される時間のスパンの長さについてである。『再生』はおよそ30分の時間をワンセットに反復が為される。対して、マームとジプシーの同じシーン、同じセリフを角度を変えながら何度もリフレインさせる演出では、反復のスパンは数秒から数十秒といったところだ。マームとジプシーの演劇はこの数秒のリフレインをいくつも組み合わせて、パズルのように時間を構成していくスタイルをとっている。30分の反復と数秒の反復では与える印象は大きく異なる。

もうひとつの要素は、ざっくり言えば変わるのが舞台設定か演者かという違いだ。『再生』は前述した通り演者の動き、セリフの言い回しなどは一切変わらず、変わるのは照明と音響だ。人間は反復するが、劇の下地となる舞台には変化がある。この反復を「人の反復・地の差異」と呼ぶことにする。マームとジプシーの演劇では、ひとつのセリフの束が後半に再度繰り返されるという演出がたびたび為されるのだが、そこでは同じ言葉にはっきりとした強弱の変化がつけられる。抑制気味に発されていたセリフが、反復される際には叫び声に近い大声で、しばしば涙を伴いながらエモーショナルな様相を呈するのだ。下地は同じだが、演者の態度が異なる。「地の反復・人の差異」に相当する。

以上の、反復についての整理を表にしてみる。

 

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反復スパンが長く、「人の反復・地の差異」である『再生』の反復は表の①に類する。短いスパンで「地の反復・人の差異」を強調するマームとジプシーは④の反復を活用していることになる。正確には、マームとジプシーは演者の同じ動きを90度、あるいは180度回転させながら繰り返す演出も多用することから、③と④の組み合わせにより成り立つといった方がより正しい。

ここで、音楽とのアナロジーで反復の性質を考えると、それぞれの効果・作用の違いを理解する助けとなる。音楽の情動操作において強く作用するのはメロディであり、その土台となるのがリズムであるというのがポップミュージック全般の基礎を成す西洋音楽の規律的解釈である。演劇においては、観客の情動に訴える強いツールは何に置いても演者の発話・動きだろう。メロディ/リズムの対比を、上記の演劇における人/地の対比に重ねると、③はリフと呼ばれる、同一フレーズの繰り返しの組み合わせによって曲に快楽性を付与するロック・ポップスの常套手段と同一視できる。例は枚挙にいとまがないが、たとえばこの有名曲の冒頭ギターリフが挙げられる。

 

 

 

④には同一のコード進行と同一のリズムパターンを用いながら、歌やギターのフレージングが変化していく曲が当てはまる。声のテンションを大きく切り替えるという要素も含めると、U2"With or without you"の循環コードと後半のボノの咆哮による暑苦しいほどのエモーションが思い出される。

 

 

 こうした循環コードによるエモーション生成もポップミュージックで多用される手法だ。つまるところ、マームとジプシーの演出方法は非常にポップスと親しい位置にある。マーム〜の作・演出、藤田貴大はポップス的な快楽性と情動生成を用いて、過去のある一点、劇の中でしばしば「あの日」と名指される、親しかった誰かとの死や別離の記憶を、複数の劇中人物に共有させる。共同体がひとつのトラウマを反復させながら、共通の記憶と感情を確認していく。まろん氏が「必然的に「みんな」を増幅していく「日本的情緒共同体」を劇形式のレベルで反復せざるを得なくなってくる」と語るとき、この構造により当てはまるのは藤田貴大、およびマームとジプシーの演劇なのではないだろうか。詳細は省くが、一人の女性の生涯を登場人物全員が共有するままごと『わが星』も同様の性質を持つだろう。

 

東京デスロック『再生』の長いスパンで舞台装置のみが変化する反復は、劇中の音楽にJ-Popを使用していながら、その実ポップス的ではない。30分のスパンで反復する音楽というのは、私が記憶する範囲では思い当たらない。ただ、近い例では、メロディー要素を最小限に抑えて、リズムの微妙な変化で長い時間をかけての快楽を構成していくミニマムテクノが脳内に浮上してくる。

 

 

あるいは、アドリブによるソロ演奏がジャズの真髄だと考えられていた時代に、管楽器のメロディをひたすら反復させ、ドラム・ベース・ピアノのリズム隊(ジャズにおいてはピアノはリズム要素と考えられることが多い)の変化で曲を聴かせるという逆の発想を具現したマイルス・デイヴィス"Nefertiti"も近いものとして考えられる。

 

 

リッチー・ホウティンやマイルスの楽曲(この二つを一緒に語るのも大分暴論だが)を聴く際には、微小な差異に反応できるリスニングリテラシーが求められる。情動的なドラマ性に慣れている聴き手は、無感情な印象を与える楽曲に戸惑う。だが、微小な差異が少しずつ生成される感覚を掴むと、そこに含まれる心地よさは、飽きることのない、持続的なものとして生き続けるだろう。

こうした、メロディに対するある種のミニマルさを有した音楽が聴衆に与えるものはポップス・ロック的な情動の共有ではなく、感情はばらばらでも同じリズムによって身体が反応する、律動の共有である。まろん氏がいう「多幸感」や「観客の自律性の麻痺」を、私は『再生』の舞台から感じなかった。むしろ、三回の反復の中で立ち現れる微小な差異を、凝視しながら確認する心地よい作業こそが、『再生』の上演を他に類をみない特別な時間へと変成していく梃子になっているのではないか。いくら同じことの反復とはいえ、機械に成り切れない演者達のなかではわずかながらの動きの差異が当然生じるし、完全に同じ動きだとしても照明の明るさが変われば見え方も変わる。そのかすかな差異に観客の目や耳は集中する。ここにあるのは、観客の自律性が普段より活性化されている状態ではないだろうか。

また、劇中で笑いを誘う役者は決まって中年男性を演じる夏目慎也だったが、彼のどの動きに私含めた観客が反応するか、どの言葉に思わず笑いが漏れるかは、三回の反復の中でタイミングがすべて異なっていた。一度目はヘタクソなマイケルジャクソンの物まねをするところで笑うが、二度目は『太陽にほえろ!』の刑事に憧れてたと息切れしながら語るところに微笑んだりする。このタイミングの差異は、舞台上の変化よりも、観客の状態の変化に起因する。同じことの反復でも、時間の経過が伴えば主体の反応は当然異なる。あまりに当たり前の事実だが、それをひとつの上演によって現前化されることはほとんどない。『再生』は観客に自らの心的状態への意識集中と、目と耳の上演への凝集化を同時に生起させる。『再生』の上演は、観客その人の在り方を観客の数だけ個別に問いなおす体験なのだ。そこにあるのはたしかにひとつの共同体だが、それは情緒の共同体ではなく、ひとりひとりに異なる情緒を作動させるための土台を共有した、律動の共同体なのである。

 

本当は、もうひとつ、『再生』で使われる音楽がしばし「J-Pop」と名指しされるし私も先程「J-Pop」と書いたが、実はそれは間違っているということも指摘したかった。ただ、少し長くなったし、書き手の体力も尽きてきたので止めておきます。簡単に触れると、フィッシュマンズあがた森魚安室奈美恵に含まれる意味には違いがあるし、それを「J-Pop」という言葉でひとくくりにするとこの劇の大きなポイントを見逃すことになるという話です。時間とやる気が出てきたら、そのうち。

 

新芸術校グループ展「其コは此コ」

ゲンロン新芸術校グループ展「其コは此コ」に伺いました。

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新芸術校の4つのグループ展のうち、今回は最初のAチーム、四名よる展示。作家それぞれにやりたいことがはっきりしていたため、展示自体の明確な方向性は定めなかったとのことだが、観ていると一貫性が徐々に感じられてくる。すぐに気付くところでは、それは一種の雑多さだったりするだろう。猫を描き続ける友杉宣大にしろ、抽象画を志向するよひえにしろ、同じモチーフを様々な色、様々な線で増殖させることによって、静謐に整理されたものから離散していくような印象を観る者に与える。白黒の線のみを使用する中村紗千の怪獣が描かれた風景も、質の異なる線が入り乱れてカオスの様相を呈しているし、最もミニマリスティックな龍村景一の映像作品も、15秒足らずの白黒素材をいじり倒すことで時間が引き裂かれていくようなダイナミズムが付与されている。個々の作品がバラバラという意味で雑多なのではなく、雑多さによって全体が統一されているということだ。

もう一つ、共通点を挙げるとすれば、それは「移動」という言葉で表される。友杉は猫が旅する様子を何枚も何枚も描き、会期中も設置されたテントの中で猫の絵を描き続ける。猫は現在進行形で移動している。龍村の作品は裸の男(龍村自身)がスクリーンの中心めがけて突進していく映像を基に作られているが、映像はやがてスクリーンと相似をなす多数の長方形で分割され、移動する裸の男の残像がスクリーン上に大量に現れることになる。カチ、カチとなる効果音が次第に増幅して最終的に細かく刻まれたリズムを作り出す音響効果も、疾走感を表現するのに一役買っている。よひえは会場トイレの中にピンクやオレンジといった暖色系の色彩をメインにしたアクションペインティング的抽象画を数点展示しているが、トイレには水洗機の上にライトが用意され、そこから録音された音が鳴っている。この音はよひえがiPhoneで移動しながら収集した、街の音や車のラジオの交通情報などで構成されているものだ。日常的な移動の中で聞こえてくる音と、抽象性の高い絵画を合わせることで、抽象と具体の間に触れるような展示となっている。中村の作品には比較的大きく描かれた怪獣の表象と併せて、橋を渡る小さな怪物達がいくつも描かれているのが特徴的だ。怪獣達が流れるように移動していく様子と、生命力を持っているかのように激しい描線の跡を目で追っていると、一つの平面に時間性が宿っている感覚を覚える。彼らはみな、「移動」を含む表現を志向することにより、静止された平面に時間を刻もうと、あるいは単数の時間を複数に分離させようと努めている。

「其コは此コ」展は、「其コ」と「此コ」の間を「移動」しながら、その間に出会う「雑多」な世界をトレースしていくという、淡い意志に支えられて展開していた。その「雑多」な世界のなかには、時間も空間も心象も外景も含まれるだろう。時間が空間と重なる地点に、抽象的なイメージが具体的な日常と重なる地点に、「其コ」が「此コ」と重なる地点に、作家達は身を置いている。そしてその点は、今日も移動を続けている。

 

 

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