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ロロ『いつ高シリーズ』まとめ公演はコミュニケーションの在り方を刷新するような大傑作だった

作・演出の三浦直之率いる劇団ロロが不定期に公演している「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三高等学校」、通称「いつ高」シリーズ。現在その第四弾『いちごオレ飲みながらアイツのうわさ話した』が駒場アゴラ劇場で上演されているが、それに併せて今までのシリーズ全てをまとめ公演している。

 

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「いつ高」シリーズは高校を舞台にした連作劇で、高校演劇のルール(上演は60分以内、舞台セッティングは演者がおこなうなど)に基づいて行われる。登場人物の一部が毎回登場するが、ひとつの劇で全員集合は絶対しないのがシリーズの特徴。筆者は今までvol.2「校舎、ナイトクルージング」vol.3「すれ違う渡り廊下の距離って」を観劇したが、今回改めて通して観ることにした。

 

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率直にいって、大傑作だと思った。

まとめて観劇すると「そこにいない人々をここに再現すること」というテーマが通底していることに気づく。1では模型、2では録音機、3では伝言、4では絵と短歌と、不在の人やものとつながるための装置が必ず用意されているのだ。特に2の引きこもりラジオ女子逆乙女(望月綾乃)が毎夜学校に忍び込み、昼間に隠し録りしたたくさんの声を再生して真夜中に昼休みを再現する試みは、もちろん笑うところだしめちゃくちゃ笑ったんだけど、同時にとても愛おしい気持ちになる。非常に遠回しであるが故に、大事なことを伝えてくれるコミュニケーションがそこには存在する。むしろコミュニケーションというものは本来不在の人とつながるためのツールなのではないかとすら考えてしまう。シリーズのテーマとして掲げられている「まなざし」も触れられないだれかと仮想的に触れ合うための手段として捉えられているのではないか。vol1から4へと一人ずつ演者の数が減っている(6人から3人へ)ことも、そこにいない人々を増やすことで想像する余地を与えるための仕組みに思える。瑠璃色と茉莉と海荷がいちごミルクを飲んでいるあいだに将門は何をしているだろう、太郎が渡り廊下を往復している時にシュウマイはどこにいたのだろう、朝たちが深夜学校で肝試ししているときに白子は眠っているだろうか。見えない彼らのすがたを想像するのがとても楽しい。

 

vol.1とvol.2、vol.3とvol.4が対になっていることにも気づいた。1と2は同じ教室の昼と夜、3と4は同じ校庭の向こう側(渡り廊下)とこちら側(ベンチ)が舞台になっている。1と2のメインテーマ曲はサニーデイ・サービスで3と4はハイロウズだ。この対立項の関係が「いつ高シリーズ」をより立体的な世界へとビルドアップしている。そして、サニーデイハイロウズもいつかは失われゆく、もしくはそもそも存在しなかった青春を歌っている。だからこそ、温かいメロディと跳ねるようなリズムはとてつもなく冷たい寂しさも同時に連れてくるのだが、三浦直之をはじめとするロロのメンバーは今ここに大切な人がいない事実そのものを肯定するような世界を立ち上げることで、寂しさすらも希望に変えていく。端的にいって、僕は勇気をもらった。やはり、いつ高シリーズはコミュニケーションの定義を刷新するような、そんな画期的な演劇だ。

 

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