I was only joking

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『騎士団長殺し』は物語についての物語である

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村上春樹はほんとに批評しづらい作家だ。ひとつの視点を持ち出して語るにしても、説得力が発生せずに空振りしているような感覚があり、「深読み」の魔の手に囚われるように感じてしまうのだ。自分は穿ったつまらない見方をしているのではないかという思考が頭から離れず、結果的に書くのを諦めてしまう。他の作家・作品のことを書くときにはある程度の飛躍を自分に許すのにも関わらず。村上の作品はあまりに解釈の広がりが確保されすぎててどのような見方にも新鮮味が出ないことが理由のひとつとして考えられるが、おそらく著者本人が批評を回避するような書き方をしているのだろう。作家としての自らを語った『職業としての小説家』の中で、村上は自作が批評的に厳しい評価を受け続けてきたということに言及をしているし、同時に読者との直接的なつながりを強調する表現も見受けられる。村上は批評を経由しない読者それぞれに語りかける言葉を求めていて、結果的に批評の入る隙間がなくなってしまう。筆者は作家の態度を最大限尊重したいと思いつつ、批評行為の魅力を信頼しんている人間として可能限りそれに抗ってみたい。この先の文章も終わりまで勧められるか心もとないのだが、作家の批評不信を拭う言葉をつなぐくらいの気概をもって進めていければと思う。

 

騎士団長殺し』を読みすすめて驚いたこと、それは自身の過去作への反応ともとれるイロニーがあちらこちらに見られることである。まずサブタイトルの『顕れるイデア編』『遷ろうメタファー編』がすでにイロニーであり、タイトル通り何の衒いもなくイデア的存在とメタファー的存在が登場する展開が用意されている。村上作品に特徴的な、象徴性を有する人物・存在と頻繁に使用される比喩の応酬を、そしてそうした特徴に対する今までの読者の皮肉を著者が理解して、若干のメタ視点を導入しながらアイロニックに文章を綴るのが、過去作との大きな差異である。

この自己言及性は本作に棲息している一つのテーマと密接につながっている。それは「物語そのものについての物語」というものだ。多くの村上作品、特に長編の特徴として「主人公が自主的に行動しているのではなく、あらかじめ定められたプログラムに動かされているように思える展開」が挙げられるし、今作では語り手である「私」が「ただプログラムに沿って動いてるだけだ」とこぼしたりするが(ここにも自己言及)、この特徴は読書そのものの比喩として捉えることが可能である。本を読む時、読まれる文字は既に印刷されているし、ストーリーはあらかじめ決められている。ただ、あらかじめ決められた物語が動き出すには読み手の意志が必要になるし、本からどんな意味を見いだすかは個々人の自由だ。『騎士団長殺し』という物語全体が物語を読む行為のメタファーであり、定められたプログラムを作動させるための意志を肯定している。

また、第一部冒頭の「夏には谷の奥の方でひっきりなしに雨が降ったが、谷の外側はだいたい晴れていた」という描写は、第二部18ページのまりえの母の歌「川の向こう側には広い緑の野原が広がっていて、そちらにはそっくりきれいに日が照っていて、でもこちら側にはずっと長く雨が降っていて・・・」と呼応しており、第二部90ページ「どんなものごとにも明るい側面がある。どんなに暗くて厚い雲も、その裏側は銀色に輝いている」というセリフにも結びつく。このセリフはいかにも紋切り型な人生論であり文章単体での魅力は乏しいが、小説全体の対応関係の中では個人それぞれがポジティブにもネガティブにも捉えることの可能な物語というものの二面性を象徴する言葉として機能していく。あちらこちらで見つかる「半月形」という単語も二面性を想起されるものだ。

他にも、「目に見えるものだけを信じればいい」「目に見えないものと同じくらい、目に見えるものが好きだ」という言葉は「まず、なにより書かれている言葉を読むべきだ」というメッセージに取れるし、度々登場する三点計測のモチーフも「自分と世界の関係を測るための三点目としての物語」についての言及として読める。

 

村上は「物語」という言葉を強調する作家である。たとえばこのようなかたちで。

 

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騎士団長殺し』は村上にとっての「物語」の実践であると同時に「物語とは何か」を語った書であるといえる。故に、本書はこれから物語の深い森へ入らんとする少年少女への冒険の手引きとしての役割を持つし、それはティム・バートン『ミス・ペレグリンと奇妙な子どもたち』で内気な少年を新しい世界へ導いた祖父の果たした役目と同じだ(本書は何故かこの優れたジュブナイル映画を想起させる)。「いまここにある現実とは離れたところにある現実から物事を運んできて、それによって、いまここにある現実を、よりリアルに、より鮮やかに再現する」ことが物語の目的だとする村上の断定を鑑みれば「騎士団長は本当にいたんだよ」という言葉の意味が自ずと見えてくるだろう。誰にでも訪れる通過儀礼を描いたおとぎ話。だが一度読み終わって冒頭に戻れば、イニシエーションは一度きりではないという現実も表現していたことに気づく。口当たりのよい文章の中に、複雑な味わいを隠した充実作だ。