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『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』についての試論(十字、点滅、エルヴィス、歴史)

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今年最大の映画ニュースのひとつがエドワード・ヤン監督『牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』の25年ぶり日本劇場公開だろう。台湾映画を代表する1本であり、世界的に評価が非常に高いにも関わらず、日本ではDVD化されず長年観ることが叶わなかった作品だ。

 

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エドワード・ヤンの少年時代に実際に起きた殺人事件を基に、中国本土から国民党と共に台湾にやってきた「外省人」の少年達の葛藤の日々を描いた青春群像劇。この映画はもちろんフィクションだが、1960年の台湾の持つ異様に緊迫した気配をスクリーンに蘇らせ、近現代史の再検討を試みた生々しいドキュメントでもある。

本作の素晴らしさを言葉で説明するのは非常に難しい。あまりに魅力的なポイントが多く、しかもその魅力とはそれぞれの要素が連携することで乱反射されるような、一部分を切り取って語ったらするりと逃げ出してしまうような類いのものだからだ。画面構図、カメラワーク、編集、ストーリーテリング、演技、音響、音楽、実社会との関係性、どれをとっても良いものなのは間違いないが、どれかひとつを抽出して語ることがためらわれる作品なのだ。

 

僕はひとまず映画内で呼応するいくつかのディテールに触れようと思う。全体として圧倒される作品を前にしたときにすぐに出来ることは、細部の検討しかない。といつつも、細部のポイントだけでもあまりに多く存在するので、重要なモチーフを二つ挙げるにとどめる。

まず、「十字・十字路」である。本作には縦の奥行きと横の広がりを同時に映したシーンがいくつか見られる。たとえば主人公二人、シャオスーとシャオミンが軍事演習中の野原を歩くシーン。前方に進んでくる二人を画面左側に映しながら、右側では後方で隊列を組んで軍隊が右から左へ走っていくとき、二つの運動が十字を形作っていることに気づく。学校の外で待ち合わせするシャオスー・シャオミンが冷やかされるシーンでも、前方に広がるのは十字路である。シャオミンの彼氏でシャオスー達グループのリーダー、ハニーが道路の前で敵対者に背中を押されるところでも、車の動きと人間二人の動きが90度に交差している。この映画では、二つの動きが垂直に交わるという事態が決定的ななにかを呼び起こす。あの「事件」の直前に、十字をシンボルとするキリスト教のテーマが急に浮上するのも偶然ではない。

そして、「光りの点滅」。本作の中で非常に闇のシーンが多いということは映画を観た誰もが気づくことだろう。その闇の中で、シャオスーはまるで不安定な自分の居場所を示し、なんとか世界を照らそうとするかのように光りを何度もカチカチさせる。まず、夜の教室の明かりをつけて歩き回る、そこに部屋を出ようとする女学生の横顔が映るという、とても印象的で、後の展開において決定的な意味をもつシーンが序盤にある。直後に、家に帰ったシャオスーは目の異変を感じて、光の感じ方を確かめる為に明かりを付けては消す。そして、学校の隣の映画スタジオから拝借した懐中電灯というアイテム。この懐中電灯が照らしたものは一体いくつあるのだろう。いちゃつくカップル、日記、斬り殺された死体、恋人について語るシャオミン。光りの点滅はストーリーを前に転がすための装置となり、やがて懐中電灯がスタジオに返されるときに、最も深い闇が襲いかかることになるだろう。

この映画は二つの道が、光と闇が、少年と少女が交差することで生まれたドラマであるとひとまず言えるだろう。その交わりの歓喜と受難を、それが呪われたものと知りながら祝福する術を、エドワード・ヤンは体と魂を張って示してくれている。

 

本作の英語での題名にも触れておきたい。英語タイトル『A Brighter Summer Day』はElvis Presley『Are You Lonesome Tonight』の歌詞から引用されているが、実は本来の歌詞は「A Brighter Sunny Day」である。何故歌詞そのままではなく、微妙な改変を施したのか。

 

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考えられる理由は二つある。

映画中、この曲の歌詞聞き取りをするシーンがあるが、エドワード・ヤンも同じように少年時代に聞き取りをしていたのではないか。そして、聞き取った歌詞が「A Brighter Summer Day」であり、この間違いを面白いと思いそのままタイトルに使ったのではないか。実際、エルヴィスの歌を聴いていると、「Sunny」より「Summer」に近い発音をしているように感じる。

前述の聞き取りシーンでは「Brighterって文法間違いじゃないか?」というセリフが出てくる。当然誤りではなく、歌詞全体を読めば比較級の対象となるのはnowだということがわかるからし、「Brighter sunny day」が「君がいない今より輝いてた晴れた日」という意味だと取れる。この「Brighter」が二つ目の理由につながってくる。

映画内で流れる時間はどのくらいの期間なのか。この疑問に明確に回答できる細部があり、それはシャオスー一家の壁にかけられてるカレンダーである。カレンダーを観ていると、「3月」「6月」と登場ごとに数字をしっかり変えていて、時間の経過を教えてくれる、そしてこの映画のはじまりからおわりは(冒頭のエプローグ的な入学試験の挿話を除いて)「1960年の夏から1961年の夏まで」となる。大事なのは映画内で2度夏が出てくることである。つまり、『A Brighter Summer Day』というタイトルには「1960年の夏より輝いていた1961年の夏」、そして「君の出会った夏以上に君をまぶしく照らそうと思ったあの日」という含意が込められているのだ。まぶしさが「光りの点滅」と繋がっているのは言うまでもないだろう。題名を取って考えてみるだけでも、いくつかの重要な意味が込められている。この映画は観れば観るほど、考えれば考えるほど世界が広がっていくような、途方もない体験なのだ。

 

最後に、ちょっとした飛躍を許してほしい。

僕はこの映画のことを考えているとき、何故か田中宗一郎氏のことを思い出していた。理由ははっきりしていなかったのだけど、以下の記事を読んでなんとなくわかった気がした。

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『クーリンチェ〜』には、60年代の台湾の少年たちがいかにアメリカ文化に憧れていたかを示すアイテムが多く登場する。エルヴィス、野球バット、バスケットボール、ジョン・ウェインの西部劇。シャオミンの軍隊好きにもアメリカとの関係性を想起させるものがある。このアメリカへの憧憬は、田中氏がSnoozer時代から語っており、Cinraのインタビューでも言及している「少年時代はアメリカ文化一色だった」という発言を思い出すし、あぁタナソーが言っていたのはこういう風景だったのだなとエルヴィスを歌う少年を観て考えたりする。また、本作では登場しないが、エドワード・ヤン鉄腕アトム好きでも知られ、遺作となった『ヤンヤン 夏の想い出』にはアトムのマスコット人形が幾度か出てくる。手塚の短編『アトムの最後』をフェイバリットマンガに挙げる田中宗一郎と通じる部分だ。

なにより、SPOON新作の参照先の多さを基に、「音楽は歴史だ」と語る言葉を読むと、『クーリンチェ〜』には膨大な映画の記憶が重なっており、その歴史の認知具合で観えてくるものが全く違う作品であることに気づかされるのだ。僕は、映画史に関して無知に等しい人間なので、たくさんのものを見落としているだろう。恥ずかしい心情告白をすれば、だからこそもっと映画を観たいし、今回の上映で二度観たこの映画をその後で見返したいと考えているのだ。映画も歴史なのだ。

あまりに当然のことながら、エドワード・ヤン田中宗一郎はジャンルだけでなく性質としてもまったく異なる映画監督と批評家・編集者だが、彼らは同じことを教えてくれている。表現の歴史的多層性がどれだけ重要かということだ。