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映画『夜は短し歩けよ乙女』は『ラ・ラ・ランド』の完璧な陰画である

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森見登美彦原作、湯浅政明監督のアニメーション映画『夜は短し歩けよ乙女』を観ました。同じスタッフ陣によるアニメ『四畳半神話体系』は観ていない(正確には3話まで観てそこから先を観ていない)ので今回がはじめての湯浅作品。原作は読んでいるはずだがぼんやりとしか覚えていない。

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 話は自意識だけが発達したうだつの上がらない大学生(「先輩」とだけ呼ばれていて名前は明かされない)が後輩の黒髪の女の子(こちらも「乙女」という呼び名しか与えられない)に恋して、彼女を追いかけるうちにあらゆる災難・騒動に巻き込まれるドタバタな喜劇。ブログのタイトルで示した通り、この映画は『ラ・ラ・ランド』を想起させる要素がいくつもある。かなり突飛な比較に感じるかもしれないが、Filmarksに感想をかいているうちに直接的影響があるとはまず考えられない二つがどうにも結ぶついていると思えて仕方なくなった。だが、最終的にはこの二作は真逆のところへ着地する。

 

ラ・ラ・ランド』が一言でどういう映画だったかというと、あれは「セカイ系ミュージカル映画」だと思う。つまり「ボクとキミ」という関係性がそのまま世界の実存の問題に直結する、無論世界の危機などが描かれるわけではないが、主人公二人の他者との関係や勤務態度を見ていくと、二人の夢と恋が世界の全てであるという世界観ができあがっていることがわかる。『セッション』も同様だが、ディミアン・チャゼル監督は観客に完璧な没入を要求する。宇田丸も指摘するように、彼の映画を愛する為には主人公二人への一体化が必要であり、醒めた視点を持ち込んだ時点で熱は冷めてしまうのだ。

【映画評書き起こし】宇多丸、『ラ・ラ・ランド』を語る!(2017.3.11放送)|TBSラジオAM954+FM90.5~聞けば、見えてくる~

 

夜は短し歩けよ乙女』と『ラ・ラ・ランド』の共通点として、まず色彩と引用の氾濫が挙げられる。ミュージカルシーンの衣装にみられるように『ラ・ラ・ランド』の色使いも多彩だが、『夜は短し〜』の色の多さは凄まじく、とにかく赤、緑、橙、金、紫などなどあらゆる色彩が、それも徹底的な繊細さで鮮やかに組み合わせられていく。夜空の少し緑がかった黒など、絶妙な色指定には目を見張るものがある。

引用に関しては、『ラ・ラ・ランド』が映画なのに対し『夜は短し〜』は文学である。古本市のシーンに顕著なように、谷崎、太宰、三島などの近代日本文学からデュマやオスカーワイルドなどの西洋文学、あるいは萩尾望都大島弓子などの少女マンガから江戸時代の春画、さらには森見登美彦の作品というメタ言及まで、ありとあらゆる文学作品が引用される。

この古本市のくだりに印象的な場面がある。それは「古本市の神様」と自称する小僧(『四畳半〜』の小津の反映)が本のつながりについて力説するところだ。「〜が書いた小説を批判したのが〜で、その〜が死んだときの追悼文を書いたのが〜で」という風にあらゆる作品、作家がなんらかの関連性を持ってひとつの宇宙を形成していくことを小僧は「乙女」に説明するのである。

他にも、「全ては繋がっている」という認識を促す場面が本作にはいくつかある。明確なのは「乙女」が京都一の金貸しである李白が自らの孤独を嘆くときに「あなたはひとりじゃない、全ては繋がっているんです」と慰めるシーンだし、最初の飲み歩きシーンも学園祭での非認可移動演劇もつながりを強調するものだった。この映画は一夜のうちに春〜冬の四季が全てやってくるという構成をもっているが(この四季構成も『ラ・ラ・ランド』と共通する)、実は四季の話それぞれにつながりに関する挿話がまぎれているのだ。

「全ては繋がっている」という言葉は人を励ましもするが、ある種残酷な言葉でもある。それは人の自閉を許さないし、人が意図せずとも誰かを傷つけているという事実を明るみにだすものだからだ。『プラネテス』と『ザ・ワールド・イズ・マイン』という二つの傑出したマンガがそのことを証明している。

haguki-kuzu.hatenablog.com

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『夜は短し〜』はつながりを映していく映画だから、主人公の思い込みは冒頭から相対化される。「先輩」の「乙女」に対する想い、行動はひたすらに滑稽だし、彼の思い込みの強さと現実のあっけなさとの落差は多くの森見小説の動力源となる構造だ。だが、後でみるように、その構造は映画の後半で崩れていくことになる。

ラ・ラ・ランド』とのもうひとつの大きな共通点に平面性と奥行きとの対比がある。『ラ・ラ・ランド』ではジャズバーや車道を真正面から横長に映したショットなど、前半から中盤にかけて奥行きを欠いた平らな場面構成が多用されるが、最後にライアン・ゴズリングエマ・ストーンが出会う場面は奥行きの強い画面で映されることになる。この対比は、夢と現実の対比のアナロジーとして捉えることが可能で、ひたすらにLAの夢の中でまどろんでいた二人が目覚める演出として、平面から奥行き、二次元から三次元への急な転換が起こるように見える。『セッション』で悪夢の再現を行ったディミアン・チャゼルは『ラ・ラ・ランド』では夢からの覚醒を描いてみせた。先程、チャゼル映画の特徴として主役への没入性を挙げたが、『ラ・ラ・ランド』では最後の最後に相対化が為されるのである。

対して、『夜は短し〜』では冒頭の飲み会のシーンから「先輩」と「乙女」の位置関係がかなりの奥行きと距離感をもっているが、後半、学園祭でのミュージカルシーン以降(このミュージカルシーンはあまり評判がよろしくないが、ミュージカルのパブリックイメージを逆手にとった阿呆らしさが観ていてとても楽しかったし、なにがそんなに批判されるのか理解できていない)は平面的な画面構造が多用されるようになり、描かれる世界全体が京都という閉域であることが明らかになり(『ラ・ラ・ランド』のLAとも共通した世界観)、そこから「先輩」の長い夢の中へと物語は落ちていく。その後に現実と思い込みとの緊張が解消されるあるシーンがやってくる。つまり、『夜は短し〜』は現実から夢へと話が進んでいて、夢から現実へと切り替わる『ラ・ラ・ランド』とは全く逆のベクトルを有しているのである。『ラ・ラ・ランド』が「狭い夢に囚われた若者が、広がる現実の豊かさに気づくまでの物語」だとすれば、『夜は短し〜』は「現実の重さに囚われた若者が、軽やかな夢を信じられるようになるまでの物語」なのである。そして、『夜は短し〜』では「全ては繋がってる」という認識を強調することで夢と現実をむすびつけて、夢をうわついた妄想から区別された意志の産物として描くことに成功する。「わたしも風邪を引いたみたいです…」という乙女の言葉がかくも感動的に響くのは、現実を受け入れたが故にひとつの願いが成就するという流れを丁寧に描いた結果であり、それまで執拗に描かれた現実と妄想の重さから解放されるフィーリングが花澤香菜の発する声のいじらしさによって見事に表現されるからなのだ。夢や願いを肯定的に描き出すその強度に、大変感嘆しました。動きの面白さも、前述した色彩の鮮やかさも、キャラクターの個性の力もあるし、非常に贅沢で素晴らしい作品です。おすすめ。