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I was only joking

音楽・文学・映画・演劇など。アボカドベイビー。

ジャック・リヴェット、13時間の傑作『アウト・ワン』を観た

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5月6日と7日にクラウドファンディング出資者限定で、昨年亡くなったジャック・リヴェット監督の12時間43分に及ぶ1971年の大作『アウト・ワン』の上映が都内某所で行われた。

 

indietokyo.com

 

『アウト・ワン』は8つのエピソードに分かれたパリの若者達の群像劇であるが、厳密な脚本は用意されておらず、役者の演技を観ながら即興的に作られていったという話である。話の中心には二つの劇団がいて、彼らはそれぞれアイスキュロスの劇の上演のためにいささか前衛的な雰囲気のリハーサルを日々行っている。そこにジャン=ピエール・レオ演じるコランと、ジュリエット・ベルト演じるフレデリックという二人のアウトサイダーが絡んでいき、次第にバルザックの小説から取られた《13人組》という秘密結社の存在が浮き彫りになってくる。13時間という異様な上映時間もこの《13人組》から決められたものだとリヴェットは語っている(Indie Tokyo作成の本作パンフレット参照)。

 

最後まで観れば明らかなように、この映画は68年のパリ5月革命の残滓についての映画であり、激動の時代に賭けた青春を取り戻そうとして挫折する物語が中心にある。ラストの8エピソードにおける73分は夢が音を立てて瓦解していく様を克明に記録しており、映画が終わってしまうという事実認識と相まって観ていてかなり切ない気持ちにさせられた。だが、最後のカットの突然の挿入にはとても驚かされたし、切なさが一気に飛んでいった。ある方法でラストカットは予告されているものの、それでもあの一瞬の映像には驚愕せざるを得ない。本作はおそらく予算の限界もあって一つのカメラでの長回しが多用されるが、継続される映像の流れの中に短いカットが挿入されることで観客をハッと驚かせる効果が生まれている場面がいくつかあり、最後のカットはその最たるものだろう。こうした異化作用から感じられるリヴェット流の遊び心が、「革命の挫折」の裏側にあるもう一つのテーマと言えるかもしれない。

 

その遊びがもっとも画面に表出してくるのは色彩によってである。本作の中で特権的位置を占めている色がひとつだけあり、それはオレンジ・橙色だ。序盤から、服装や小道具、例えばマイケル・ロンズデールが演じるトマの劇団のプライマルスクリーム療法的リハーサル(参加者全員が思いのままに叫んだり這いずり回ったりする)でオレンジのトルソーに皆が纏わり付く場面やベルナデット・ラフォン演じるスランプの小説家サラの部屋にオレンジの花が花瓶にいくつも挿してあったりする。登場するいくつかのカフェの椅子はことごとくオレンジ色だし、壁紙やソファの色もオレンジがやけに多い。このオレンジの存在感はどんどん積み重なっていき、後半に流れる血の色までがオレンジに染まっている。

 

また、数字も重要なモチーフであることは疑い得ない。なにせタイトルに「1」という数字が含まれた、「8」つのエピソードに分かれた、『13人組物語』を基にした「13」時間の映画である。電話番号や住所、ジュリエット・ベルトがつぶやく数字の羅列など暗号めいた数字がいくつも現れるが、ここで注目されるのは1、8、13をすべて含む数列、フィボナッチ数列だろう。

 

org.kk-online.jp

 

フィボナッチ数列とは大雑把にいえば「直前の二つの数の和が次の数になる」数列でああり、

「1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89、144・・・」と続いていく。

この数列の特徴は「となりの数との差がどんどん大きくなっていくこと」にある。『アウト・ワン』は明確なストーリーやひとつの目的に収縮するのではなく、どんどん拡散していく意志をもった映画であり、その性質はフィボナッチ数列と共有されたものだと言えよう。タイトルに含まれる「アウト」という単語も、単一性の外へ外へと広がる運動の現れである。だから、この映画を画一的な意味で解釈することには、決定的な過ちとなると言っていい。批評自体も、外へと進んでいかなければいけない。

 

他にも、ピストルや帽子やたばこなど強烈な存在感を主張するアイテムがいくつも存在し、バルザックアイスキュロスルイス・キャロル作品とのインターテクスチュアリティも忘れてはいけない要素だろう。ともあれ、この映画には多くの遊戯成分が含まれており、製作陣の意図を超えたところまでそれは浸透していく。ここで映像ににじむ遊びの在り方に深く言及するとキリがなくなるので止めておくが、一言だけ、『アウト・ワン』と戯れることは、映画の本質、さらには生きることそのものの本質へ触れることにもなる、とは明言しても許されるだろう。

 

そういえば、もうひとつ観ていて驚いたのは71年のパリの姿が現代とさして変化していないこと。筆者は2015年にパリへ訪れているが、街の様子にはほとんど違いがなく、ファッションなどの風俗に関しても、ヒッピー文化が現代では廃れていることをのぞけば大きな差異はないように見受けられた。71年の日本は今と比べて決定的な差があるだろうし、当然もっと古びたものに感じるはずである。この変化のなさはヨーロッパの町並み全般に言えることなのかもしれないが、もしかしたら西洋人と日本人では、この50年に対する時間感覚が大きく異なるのかもしれない。

 

最後に、今回の上映を実現してくださった大寺眞輔さん、およびIndie Tokyoの皆様には感謝の言葉しかありません。フィルム権利の買取にはじまり、字幕翻訳、パンフレット等グッズ類作成、上映場所の検討・交渉・準備など、相当の苦労と時間を費やしたはずです。本当にありがとうございます。

来週には京都での上映も控えているし、東京での再上映の検討もされているとのこと。予定があえば是非もう一度みたいです。さらに13時間かけても全然苦にならないぞ。