I was only joking

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小松台東『山笑う』と「外のない人々」について

小説家の保坂和志はインタビューでこのようなことを語っている。

ぼくにとってまず世界とか人生とかを外側から見る視点をいかに自分のなかから完全になくしていくかということだから。世界というのは外から見えない、自分の人生とかも外から見えないわけでね。外から見えるというその救いみたいな出口みたいなものは、ひとが知的なひとたちとそうじゃないひとたちって現実にいるわけでさ、知的なひとたちってそういった俯瞰的思考ができるようになっているんだよね。(中略)それによってほんとうに自分の人生が豊かになるかといえばちがうと思うんだよ。それで人生を歩めるか、人生をもっとも充実させられるかといえば、外に出てしまうやり方はダメなんだよ。人生や世界を外から見ない訓練を徹底していかないと充実したものにならないんだよ。 『世界の外に立たない思考 ベケットカフカ小島信夫』【別冊ele-king 読書夜話】より

 

三鷹市芸術文化センターで小松台東の『山笑う』を観ながらぼくは保坂和志いうところの「人生や世界を外から見ない」人々のことを考えていた。母の通夜に、男を連れて東京から宮崎に帰ってきた妹に対してこんがらかった感情を抱える兄夫婦、その息子と夫婦の友人らを混ぜた家族劇。はじめは宮崎弁の語気の強さに怖れをなすが、やがてそれぞれの人間関係、状況、想いなどが明らかになってくるにつれて気づいたら言葉の癖にもなれている。

 

小松台東|komatsudai.com

 

「外」から見れば、全ての登場人物には何らかの欠陥があり、決して褒められた態度はとっていない。がなり声で妻に父権をふりまわしながら妹をこっぴどく責め立てる兄、その場で最年長なのに気が小さく会話の飲み込みも遅い妹の彼氏(?)、やたら人との距離が近く酒癖の悪い兄の友人。「世間」を気にしているのかと思えばそこから逸脱した行動や発言がいくつも飛び出してきて、公演時間100分のなかで観客を何度も笑わせるわけだけど、『山笑う』を観ることはそのまま「人生や世界を外から見ない訓練」となっているのではないかと思った。この作品は登場人物たちを肯定も否定もしていない。いや、肯定しているのかもしれないが、そこに論理として説明できるような理由はない。ただ、無条件で抱きしめている。昨日、新文芸座観たチェコのイジー・メンツェルによる映画『剃髪式』も、外からの視点を持たない愚かな人々を無条件に抱きしめるような大らかな作品だった。声がデカすぎる人物が出てくるところも共通している。

 

indietokyo.com

 

この無条件さは、キリスト教の隣人愛とは違うのだろうか。おそらく、違う。少なくとも、教えを広げて宣教を他者にほどこすような啓蒙を含んだ隣人愛とは違う。それはただ、自分に偶発的に与えられた環境のなかで、関係を持つことになった(「隣人」となった)存在を引き受けること。有限を受け入れることだ。無限の神の愛ではない。『山笑う』を観ることは、有限性から立ち現れる豊かさに触れる体験だ。小賢しく外を伺いながら生きることに慣れてしまっている人間(間違いなくぼくもその一員だ)の凝り固まった思考をほぐすような時間が、そこには流れていた。

 

ぼくは、「ではこの劇を論ずることは外側に立つことと同義なのではないか」と訝しんでいるわけで、批評とはそもそも「外側に立つこと」が条件となっている行為なのではないかと思ったりする。だけれど、なにかについて語る批評の営為に強く惹かれているのも事実。「外側に立たないこと」と「批評すること」のと間の解消不可能にも思える矛盾とどう対峙していくか。その答えが出ているわけでもないのだけど、作り手に直接語りかけることと、それ以外の第三者的な読み手に直接語りかけること。説明はできないが、この二つのダイレクトな語りが両立するような言葉が必要になってくるのだと思う。こんなことを、最近ずっと考えている気がする。ただまぁ、作劇もある種「外側から観る作業」だしなぁ。批評に限った話ではないのかもしれない。

 

自分の話が少し長くなってしまったが、『山笑う』はユーモアとペーソスが少しずつにじむ様が素晴らしい作品です。最後のライト消灯の瞬間に感じた愛しさのようななにかが今でも体に残っている。是非観てみてください。

 

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