I was only joking

音楽・文学・映画・演劇など。アボカドベイビー。

あなたは今、この音を聴いている?

ナカコーこと中村浩二氏のツイート。

 

 

これは過去のアンビエントミュージックの概念を作っていった音楽家エリック・サティブライアン・イーノの定義を正統に受け継いでいる発言と考えていいと思います。演奏者や作曲家が主体でなく、聴き手が自由な聴取条件のなかで何かしら世界の本質を発見してほしい、ということですね。

佐々木敦さんなんかは音楽を論じるときは一貫して「聴く」という行為について書いていて、小説について書くときも「読む」ことについて書いていますね。佐々木さんの批評は結論が出ていなかったり、あまりに当たり前な結論に到達するやつも結構ありますけど、読み手が論の流れから自由に読み取ってほしいという態度はアンビエントの概念そのものだって気もします。この本なんかは正にそう。メタフィクションにおける書き手の絶対化が嫌でどうにかして読み手の自由を確保したいって一冊です。

 

honto.jp

 

ぼくがここ一年で一番聴いてるアルバムって『Tired Sounds Of Stars Of The Lid』なんですけど、なんで聴いてるかというと睡眠導入剤として最適なんですね。お昼ご飯食べるとすんごい眠くなる体質なので5分くらい仮眠をとる(座って目を瞑るだけですが、1分くらは意識とんでる)んですが、このアルバム聴いてるとふわっと眠りが訪れるわけです。エフェクトがかかっているからか、演奏感が一切感じられない弦楽器の音の揺れが波のように押し寄せては引いて押し寄せては引いて。どうやって音作ってるかはまったく分からないんですけど、ほんとに心地よい音で、マイブラとボーズオブカナダを足して、リズムを全部引いたような感じが気持ちいいわけです。

 

 

 

ただ、通しで聴くことはほとんどない。CD2枚組のボリュームだし、ずっと集中して聴いていられない。本を読みながら最後まで流すことはあるけど、意識をフォーカスして全部聴こうとしたら絶対途中で寝ちゃうはず。眠ったら当然ながら最後まで聴けない。全体像はいつまでたっても掴めないわけだが、むしろ全体を想定することの無意味さに気付かせてくれるところがにこの作品の本領、およびアンビエントの本領があるわけで、それをナカコーさんは「目を離した瞬間陽が沈むような」と表現した。聴き始めてから眠るまでの時間が短ければ短いほど、つまりその作品を聴いている時間が短いほど、音楽としての価値が上がる。そういう逆説に、ぼくは最近惹かれている気がする。

 

ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』で、複製技術の発展による芸術のアウラの消失について語ったのは割と有名な話ですが、アウラっていうのは作品に含まれる魂みたいなものではなくて、受け手が一つしかないもの、一度きりしか起きないものに覚える歴史的な重みみたいなものなんだと説明されています。

 

いったいアウラとは何か?時間と空間とが縺れあってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを目で追うことーーこれが、その山脈なり枝なりのアウラを呼吸することに他ならない 

ウォルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』

 

この言葉とアンビエントミュージックとの関係にも逆説があると思うんですよね。アンビエントの音源なんて正に「複製技術時代の芸術作品」だし、一回性なんてないように思える。だけどナカコーさんはアンビエントを「夕日を感じるような」ものと言っている。ゆっくり夕日を眺める行為はベンヤミン的には正に夕日のアウラを呼吸することです。複製技術とアウラが両立するという逆説的事態は何故起こりえるのか。これは、録音されたものはいつだって同じものを聴いてるという前提だけど、実は聴き方によって全ての聴取体験は一回性のものになっている、というのが理由かと思うのですが、やはりここでも聴き手の体験がスタートラインになっています。その聴き方は、集中して何かを得ようとするのではなく、ぼんやりと漫然とした態度に基づくもので、寝た後はそもそも「聴いてる」かどうかもわからない。このぼんやり感は、他の芸術、本や映画や演劇や絵画やまんがや建築に臨むときにも適応されてしかるべきだと思うし、そういう体験を意識した作品があってもいいのじゃないかなと思っています。寝ながら読める小説みたいなものを、最近はよく夢想しています。滝口悠生の小説はちょっとそんな感じあるな。