I was only joking

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東京デスロック『再生』の非-情緒性、非-ポップス性について

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僕と同じく批評再生塾に参加している渋革まろん氏が、先日上演された東京デスロック『再生』について書いてるのに触発されて僕も書いてみることにしました。

 

marron-shibukawa.hatenablog.com

 

とても面白く読んだのですが、なかなか首肯できない部分もあって余計に面白いなと。ちなみにまろんくんとは偶然同じ回で『再生』を観ました。

 

『再生』は全く同じ劇を3回繰り返すことで成り立っており、しかも演者達は劇中踊りっぱなしで凄まじい運動量を見せる。三度の繰り返しの中で、照明が少しずつ明るくなること、音楽の音量が大きくなっていくこと以外の変化はない。

本作の最大の特徴が「反復」にあることは観劇した誰もが認めるはずだ。私は今回の批評再生塾の課題で、平田オリザが後のロボット・アンドロイド演劇につながる、役者の身体の機械的操作を演出の要諦としたことにより、後続の演出家達が機械的身体を要請する反復の演劇を志向したと考えた。その一例として『再生』を紹介し、同じようなサンプルに、ままごと『わが星』やマームとジプシーの諸作を挙げられるとした。

 

school.genron.co.jp

 

だが、東京デスロックとままごと、マームとジプシーでは反復の性質に差異がある。課題では与えられたテーマに沿わなかったため書くことはなかったが、本稿では「反復の差異」について考察していきたい。議論を明確にするため、以降は『再生』と、マームとジプシーを比較対象に置くことにする。

ここで考慮される要素は主に二つ、ひとつは反復される時間のスパンの長さについてである。『再生』はおよそ30分の時間をワンセットに反復が為される。対して、マームとジプシーの同じシーン、同じセリフを角度を変えながら何度もリフレインさせる演出では、反復のスパンは数秒から数十秒といったところだ。マームとジプシーの演劇はこの数秒のリフレインをいくつも組み合わせて、パズルのように時間を構成していくスタイルをとっている。30分の反復と数秒の反復では与える印象は大きく異なる。

もうひとつの要素は、ざっくり言えば変わるのが舞台設定か演者かという違いだ。『再生』は前述した通り演者の動き、セリフの言い回しなどは一切変わらず、変わるのは照明と音響だ。人間は反復するが、劇の下地となる舞台には変化がある。この反復を「人の反復・地の差異」と呼ぶことにする。マームとジプシーの演劇では、ひとつのセリフの束が後半に再度繰り返されるという演出がたびたび為されるのだが、そこでは同じ言葉にはっきりとした強弱の変化がつけられる。抑制気味に発されていたセリフが、反復される際には叫び声に近い大声で、しばしば涙を伴いながらエモーショナルな様相を呈するのだ。下地は同じだが、演者の態度が異なる。「地の反復・人の差異」に相当する。

以上の、反復についての整理を表にしてみる。

 

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反復スパンが長く、「人の反復・地の差異」である『再生』の反復は表の①に類する。短いスパンで「地の反復・人の差異」を強調するマームとジプシーは④の反復を活用していることになる。正確には、マームとジプシーは演者の同じ動きを90度、あるいは180度回転させながら繰り返す演出も多用することから、③と④の組み合わせにより成り立つといった方がより正しい。

ここで、音楽とのアナロジーで反復の性質を考えると、それぞれの効果・作用の違いを理解する助けとなる。音楽の情動操作において強く作用するのはメロディであり、その土台となるのがリズムであるというのがポップミュージック全般の基礎を成す西洋音楽の規律的解釈である。演劇においては、観客の情動に訴える強いツールは何に置いても演者の発話・動きだろう。メロディ/リズムの対比を、上記の演劇における人/地の対比に重ねると、③はリフと呼ばれる、同一フレーズの繰り返しの組み合わせによって曲に快楽性を付与するロック・ポップスの常套手段と同一視できる。例は枚挙にいとまがないが、たとえばこの有名曲の冒頭ギターリフが挙げられる。

 

 

 

④には同一のコード進行と同一のリズムパターンを用いながら、歌やギターのフレージングが変化していく曲が当てはまる。声のテンションを大きく切り替えるという要素も含めると、U2"With or without you"の循環コードと後半のボノの咆哮による暑苦しいほどのエモーションが思い出される。

 

 

 こうした循環コードによるエモーション生成もポップミュージックで多用される手法だ。つまるところ、マームとジプシーの演出方法は非常にポップスと親しい位置にある。マーム〜の作・演出、藤田貴大はポップス的な快楽性と情動生成を用いて、過去のある一点、劇の中でしばしば「あの日」と名指される、親しかった誰かとの死や別離の記憶を、複数の劇中人物に共有させる。共同体がひとつのトラウマを反復させながら、共通の記憶と感情を確認していく。まろん氏が「必然的に「みんな」を増幅していく「日本的情緒共同体」を劇形式のレベルで反復せざるを得なくなってくる」と語るとき、この構造により当てはまるのは藤田貴大、およびマームとジプシーの演劇なのではないだろうか。詳細は省くが、一人の女性の生涯を登場人物全員が共有するままごと『わが星』も同様の性質を持つだろう。

 

東京デスロック『再生』の長いスパンで舞台装置のみが変化する反復は、劇中の音楽にJ-Popを使用していながら、その実ポップス的ではない。30分のスパンで反復する音楽というのは、私が記憶する範囲では思い当たらない。ただ、近い例では、メロディー要素を最小限に抑えて、リズムの微妙な変化で長い時間をかけての快楽を構成していくミニマムテクノが脳内に浮上してくる。

 

 

あるいは、アドリブによるソロ演奏がジャズの真髄だと考えられていた時代に、管楽器のメロディをひたすら反復させ、ドラム・ベース・ピアノのリズム隊(ジャズにおいてはピアノはリズム要素と考えられることが多い)の変化で曲を聴かせるという逆の発想を具現したマイルス・デイヴィス"Nefertiti"も近いものとして考えられる。

 

 

リッチー・ホウティンやマイルスの楽曲(この二つを一緒に語るのも大分暴論だが)を聴く際には、微小な差異に反応できるリスニングリテラシーが求められる。情動的なドラマ性に慣れている聴き手は、無感情な印象を与える楽曲に戸惑う。だが、微小な差異が少しずつ生成される感覚を掴むと、そこに含まれる心地よさは、飽きることのない、持続的なものとして生き続けるだろう。

こうした、メロディに対するある種のミニマルさを有した音楽が聴衆に与えるものはポップス・ロック的な情動の共有ではなく、感情はばらばらでも同じリズムによって身体が反応する、律動の共有である。まろん氏がいう「多幸感」や「観客の自律性の麻痺」を、私は『再生』の舞台から感じなかった。むしろ、三回の反復の中で立ち現れる微小な差異を、凝視しながら確認する心地よい作業こそが、『再生』の上演を他に類をみない特別な時間へと変成していく梃子になっているのではないか。いくら同じことの反復とはいえ、機械に成り切れない演者達のなかではわずかながらの動きの差異が当然生じるし、完全に同じ動きだとしても照明の明るさが変われば見え方も変わる。そのかすかな差異に観客の目や耳は集中する。ここにあるのは、観客の自律性が普段より活性化されている状態ではないだろうか。

また、劇中で笑いを誘う役者は決まって中年男性を演じる夏目慎也だったが、彼のどの動きに私含めた観客が反応するか、どの言葉に思わず笑いが漏れるかは、三回の反復の中でタイミングがすべて異なっていた。一度目はヘタクソなマイケルジャクソンの物まねをするところで笑うが、二度目は『太陽にほえろ!』の刑事に憧れてたと息切れしながら語るところに微笑んだりする。このタイミングの差異は、舞台上の変化よりも、観客の状態の変化に起因する。同じことの反復でも、時間の経過が伴えば主体の反応は当然異なる。あまりに当たり前の事実だが、それをひとつの上演によって現前化されることはほとんどない。『再生』は観客に自らの心的状態への意識集中と、目と耳の上演への凝集化を同時に生起させる。『再生』の上演は、観客その人の在り方を観客の数だけ個別に問いなおす体験なのだ。そこにあるのはたしかにひとつの共同体だが、それは情緒の共同体ではなく、ひとりひとりに異なる情緒を作動させるための土台を共有した、律動の共同体なのである。

 

本当は、もうひとつ、『再生』で使われる音楽がしばし「J-Pop」と名指しされるし私も先程「J-Pop」と書いたが、実はそれは間違っているということも指摘したかった。ただ、少し長くなったし、書き手の体力も尽きてきたので止めておきます。簡単に触れると、フィッシュマンズあがた森魚安室奈美恵に含まれる意味には違いがあるし、それを「J-Pop」という言葉でひとくくりにするとこの劇の大きなポイントを見逃すことになるという話です。時間とやる気が出てきたら、そのうち。