I was only joking

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新芸術校グループ展B『健康な街』に見る理想主義の先

健康な街、というステートメントからは、ある種の皮肉を連想していた。「健康」へのオブセッションを押し付ける「街」の様相をトレースしていくような。実際に作品群を前にすると、そこにあるのはよりストレートな反抗心だ。「健康」と名指された状態が実際は「不健康」であり、本来的な「健康」をここに示すべきだという意思。それは或る意味、理想主義的だといっていいかもしれない。

アトリエに入って瞬間的に感じるのは端正に整理された鮮やかさだ。まず、地面に寝そべるレントゲン写真が我々を迎える。よく観ると写真ではない。五十嵐五十音の手による、いくつかのふぞろいなパネルに描かれた絵だ。体の肉と骸骨が向かい合って手をつなごうとしている。そのイメージは不気味さよりも、分裂したものをなんとか繋ぎあわせたい、だが繋がらないという切実な感情の発露を体現している。同時に、肉まで剥がさなければ、新たな健康を得ることができないという切迫感も見出すことが出来る。

裸へ向かう五十嵐の作品と対象的に、壁にかけられている諸作は服をテーマとしている。作者の長谷川祐輔は、実用性の束縛がタイトになりすぎた服飾の世界において、ファッションの効用を再起させようとする。奔放な筆遣いのスケッチ画、立体的に絵の具が塗りたくられた油絵は実用的な面を一切みせず、役立たずの抽象性に傾いている。長谷川はこれもまたファッションであると語る。人間を覆う布として発生した服は、歴史のどこかでファッションとして独創性を持つに至った。実用から遊びへの転換があった。長谷川はこの転換をアートという場所で再演してみせる。荒削りながらも、野心的な試みだ。

五十嵐と長谷川の作品は、肉を剥ぐ体と布を覆う体という対照性を持つが故にか、隣り合うことで響きあっている。本当の健康を回復するための手段として、逆ベクトルの二作が並ぶことで、強いステートメントを視覚的にもたらす。展覧会全体の鮮やかさは、この入口の印象から齎されている。

その奥で出会う有地慈の作品は、模型とループされる映像、そして二つの石で構成される。日本初の航空機墜落事故の記念碑が残る(という事実を市民が忘れている)所沢市内を有地が自転車で回遊する映像の側で、高低差をつけた八の字ループのレールの上を自転車の写真を貼られたモーター式のおもちゃが進み続ける。映像と模型は当然重ねられている。その重なりは、反復する日常と反復する忘却の重なりでもあるわけだが、目を引くのは石、加えてレールとテーブルに施された花柄のパターンだ。八の字の中央には石が置かれてあり、石を外すと飛行機のプロペラを模した十字形のオブジェが急下降してくる。飛行機墜落のイメージがここで反復される。その反復性はパターン化された花柄の模様にも現れる。そうした全ての反復を奉るかのように、床に置かれた、所沢から持ち出されたもうひとつの巨大な石。ここには、記憶を保存することで不健康な反復、逃げられない街を脱しようとする試みが見られる。

小林真之の作品はなんらかの機械装置を想起させるが、それは定着したイメージ(写真)を崩していく装置である。繋がれた写真の一部が、塩水に浸かっている。この水に浸かることで、写真は会期中に少しずつ色あせ変形していくらしい。ここでは一度定着した記憶を単線的な時間軸から解放することで街の空気を変えていかんととする意思が現れる。 小林は人間を観察しつづける「なにか」がいるような気がしてならない、その「なにか」のためにこの作品を作ったという。そうした第三者の存在自体が人間への、街への不信と連繋しているだろう。興味深いのは、有地と小林の作品にも対照が生じていることだ。有地は記憶を固定することで、小林は記憶を異化することで、街からの脱出を計画する。方法論が分裂しているのだ。その分裂は、グルタミン酸ナトリウムでできた白い山とパンやソーセージの製作過程を映した映像によって内側から健康が破られる契機を示す下山由貴と、ポルターガイスト現象とその種明かしを同時に映す映像により、嘘を真実に感じさせる外からの暴力を感受させようとする中川翔太との関係性にも当てはまる。

こうして観ていくと、『健康な街』という展示自体が、ある種の分裂症の様相を呈していることに思い当たる。だが、むしろ分裂こそが健康なことではないか。過度の統合を要求する社会は、どこか狂っているのではないか。彼らの作品が総合的に語りかける言葉があるとすれば、そのようなものだろう。だとするなら、するべきことは一つ。分裂を、分裂のまま肯定すること。統合の暴力に屈しないこと。その姿勢はすぐに崩れてしまうような危うさを含んでおり、幼い理想主義だとも言える。実際、彼らの作品の間では「健康」をアイロニカルに捉えるか、ストレートに捉えるか、「街」を抜け出す場所と考えるか、留まる、もしくは作り上げる場所として考えるかという基礎的なコンセプトの一致が見られず、シンメトリックに整理(分裂)された作品配置とは裏腹のちぐはぐな内実が露呈してしまっている。ステートメントを説得的に響かせるしたたかな戦略が必要だろう。

いずれにせよ、理想を体現しようとするグループ展Bの作家達は、これから容赦のない逆風に曝されるだろう。その時に、じっと耐えるか、膝から崩れるか、方向転換するか、それとも風を交す術を身につけるか。危ういが故に、この先の展望を見てみたくなる。『健康な街』はそんな期待感を募らせる展示でもあった。