I was only joking

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新芸術校成果展「サードパーティ」レビュー 「引き裂かれ」としてのアレゴリー

※ゲンロンβ23号に載りそうだったがギリギリで載らないことになった無念のレビューを掲載します。こちらも読んで、ゲンロンも是非読んでください→https://genron.co.jp/shop/products/detail/155

 

 

 

明確に規定されていながらも相互に相容れないふたつの読みが、おたがいを知らぬまま対峙するよう仕向けられていることが問題なのだ。そのいずれかひとつを選択するのは不可能である。

ーークレイグ・オーウェンス『アレゴリー的衝動ーーポストモダニズムの理論に向けて』※

 

 

 今回の成果展および裏成果展についてまず言うべきは、事前にグループ展が行われているということだ。今年度の新芸術校のプログラムには、最終展示の前に受講生が4つに分かれて開催するグループ展が含まれ、双方を観た者は作家達が短時間で大きな変化を遂げていることを体感する。二つの展示を線で結ぶことで作家達の生の軌道に触れる。その軌道は複数の作家の間で交差し、新芸術校の営みを一つの複雑な生成体へと変える。今回成果展だけ観た方には、次回はグループ展も併せて観ることを薦める。複数の作家が同時に変化していくダイナミズムを、これほどダイレクトに感じられる機会は滅多にないからだ。

 金賞を獲得した新井健、銀賞を獲得した村井智はグループ展の時点で他を圧倒するクオリティの作品を発表し、成果展では着実に自らの課題と向き合い、作品をアップデートした。金賞の新井は一月の青山蜂摘発事件にいち早く反応し、短い準備期間にも関わらず風営法の問題が現場に何をもたらしているかをクリアに実感させる驚異の完成度の作品を見せつけた。家族をテーマにした村井の作品も、音響装置とビデオと絵画を効果的に配置し、揺らぎ続ける自身と家族の関係性を説得的に具象化した。他の作家たちの成長も目を見張るものがあり、最終展示から落選してしまった作家たちにより開かれた裏成果展も、「怪獣の時代」というテーマのもとで巧みに全体を統一し、高い能力を証明した。

 

 だが、私はどうしても有地慈の作品に触れないわけにはいかない。彼女の作品には簡単には整理できない強烈な引力があった。

 有地はグループ展において、日本初の航空機墜落事故の記念碑をモチーフに、記憶を回復することで悪しき反復を抜け出すという願いを複合的なオブジェに託した。そこでは日常的反復の中でありうべき姿を見失う自分を公にさらすという私性の意識的発露が見出されたが、今回の作品「スーパー・プライベートⅡ~成長しないで、ぷーちゃん~」ではより徹底された私性の開陳が見られた。

 外観は板と段ボールでできた小屋。小屋の中心にはモニターがあり、海辺ではしゃぐ少女の姿が映されるが、彼女の顔にはモザイクが。狭い入口を通り中に入ると、海の音が聞こえる。暗い部屋の中にアヒルの着ぐるみが座っていて、モニターをじっとみている。そこに映るのは小屋の外と同じ映像だが、少女のモザイクが外されている点だけが違う。着ぐるみの隣におかれたヘッドフォンを耳に当てれば、少女の声も聞こえる。この少女は有地の実の娘で、アヒルのぬいぐるみを手につけた撮影者は有地だ。そして、着ぐるみの中にいるのも有地本人である。

 

 2011年11月3日(ひっくり返せば3月11日だ)に生まれた娘の成長を有地は執拗に記録し、それとは裏腹に外部への露出を徹底して避けた。今回の作品において、有地は隠しつづけた娘の姿と名前を晒すのと同時に、自らが取ってきた行動の不気味さも外部に開示する。それが「震災の年に生まれた子ども」の生を肯定することに繋がる可能性を持つと有地はステートメントに記している。

 今回の成果展は「サードパーティ」と名付けられている。もちろん今期の新芸術校が「第三期」であることにかけられているのだが、同時にそれは「第三者」「非当事者」を意味している。当事者意識を持ちつつ、非当事者(=他者)に語りかける強度を作品に与えること。その名付けは、成果展に課されたミッションの内実を暗に示すものである。新井の作品が金賞を獲得したのは、他者に開かれた当事者性を示すことでそのミッションに応えたからだ。一方、母による娘のドキュメントの側面が強い有地の作品は極私的な印象を与えかねないし、非当事者を受け付けない作家の独りよがりと捉えられてもおかしくない。果たして本当にそうか。

 

 クレイグ・オーウェンスは「アレゴリー」をメタファー(隠喩)とメトニミー(換喩)の両方を含意するものと定義しているが、その意味で有地の作品は優れてアレゴリカルである。

 ステートメントを通して作品を概観すれば、有地の作品がある種の「母性」をテーマに据えていることがわかるし、小屋が娘を守る母親のメタファーとして機能していることが理解できる。小屋を他者に開放することで、娘の生も同時に未来へと開いていくのだと。だが、作品に触れるとそれとは真逆のメッセージも同時に実感する。

 海と少女を見ている着ぐるみの姿は、娘を失って嘆き悲しんでいるように見える。リピートされる映像はまるでトラウマの反復のようだ。小屋の中の壁に貼られた震災のがれきの写真と室内を満たす波の音がその印象を累乗する。娘を守るはずの小屋は内側に廃墟を内包しており、狭く薄暗い小屋はむしろ娘を守れなかった痛みを表現する装置として感覚されるのだ。さらに、がれきの写真には多数のぬいぐるみが映されており、薄汚れたアヒルの着ぐるみ自体が廃墟を体現していることがわかる。映像の中の汚れていないアヒルのぬいぐるみと比較すればその対称性は明らかだ。このように、作品の構成要素のひとつひとつに触れる度に、「未来の生」とは相容れない「過去の死」が顕然する。作品にちりばめられたいくつもの断片が、とめどもない喪失感を感知させるメトニミーとなるのだ。

 

 対峙する二つの解釈を両立させてしまう「アレゴリー」の効果を引き出しているのは、有地自身が演じるあひるの着ぐるみである。演じる主体としての母は隠れた「意味」としてのメタファーとなり、演じられるキャラクターとしてのアヒルは顕れた「断片」としてのメトニミーの役割を果たす。演じる/演じられるの二重性は、映像内のアヒルと母の二重性によって強度を増す。この二重の二重性が、「母性」や「喪失」のシンボリックな表象を無効化し、「母性」(当事者)と「喪失」(非当事者)に引き裂かれる在り方自体を表現する。そして、引き裂かれた私性の徹底的開示が、あの震災をステレオタイプな象徴へと収束させることなしに、震災後の「内なる廃墟」を引き受けるための指針の提示を可能にするのだ。

 「スーパープライベート」と名指された有地の試みは、「私」を「アレゴリー」として示すことで、当事者/非当事者という対立に引き裂かれた「廃墟」の時代の様相を捉えている。それは、成果展に課されたミッションに応えるだけでなく、当事者/非当事者の線引き自体を問題化する実践だったと言えよう。

 

※新藤淳訳、『ゲンロン』1,2,3に収録