I was only joking

音楽・文学・映画・演劇など。アボカドベイビー。

ものかたりのまえとあと Gallery SCOOL Vol.1

 

 8月2日〜8日の期間に三鷹SCOOLで行われた展示「ものかたりのまえとあと」を観に行った。

scool.jp

 

 美術展として企画されているが、一般的に考えられているような展示とは少し異なる。たしかに、三野新による写真や青柳菜摘による旗形の作品は展示されているものの、それ以上に重きをなすのは1日に3度上映される映像作品の上映、加えて4作家それぞれが会期中に行うそれぞれのイベントである。つまり、この展示は以下の三層でなっている。

 

①.会期中いつでも観られる作品・インスタレーション展示

②.決まった時間に上映される4作家の映像作品

③.それぞれ一夜限定で行われる各作家のイベント

 

 番号が下るごとに鑑賞できる時間は限定される。美術展は普通、会期中いつでも鑑賞できる作りになっているが、今回の展覧会は①の展示数が少なく②、③の比重が大きいため、鑑賞者の拘束時間が規定される作りとなっている。その意味で、いわゆる通常の展覧会ではないのだが、映画や演劇のような鑑賞体験とも異なる。なんとも名付け得られぬ微妙な感覚を、「ものかたりのまえとあと」は観るものに与える。その体験には、鑑賞者が主体的に関わった感覚が残る。参加型アートのような、観客の主体性が直接的に要求される展示ではないにも関わらずだ。その主体性の感覚がおそらく僕にこの文章を書かせているわけだが、何故そうした感覚が生まれるのか。今のところ理由はよくわかっていないのだが、多分「入り口の狭さ」のせいだろう。上記の三層構造を認識せず、①だけで鑑賞を済ませた場合、展示への理解がかなり限定されてしまう。②まで行くとある程度の充実度があるが、展示全体の持つ意味が体得されるのは③に参加した時点だと思う。僕は8月4日に②までを鑑賞して、7日に清原惟のイベント(③の一つ)に参加した。そこでようやく、「ものかたりのまえとあと」という展示の可能性を理解したと思った。③に至る所で何かを掴んだ感覚があるとなると、そこへ行くまでの入り口がかなり狭いということになる。そう考えると随分不案内な展示だとも思うが、その分長く付き合った分だけ密度が濃い体験ができると言える。これが良いことなのか悪いことなのかは簡単に判断できないが、あまり他にはない試みであることは間違いない。

 

 (・・・12時までに書いて寝ようと思ってたら12時を過ぎてしまった。以下、さらっと書きます。)

 

 展示のタイトルは何故「ものがたり」ではなく「ものかたり」なのか。それは「もの」を「かたる」ということのもっともシンプルな状況に立ち返るためだ。「物語」という言葉には多くのものが付加されてきた。起承転結やプロップの物語構造などの様式が定型化され、それを批判する言説も多く提示された。だが、一番単純に言えば、「物語」とは、「もの」を「かたる」ことである。そこにはない「もの」を、言葉によってあるように伝える手段である。今回上映された映像作品全てに共通する特徴がある。モノローグが多く含まれていることだ。その言葉たちは、映像に映されていないものを描こうとする。村社祐太朗の作品では、定点カメラに映された風景とは関係を持たない言葉を、カメラに対して横向きの話者が発話する。三野新の作品は3人の男女の眼を交互に映すが、断片的に聞こえてくる「愛してる」などの言葉は彼らの眼と共鳴しない。「もの」を「かたる」言葉は映像と不協和だ。青柳菜摘の作品では朗読される三人の言葉が画面上でタイピングされるが、音として聞こえる言葉と映像として映る言葉が微妙にズレている。清原惟の作品の中で、モノローグで語られる言葉とその時に映る映像とは違う時間軸の上にあり、観る者を混乱させる。

 四者の映像には全て、「もの」をかたっていながら、そこにはかたられていない「もの」が映っている。そして、かたられなかった「もの」は、かたられた「もの」があることで、はじめて意識される。「ものかたりのまえとあと」が結果的に感覚させるのは、かたりえない「もの」を伝えるために「ものかたり」が必要であるという、逆説的なメッセージである。それと同様に、僕が展示の内容を知らせるために書いたこの文章は、書かれなかったことを意識させるために存在している。

 「ものかたりのまえとあと」で変わったのは何か。「かたりえないもの」が僕らに見えるようになった、ということに尽きる。

 

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