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朝子のドッペルゲンガー ーtofubeats「RIVER」のミュージック・ヴィデオについてー

 Yuki Moriが監督したtofubeats「RIVER」のミュージックヴィデオは、非常にチャレンジングな作品である。本曲を主題歌となる映画『寝ても醒めても』(濱口竜介監督)が存在するからだ。「RIVER」はそもそもこの映画のために書き下ろされた曲で、しかも『寝ても醒めても』の主人公・朝子を演じる唐田えりかをMVにも抜擢している。当然ながら、映画との比較は免れえない。濱口竜介が『ハッピーアワー』をはじめとする優れた映画群を撮ってきた監督であることはよく知られているし(実際『寝ても覚めても』も大変優れた映画だ)、自ずとMVに対するハードルは上がる。なぜ、わざわざ映画と同じ役者を起用したのだろうか。

 

 

 

 

 

 1.

 

 『寝ても醒めても』と「RIVER」MVを両方観れば誰もが感じることだろう。本当にこの女の子は同一人物なのかと。唐田えりかの顔は映画とMVでまったく違う印象を与える。映画の唐田から感じられるのは恐ろしさだ。不可解なエゴイズムを強烈な意志のもとで発揮させる朝子。彼女を演じる際の唐田の無表情には、全ての人間的感情の意味を否定するような度し難い虚無が宿っている。対して、ソファから目覚め、おでこを出しながら顔を洗い、マスカットを口に頬張るMVの女性にはそうした恐怖や虚無が感じられない。まるでひとつの理想形をなぞるような、ただただひたすらに愛らしい女性像がそこには立ち現れる。MVの女性は、朝子と同じ顔をした全く違う人物、朝子のドッペルゲンガーなのである。

 多くの方がご存知のように、柴崎友香の小説が原作の『寝ても覚めても』は、麦(ばく)と亮平という瓜二つの顔をもつ二人の男と朝子を巡る三角関係の話だ。朝子は大学時代に麦と付き合うが奔放な彼は行方をくらまし、数年後に麦と顔はそっくりだが性格はまるっきり違う亮平と出会い恋人となる。映画では東出昌大一人二役を演じ、そのドッペルゲンガー性が映画内に大きなインパクトを残す。「RIVER」MVが行うのは、映画内で創造されたドッペルゲンガーの機能を、映画とMVを貫通させて反復させる試みなのだ。

 さらに、『寝ても醒めても』の小説と映画は、同じ物語を有しながら、力点が全く違うところに置かれている。小説は朝子の一人称視点であることが大きな役割を果たすが、映画は朝子と亮平という二つの視線の相克がメインテーマとなる。名前も物語の表層は同じだが、その話法は大きく異なるという意味で、映画と小説の間にもドッペルゲンガー的な関係がある。加えて、映画と『River』MVも同じ音楽を全く違う背景に乗せて響かせるという点でドッペルゲンガー関係にある。つまり、ここには

 

麦:亮平

小説『寝ても醒めても』:映画『寝ても醒めても』

映画『寝ても醒めても』:『River』MV

朝子:MVの女性

 

という四つのドッペルゲンガーが存在することになる。「RIVER」MVはドッペルゲンガーが連鎖する構造を利用するために、映画と同じ女優を起用しているのだ。

 

2.

 それでは、朝子を演じる唐田えりかとMVに映る唐田えりかはどうしてこうも印象が異なるのか。

 映画『寝ても覚めても』の朝子の性質を決定づけるのは正面から写した唐田えりかの顔だ。上に挙げた映画予告編の開始7秒目、カメラに対しまっすぐに視線を送る唐田の黒目がちな瞳は何も見ていないような不気味さと、ただ一点をひたすらに凝視しているような強さを同時に帯びている。朝子を見つめる亮平(東出昌大)の瞳は戸惑いを隠さない。亮平は朝子に惹かれながらも、映画の最後にいたるまで彼女の不可解さに苦しみ続ける。『寝ても覚めても』には唐田の正面からのアップが多く映されるが、その顔に翻弄され続ける一人の男を描くのがこの映画の後半部だ。

 「RIVER」のMVは目を閉じて眠る唐田えりかの横顔から始まる。カメラは唐田の顔を決して前から映そうとしない。特にアップの時は常に横顔だ。真正面から異形の表情に向き合わないで済むために、鑑賞者は安心して彼女の横顔を眺めることができる。Cadd9のテンションコードから始まるピアノの響きに合わせて、淡い情感に軽く酔うことができる。映画とMVでの印象の違いは、真正面の顔と横顔の違いに起因している。 

 しかし、正面から向き合わないということは彼女には決して届かないということでもある。MVには途中からtofubeats本人が登場する。異なる場所にいながら、tofubeats唐田えりかの動きは同調している。同じようにカメラから背を向けて、同じようにテーブルにコップを置く。tofubeatsヴォコーダーの声成分を調整するためにつまみを回すとき、唐田えりかは花を写真に収めるためレンズを回している。

 シンクロしているのは彼ら二人だけではない。MVは音楽と律儀に同調している。小節の頭でカットが切り替わるし、ビートとコード進行が一気に変化して曲が盛り上がる場面に合わせてtofuと唐田は部屋から外に出る。冒頭の「ねてもさめてもこいは~」という歌の「さめても」の部分で、眠っていた唐田が目を開けるという詞との同調も発生するし、ピアノの音量が上がってCadd9→B7→Em→Fという緊張度の高い進行(B7に含まれるD#とFメジャーに含まれるFがダイアトニック環境外)になる箇所では、唐田が飲んでいた水を花に与える非日常的で少し異様なシークエンスが重なるという楽曲構造との共時性も確認できる。

  そして、tofuと唐田の二人が外に出た後。日も沈み、あたりは夜に包まれる。カメラは二人にピントを当てていて、奥の景色は共にぼやけており、街の灯りがにじんでいる。その共通性は、それぞれ別に映されているけれども彼らが同じ世界の中に入ってきたことを観る者に感知させる。tofuが橋の上に置かれたキーボードに座って演奏をはじめ、唐田も橋の上で佇む。カット割りも細くリズミカルになって、いよいよ曲も終わりを迎えるというその瞬間。キーボードの椅子から立ち上がり歩き始めたtofuとその姿を追うカメラの間を、唐田が通り過ぎていく。その瞬間は一拍目ではなく、その二泊手前(前小節の七拍目)に訪れた。同調していた二人と、同調していた映像と音楽は、この時完全にすれ違うのだ。

 

3.

 映画『寝ても覚めても』は、真正面から人が他者と向き合わさった時の困難さを表現していた。「RIVER」MVは、他者を正面から直視しないがために最終局面で決定的にすれ違う姿を描いている。『寝ても覚めても』の朝子の振る舞いに対して、醜悪さや不快感を覚えた人も少なくないだろう。けれども、その醜さから逃れることは、他者を幻想の中に押し込めることと同義である。エクリオ掲載のインタビューで濱口竜介はこのように述べている。

 

寝ても覚めても』を観て女性不信になってしまうなら、その人は女性と付き合うべきではないのかもしれません。女性に限らず他人を信じるということは、その他人の自分への「忠誠」を信じるということなのでしょうか。私はまったく違うと思います。格別に「女性像」というものは持っていません。一人一人まったく違うのだな、という認識を持っています。なので、できるだけ「一人一人まったく違うのだ」ということが映画に描かれることが望ましいと思っています。そのまったく違う一人一人が一緒にやっていくことには限りない困難があると思います。だからこそ、一瞬一瞬の通じ合いが奇跡のように思われることもあると思っています。そのことをそのまま映画にしたいと常々考えています。

 

 Yuki Moriが「RIVER」のMVで行っているのは、美しい「女性像」の横顔を描き出し、その幻影がつかめそうなとこで逃げていく姿を4分34秒の時間の中に刻むことだった。朝子のドッペルゲンガーは、「まったく違う一人一人」と向き合うことの意味を、逆説的に指し示しているのだ。『寝ても覚めても』と「RIVER」MVは、逆方向からやってきて、すれ違うことなく出会った。彼らは今、流れる川のような困難な幸福を生きている。

 

  

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