I was only joking

音楽・文学・映画・演劇など。アボカドベイビー。

加速主義とフレディ・マーキュリー

映画『ボヘミアン・ラプソディ』を見てから例のごとくクイーンを繰り返し聞いていて、『A Day At The Races』のレコードも買ってみました。と同時に、フレディ・マーキュリーのことをずっとを考えています。フレディは加速主義に抵抗する存在だとおもいあたったからです。

 

f:id:d_j_salinger:20181206231804j:image

 

今や加速主義以外に向かう道はないように誰もが感じている。資本主義のプロセスを行けるところまで突き進め、その臨界点において起きるであろう大変化(それは一般に特異点=シンギュラリティと呼ばれる)に賭ける加速主義の発想。つまり、落ちるまで落ちて、そこでの反転を狙う。「それ以外にどうしようもないじゃないか」という空気のこの重さ。マイケル・ムーア『華氏119』が見せる先の見えなさ。トランプが大統領になったことに対する意見で多く聞くのも加速主義的なものである。「剥き出しにダメなものが現れることは、ヒラリー・クリントンが今までの停滞感を延長させるより全然マシ」という意見を、宮台真司外山恒一も語っていた。ポリティカルコレクトネスの重苦しさに耐える価値などないし、経済格差を是正できないまま人種差別を非難することの虚しさに直面できない多文化主義者には唾をかければいい。真っ当な言葉などは流通せず、メディア戦術に長けた金持ちだけが人気を獲得していく。経済的効率性がひたすら優先される社会が崩壊するまで、黙って見ている以外何もできない。加速主義は日和見ニヒリストのエクスキューズに使用されるわけだが、それが強い説得力を持たざるを得ないのが今日の状況だ。

 

ここに、フレディ・マーキュリーというアイコンは登場する。なぜか。多文化主義全体主義に橋を賭けることに成功した唯一の存在だからだ。

ご存知の方も多いだろうが、血統的にフレディ・マーキュリー(本名ファルーク・バルサラ)はインド系ペルシア人で、幼少期〜少年期をザンジバルとインドで過ごしている。映画『ボヘミアン・ラプソディ』でも前半部でフレディが「パキ(パキスタン人の略)」と蔑称を投げつけられる場面があるように、彼は英国においてエスニック・マイノリティであった。

さらに多くの人が知っている事実として、彼は両性愛者であり、エイズの合併症により世を去っている。このことも当然映画において多く描かれているが、フレディはセクシュアル・マイノリティの一面を持っており、つまり彼は二重にマイノリティである。

だが、クイーンというバンドはマイノリティ性を打ち出さなかった。フレディは自らの出自を隠し、イギリス女王を想起させる名前をバンドに与えた。アルバム『Night At The Opera』の最後の曲がイギリス国家「God Save The Queen」のインストルメンタルカヴァーであることを想起してほしい。これはオペラの上演で最後に国家を斉唱する慣習に則ったカヴァーだが、クイーンは愛国的なイメージを利用したバンドであることは確かだ。

 

 

クイーンは多様性より同一性、いわゆる一体感を生み出すことに長けたバンドである。「We Will Rock You」や「We Are The Champions」を知るあなたにはすぐ頷ける話であだろう。ここでの「We」は揃って足踏み、手拍子を行い、手を振り上げて同じ歌を歌う存在だ。一つのルールに全ての人が従う快感。そこでは人々の個性は一つの全体性に捧げられる。ロックコンサートの全体主義をもっとも体現したバンド、それがクイーンである。

  

 

 

しかし、クイーンは同時にその一体感の中に異物を忍び込ませる。「Queen」というバンド名に先ほど言及したが、ここには「女王」の意味だけでなく隠語である「オカマ」の意味も含まれている。マイノリティ性はあからさまではない形で密輸入される。

「Killer Queen」という初期のヒットシングルは、マリー・アントワネットのように喋る、男を激しく誘惑する女(高級娼婦のようにも描かれている)について歌っているが、バンド名がタイトルに含まれていることで自己言及のようにも聞こえるようにもなっている。つまり、ファムファタル的存在を描くと同時に、「俺たちはお前らを魅了する存在だ」というボースティング(自慢)を、一人称ではなく「She」という女性三人称を使って語ることで、ジェンダー的多義性の密輸入に成功しているわけだ。

 

 

 

先ほど言及した「We Will Rock You」のリリックには少年・青年・老人の三人の人物が登場するが、三人とも恥辱を受けた(およびこれから受けるだろう)存在として語られている。あの足踏みと手拍子とフレディの歌の力強さは、屈辱から抜け出したいという欲求につながる。マッチョさや一体感を単に賛美する歌ではないことがわかる。

また、スタジアムが似合うクイーンの代表曲の一つに「Somebody To Love」が挙げられるが、バッハ風のピアノ(ほとんど「主よ、人の望みの喜びよ」の引用に聞こえる)から三連のバンド演奏になだれ込むこの曲ではずっと「誰にも愛されない」「俺を愛してくれる人はいないのか」という言葉が歌われている。フレディはビッグなアレンジのクラシカルな楽曲に合わせて、孤独と屈辱を歌い上げる。

 

 

言葉だけではない。「クイーンは多様性ではなく一体性を表現するのに長けたバンドである」と先ほど述べたが、これは半分嘘である。クイーンは一体性を表現しながら多様性をそこに紛れ込ませるのに長けたバンドである。多重コーラスやブライアン・メイの整数次倍音の豊かなギターの響きといったクイーンの音に常につきまとう特徴はクラシックやオペラからの影響によるものであり(その最たるものが当然「Bohemian Rhapsody」だ)、ロックの黒人音楽要素に西洋の伝統音楽を折衷させたものが彼らのサウンドアイデンティティとなっている。そこにロカビリー(「Crazy Little Thing Called Love」)、ディスコ(「Another One Bites The Dust」)

、フラメンコ(「Innuendo」)、南米音楽(「39」)、イスラム音楽(「Mustafa」)、といった世界中のあらゆる音楽が混ざってくる。日本語で歌われる歌さえある(「Te Wo Toriatte」)。クイーンはメインストリームな音楽を奏でているように見せかけて、実際には多文化の要素を混ぜこぜにしてアウトプットしている。メンバー全員が作曲家であることも多様さを生む要因となる。そうした多様さに一つの筋を通すのがフレディの存在感とコーラスの独特の厚ぼったさである。クイーンは「声」をサウンドの柱に置く。

 

 

 

加えて、クイーンはスタジアムバンドでありながら、レコーディングにおける実験性を追求したバンドである。これも映画『ボヘミアン・ラプソディ』の中で描かれているが、レコーディングに際して、様々なコーラスワークを試したり、録音に逆回転を加えたり、音を極端にパンニングしたり、ドラムの上に物を乗せることで音を変えたりと、あらゆる実験を試みている。こういったレコーディングでの実験精神に富んだロックミュージシャンの多くはライブ活動から離れる。ビートルズを筆頭に、ビーチ・ボーイズスティーリー・ダンXTCブライアン・イーノなど、実験質の穴蔵に閉じこもったミュージシャンは多い。だが、クイーンは実験精神を持ったまま、ライブ活動においても大きく活躍した。フレディのショーマンシップが何より大きく作用しているだろうが、ここでもクイーンは二つの極を両立させている。

 

クイーン、およびフレディ・マーキュリー多文化主義全体主義の橋渡しに成功したバンドであるというテーゼの理由は説明できたかと思う。しかし、ここで気づかなければならない。クイーンがインド音楽を導入していないことに。なぜインド音楽がないか。当然、フレディがインド出身だからである。フレディは出自から離れることに賭けた。地球ではなく水星(マーキュリー)を選んだ。だから、クイーンはインド音楽には手を出さなかった。これがクイーンとフレディ・マーキュリーが二つの極に橋をかけることができた理由である。出自から切り離された(出自を切り離した)人間は、一体性の中でも、多様性の中でも、安住することを良しとしない他者である。自己同一性をそこに見いだすことはせず、常に異物として混入していく。スタジアムの大観衆の中で、フレディとナチュラルに似ているやつはまずいないだろう。クイーンの曲の中でも特にフレディ作曲の曲はクラシックからの影響が強く、どこか貴族じみたオーラを漂わせているが、西洋の要素が強ければ強いほど、異物感が高まる。下に貼った「Millonaire Waltz」でその異様さを是非確認してほしい。故郷から切り離された存在だけが、混ざれる異物として対立項の双方に入り込むことができるのだ。

 

 

 

 

加速主義が受け入れられる理由は「それ以外にすべがない」という感覚が広く共有されているからであり、半ばやけっぱちの時代に我々は突入していると言えるだろう。やけっぱちから脱するためには、自らの出自に立ち返って、自分を見つめ直すことが適切に思えるかもしれないが、そうではない。出自と自らの同一性を別個に考えて、故郷から距離を置くこと。「ふるさとは遠きにありて思うもの」という室生犀星の詩の冒頭になぞらえるように、常に原点に回帰しないこと。「それ以外ないもの」に異物を加えて変容させていくこと。クイーンとフレディ・マーキュリーについて考えていくことは、彼らの音楽を聴くことは、今の重たい世界において、(フレディの愛した)猫のように軽やかに生きるためのヒントとなるだろう。

 

追記:

加速主義については木澤佐登志さんのブログが

http://toshinoukyouko.hatenablog.com/entry/2018/08/24/230418

Bohemian Rhapsody」という歌については

久保賢司さんの記事が(https://www.targma.jp/rock/2018/11/26/post1116/

映画『ボヘミアンラプソディ』の特徴については

伊藤弘了さんの記事が(http://bunshun.jp/articles/-/9782)が参考になります

 

f:id:d_j_salinger:20181206002115j:plain