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クロード・シャブロル『野獣死すべし』短評

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クロード・シャブロル野獣死すべし』(1969年・フランス)

(9月13日、新文芸坐シネマテークにて) 

 

絶妙。黄色い蘭を挟んだ男女の気まずさの横で淡々と整えられていく鴨肉。「シチューと肉は別で用意しとけ!」と激昂した野獣男の言葉に呼応するように、丁寧に用意されていく肉の唯物性がどうにも引っかかる。

 

原作は詩人セシル・デイ=ルイスダニエル・デイ=ルイスの父)がニコラス・ブレイク名義で発表したミステリ小説『The Beast Must Die』。息子を轢き逃げで殺された男シャルル・テニエ(ミシェル・デショ-ショワ)による復讐劇なのだが、映画冒頭、浜辺で戯れる黄色いレインコートの少年と猛スピードで飛んでくる黒い車との対比が鮮やかで、物語の中核にあるものを短い時間で伝える手腕にまず観客は唸らされる。


それにしても、映画においてここまで「信用できない語り手」の効果が出てる作品もなかなかないのではないか。円環構造や反復演出の見事さは作り物めいた印象を生むが、本作はその構築性を逆手に取っている。ナレーションによる説明過剰は見えているものの不確かさを示しており、男が脚本家を名乗って嘘をつくように、この物語全体が嘘の脚本としての可能性をちらつかせ続ける。メタ視点的なギリシア悲劇への言及も、赤い文字で執拗に書き連ねられる日記もすべて曲者。8ミリフィルムと唐突なテレビ映像はなんときな臭いことか。最後のエモーショナルなラストに至るまでずっと騙され続けているような不安感を残すその一点において、虚構性の強い映画が強くリアルなものたりうる。そうした構造上の反転した現実感と鴨肉の唯物的な存在感が重なっていくあたり、シャブロルは相当に絶妙なことをやってのけているように思う。