I was only joking

音楽・文学・映画・演劇など。アボカドベイビー。

Plastic Tree 試論 ~浮かぶことについて~

・NOVEMBERSとヴィジュアル系

 

THE NOVEMBERSの新作『ANGELS』が本当に素敵な作品で、僕のツイッターのTLではここ10日くらいずっとNOVEMBERSで盛り上がっています。

ANGELS

ANGELS

 

彼らが作り上げてきたサウンドのロマンスが、インダストリアルとニューエイジを拝借しつつ、リズム意識をどんどん研ぎ澄ませる中でついに時代の先端に触れた。10年以上NOVEMBERSを聴き続けてきた人間としては、嬉しいような悔しいような誇らしいような感慨深さが胸の奥につき刺さるわけです。

今まで彼らの音楽に触れてこなかった人も夢中になっているようで、その中でNOVEMBERSにおけるヴィジュアル系の影響が話題になっていました。

もちろん、L'arc~en~CielやDir~en~greyの音楽に影響を受けていることを本人たちも公言しているし、あながち間違いではない。ただ、NOVEMBERSのヴィジュアル系からの影響はニューウェーブ・ネオサイケに限られると感じています。私見では、ヴィジュアル系の音楽の三大要素は歌謡曲・メタル・ニューウェーブですが、NOVEMBERSに歌謡曲やメタルの要素は少ない(皆無ではないですが)。彼らはニューウェーブが好きで、ヴィジュアル系の一部のバンドもニューウェーブの音楽の一部と捉えているというのが正確なのではないかと思うのです。

 

Plastic TreeとNOVEMBERS

 

そんな中でも、彼らが強く影響を受けているのがPlastic Treeというバンドでしょう。2012年のJapan Jamではボーカルの有村竜太朗とNOVEMBERSが同じステージに立っているし、プラ(Plastic Treeの略称です)のトリビュートアルバムにもNOVEMBERSは参加しています。

 

spice.eplus.jp

 

Plastic TreeThe CureやBauhausやSmashing Pumpkinsを参照としており、間違いなくニューウェーブの後継。彼らのプロフィールについては公式HPやウィキペディアを参照にしていただくとして、ここではPlastic Treeがいかにヴィジュアル系と呼ばれる一連のバンドのなかでいかに「浮いている」かを伝えたい。

これは主観でもなんでもなくただの事実ですが、ヴィジュアル系のバンドの中でPlastic Treeは圧倒的に音が良い。

 

 

 

具体的には低音の出方が強く、ギターの音色の残響処理が気持ちいい。クランチのギターは、細いワイヤーの揺れ方が耳に伝わるかのよう。要するに、ここまでオルタナティブロックのサウンドを持ったバンドはヴィジュアル系にはいなかった。スマパンダイナソー.Jrとタメを張れるバンドは他にはいなかった。むしろ、彼らと近いサウンドを鳴らしていた同時代のバンドはART-SCHOOLeastern youthNumber GirlThe Pillowsあたりだろう。

 

・「普段着」と「ゴス」の間を行く

 

上記に挙げたバンド(や彼らに影響を受けた数多のアマチュアバンド)は「普段着」を美意識として持っていた。それは着飾ったロックバンドを否定して穴の空いたジーンズで現れたNirvanaの美学によって裏付けられていた。

ヴィジュアル系のバンドはその名前が表すように、常に普段着ではない目立つファッションを心がけていた。元はゴスやメタルの美意識から出発していたが、そこにギャル男の意向が加わったり女装や和装のフレーバーを足したりする。

Plastic Treeは「普段着」と「ヴィジュアル系」の間に位置するファッションを身に纏っていた。

 

 

 

 

 

彼らはほとんどノーメイクでTシャツを着ていることもあれば、目の周りを黒く塗って赤いリボンを結んでいることもあった(ちなみに「絶望の丘」のMVはCureのオマージュで、この時の竜太朗はほとんどなりきりロバート・スミスである)。

タンクトップとカーディガンのようなラフなファッションでも、有村竜太朗は前髪の長い髪型やアクセサリーなどでゴシックな美意識を宿らせている。Plastic Treeヴィジュアル系としても収まりが悪く、かといってロッキンオンジャパンに載るような普段着のバンドとは距離を置いた、曖昧な存在感で90年代から現在までを生き抜いてきた。NOVEMBERSのファッションは、Plastic Tree、特に有村竜太朗のゴスとグランジを絶妙に行ったり来たりするスタイルから影響を受けている。そんなことを言っている僕も一時期とても影響を受けていて、竜太朗がモデルを務めていたGadget Growのロングカーディガンと鍵型のアクセサリーを持ってたりした。

 

・「痛み」の海に浮かぶ

 

Plastic Treeの音楽に関して。このバンドの魅力は「浮遊性」にある。

彼らが歌うのは「痛み」であったり、「不安」であったり「空虚」であったりする。先ほど動画を挙げた「プラネタリウム」のコーラスが〈何もない僕は何処へ行けばいいのかな?ずっと渇かない涙がどんどん溢れた〉であることを鑑みれば、「ザザ降り、ザザ鳴り」が〈胸の奥揺れてるの。顔のない夢ばかり見るの。〉という言葉で始まることに気づけば、ネガティブな感情の発露があることはすぐに感知されうる。ところが不思議なことに、有村竜太朗の歌には実存的な切迫感が宿っていない。もっと簡単に言えば、「この人は死んでしまうのではないか?」という不安を聴いていて感じない。どんなに空っぽのフィーリングを上ずった声で歌っても、絶望的な状況をエモーショナルに叫んでも、一歩距離をおいた醒めた視点が常に感じられるのだ。彼は決して「代弁者」にはなり得ない。カート・コバーンリヴァース・クオモ五十嵐隆峯田和伸といった「痛みの代弁者」の列には、決して並ばない。とは言え、青春の苦しさをシニカルに突き放したり、アイロニーで脱臼させたりするような全くの冷淡さを見せるわけでもない。「痛み」の中心に立つわけでもなく、遠くから見渡すわけでもない。Plastic Treeは海の上を漂う漂流物だ。「痛み」の海のなかにいながらも、そこでもがき喚くことはせず、力を抜いて漂っている。彼らは痛みの中で「浮いている」ための術を身につけた生物なのだ。Plastic Treeのファンは「Jellyfish」というファンクラブの名前から、「クラゲ」と呼ばれることがある。透明な浮遊こそがPlastic Treeの生きる術であり、「痛み」も「不安」も「空虚」も彼らの生命を奪うことはない。晴れの日はプカプカプー。Plastic Treeは切実さの中に呑気さを埋め込む力を、汚れの中で透き通る力を持っている。その浮遊性と透過性が、彼らを特別な存在にしている。

 

・ジャギジャギでプカプカでゆらゆら

 

Plastic Treeの最高傑作は『トロイメライ』(2002年)だと思っている(『パレード』『ネガとポジ』も捨てがたいが)。

 

 

 

「理科室」のジャキジャキと鋭く重くカッティングを刻むギターが空間に広がった瞬間の快楽。直線的に刻まれるベースとドラムの無表情さはインダストリアルノイズの趣きを感じさせつつ、学校の理科室を孤独とコミュニケーションの希求のメタファーに見立てる歌はエモの本道を進む。その実、生々しさとロマンチックが争う音の母体は、ゆらゆらと漂う「浮遊」のフィーリングである。トレモロやリヴァーヴのエフェクトがかけられたギターのはぐらかすようなサウンドがどの曲にも必ず加えられていることが、Plasitic Treeというバンドの性格を決定づけている。「グライダー」でも「散リユク僕ラ」でも「ガーベラ」でも、時間を鮮やかに切り刻む鋭いカッティングと、チシャ猫(byアリスインワンダーランド)のようないたずらっぽい表情の揺らめきサウンドが同居している。その二面の間のどちらにも落ち着かないところが彼らの「浮遊」である。〈なんとなく浮かんでるような、そんな気分。まるでグライダー〉である。ヘヴィな現実の上でゆらゆらと、透明に漂うこと。「痛み」の中で、塞ぎ込むでももがくでもなく、否定するわけでも肯定するわけでもなく、ただただ揺蕩いつづける。そんな選択肢があることを、私たちはPlasitic Treeの音楽から学んだのだ。

 

 

f:id:d_j_salinger:20190319000209j:plain