I was only joking

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ナカゴー『地元のノリ』

(9月1日 アートシアターかもめ座にて観劇)

 

冒頭アナウンス(「携帯の電源をお切りください」のやつ)において、出てきた青年がこう告げる。「これから出てくる人たちは僕以外全員人間ではありません。僕も途中から人間ではなくなります」。直後、河童(の恰好)をした役者が現れ青年の予告を裏付けるが、その後出てくるのはみな普段着の男女たち。だが、彼らはほぼ全員が河童であり、赤羽の闇医者に人間の皮膚をつけてもらって偽りの人間生活を営んでいるのだ。そうした荒唐無稽な設定の上で、展開されてくる物語は怒涛の勢いでころころ入れ替わる。母子家庭、三角関係、「積み木崩し」的家庭崩壊、上京と孤独。日本のドラマや演劇ではおなじみの設定の人間ドラマが次々と現れて話が膨張し、いったいこれは何の話なんだろうと思えてくる。ほとんど役者全員集合となるラストのファミレス(ジョリーパスタという設定が絶妙)の場面、店長の気絶からエセ松岡修造の突然の変貌の流れは特に圧巻。さまざまな悩みや問題が解決されたのか、されていないのか。そんな疑問は一切無視して、ブラックジョークな匂いも含みつつ強引に幕が下りる。切実なやるせなさが描かれていないわけではないが、受ける印象はとにかくド派手に馬鹿らしいコメディだ。

だが、このはちゃめちゃで滅茶苦茶な喜劇には、真正面から受け止めるべき希望、と呼んでいいのかわからないが、風通しの良いポジティブさが宿っているように思えた。その要因の一因は、おそらく「壁」の存在だ。バイト先(前述のジョリーパスタ)で、友達のいないことに悩むおかっぱの女(その実は河童)に話しかける、花柄のサロペットを着たギャル風の女性。予告された設定にある通り、当然人間ではないのだが、お互いが秘密を告白する流れで、自分が「ぬりかべ」だと告げるのだ。このあたりの二人の距離のつめ方が実によくて、涙腺を刺激するのだが、その中で河童はぬりかべに向かって走ってはじかれる遊びを行い、二人は笑いあうシーンがある。この「壁にぶつかる」という動きが本作を特徴づけている。たとえば、「怪力の男」という設定を証拠づける方法として、本作では力を受けた相手が「吹き飛ばされてにぶつかる」という(『童夢』の超能力表現のような)演出をとっており、壁へのぶつかり方がわざとらしすぎて何度も笑いを呼び起こす。壁は、共に戯れるものとして存在している。「ぬりかべ」は笑いながら、ぶつかってくる人間を受け入れる。人を閉じ込めるもの、なにかを達成する困難の隠喩として扱われる壁を、ポジティブなものとして捉えなおすこと。『地元のノリ』に感じる風通しの良さは、風を妨害するはずの「壁」から与えられているのだ。