I was only joking

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LOCUST vol.3 巻頭言「ようこそ、「知らない地元」へ」

僕が編集長を務める批評/旅行誌『LOCUST』の第3号「岐阜県美濃特集」が11月24日(今日じゃん)の文学フリマから頒布開始します。

 

bunfree.net

 

めちゃクールで最高の本が出来たという自負があるので是非ともお買い上げいただきたいところですが、「なんで岐阜?」「私の生活となんの関係があるの?」「そもそもロカストって何?」などの疑問を持っている人もいるかと思います。 

そこで、本の紹介も込めて、副編集長・太田充胤による巻頭言「ようこそ、知らない地元へ」を先行公開します。

僕たちが何をあなたに届けようとしているのか、明快に伝えることができる文章だと思います。巻頭言自体がかなり面白いので、是非お読みいただき、LOCUSTに興味を持っていただければと思います。

 

BOOTH(通販)での予約も開始しております!

locust.booth.pm

 

 

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ようこそ、「知らない地元」へ

 

『LOCUST vol.3』をお手に取っていただき、ありがとうございます。

本誌は「旅行誌を擬態する批評誌」をコンセプトとして、編集部員・執筆者が全員でひとつの土地を訪れ、その土地に関する言葉を立ち上げる試みです。いわゆる「ガイドブック」ではありませんが、たとえば『坊っちゃん』を携えて松山・道後を訪れれば旅の様相が少し変わる、というようなことが起こればいいなと思って作っています。あなたの旅を言葉でハックするための道具として、お役立ていただければ幸いです。

 

 さて、創刊号では千葉内房、前号では西東京を訪れた我々が、今回向かったのは岐阜県です。岐阜県、行ったことありますか? 私にとっては数少ない未制覇県のひとつでした。なにしろ岐阜県、なにがあるのかよくわからないのです。そのうえ山の中にあるので、東京からだとなんだかアクセスしづらそうな感じもする。

 実際のところはどうでしょうか。東京側から岐阜県を訪ねるためには、通常、名古屋を経由します。東京駅から名古屋駅までは、新幹線で一時間半。京都や大阪に比べれば、ずいぶん近いと思います。さて、そこから美濃エリアの中心である岐阜駅までは、実は在来線でたったの二十分しかかかりません。そう、岐阜って、名古屋とほとんど同じくらいには「近い」のです。

 

本誌でこれからご紹介するように、この土地は様々な観光資源を有してもいます。しかし驚くべきことに、この近くて遠い土地に関するガイドブックは、東京の書店ではまったく売られていません。書店の旅行コーナーには必ず、日本全国のガイドブックが都道府県順に並んでいますが、その棚の岐阜県のところに申し訳程度に並んでいるのは、大抵が「飛騨・高山・白川郷」という土地に対するガイドです。

岐阜県は、中央を走る山脈に隔てられ、二つのエリアに分かれています。北側の「飛騨高山」は、世界遺産である白川郷や有名なブランド牛を擁し、最近ヒットしたアニメ映画の舞台にもなりました。一方、南側の「美濃」には、たしかにこれに匹敵するほどわかりやすい観光資源がないのです。そのせいか、美濃エリアは観光産業において黙殺されているといっても過言ではない状況にあります。

 

観光客にとってなんとなく訪れにくい場所、旅行先として選ばれにくい場所を、前号では位置エネルギーの等高線をイメージしながら「山」に例えて議論しました。観光だけでなく、あらゆるジャンルにおいて存在するこの「意識の山」を攻めることが、批評という営みの意義のひとつであるように思われます。

毎号失礼なことを申し上げるようで大変恐縮ですが、岐阜県、とりわけ美濃エリアはこの意味においてもまさしく「山」にほかならない。我々は、この土地を訪れるべきだと思いました。

 

 今号の基調論考を担当した伊藤元晴、およびデザイン班チーフの山本蛸の二名は、それぞれ美濃エリアの出身です。また今号では、岐阜県出身(愛知県在住)のSF作家である樋口恭介さんをゲスト執筆者としてお迎えし、旅行にも参加していただきました。

十代で故郷を離れた伊藤は、この土地のことをあっさりと「知らない地元」と呼んでいます。しかし当然ながら彼等は、同時にこの土地のことをとてもよく知ってもいる。これは、実はとても流動的で不安定な状態ではないかと思います。基調論考にはこうした不安定さがそのまま表出しています。

この不安定さは、彼等以外のメンバーにもいつのまにか感染していたように思われます。とても不思議なことですが、私は今、彼と一緒に歩いた岐阜の町を、まるでそこが「知らない地元」であったかのような錯覚とともに思い出しています。岐阜とは縁もゆかりもない我々の身体が、あのときたしかに「知らない地元」を歩くような感じにチューニングされていた。「群れ」にはしばしば、そういう不思議なことが起こります。

 

本誌の試みの特徴は、すべての執筆者が群れをなして、実際に旅行するという点です。

面白いもので、元々はバラバラだったはずの構成員の知覚や思考回路は、だんだん相互に浸透してきます。それはもちろん、単に全員が似通っていくということではない。だれかの思考と別のだれかの思考が、まるで遺伝子のように絶え間なく組み換わっていくということです。だれかの知覚が別のだれかの思考回路に入力され、結果として、存在しなかったはずの思考が出力されたりするということです。ここで起こっているのは「群れ考える」という試みではなく、「群れ考える」という現象なのです。

したがって、群れの思考はしばしば、いや常に、個体の思考をはるかに凌駕します。

 

 群れの思考を、あなたに接続したいと思います。本誌をお読みのあなたは、これから群れの一部になります。岐阜はあなたの「知らない地元」になります。あなたはもはや、あなた独りで岐阜を歩くことはできない。

 そもそも「ガイドブック」の役割とは、本来そういうものだったのではないかという気がします。

 

太田充胤