I was only joking

音楽・文学・映画・演劇など。アボカドベイビー。

批評再生塾3期最終課題を全部読んで全部コメントしました

批評再生塾の最終課題の提出が終わり、投稿されたすべての批評文が読めるようになっています。僕(伏見)もなんとか書き上げました。

 

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/subjects/19/

 

今回は再生塾OB三名による「下読みシステム」がないので、僭越ながら僕がコメントしようと思い立ちました。参加者はもちろん、ウォッチしている人にもなんらかのご参考になれば。

まだ、全員分出来ておりませんが、明日・あさってくらいには全ての論考にコメントつけたいと思っています。(4日付記:全部書きました。自分のやつ含む)

 

谷美里

「母殺しの時代における連帯ーーあるいは、新しい「きびだんご」の可能性について」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/misatotani/2819/

「桃太郎」の意味合いの変遷から水曜日のカンパネラの楽曲を通して「母殺し」の主題を提示する流れはおもしろく、村田沙耶香、円上塔における「家族の遍在」を取り出して最後にビットコインときびだんごをつないで伏線を回収する手つきも綺麗。ただし、大澤の「〇〇なき〇〇」は多分にネガティブな意を含んだ形容であり、「母殺し」の難題を無効にする「家族なき家族」にポジティブな意を込めるにはもう少し手順が必要だったように思う。論者のなかでも「家族なき家族」「信頼なき信頼」に対する評価は揺れており、それが素直に現れているのは好印象でもあるのだが、批評文としてはもう少し踏み込んでいくねばりがほしかったか。ビットコインの登場もいささかの唐突感があるので、全体の構成に工夫がほしかったところ。

 

イトウモ

ソラリス/2020」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/gonzomi/2853/

私的な語りと作品分析の語りの乖離がどうしても気になってしまい、かつ論旨もまとまりに欠けるのだが、時々ハッとするような表現に出会ったときにはなにかしらの快楽がある(「自分が生まれる前の一人の人間としての母親と、子はどのように知り合えるかという問題だ」など)。そしてやはり私語りがおもしろい。「きっとこの部分は消すことになるだろう」を残したのは本意ではなかったのかもしれないが、そこも含めて魅力的。この文体は論者にとってもかなりチャレンジングであったと感じるが、批評を所謂「批評」に閉じ込めないような、新鮮な批評のスタイルを作り上げられるようにも思う。

あと『トーク・トゥ・ハー』への導入が好き。

 

小川 和輝

Mystic Tokyo Bay & Literary Face Of Globalization/リアルとファンタジーの境海」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kazukigenron/2852/

「郊外」と「移民」の二つをシンメトリカルに対置し、『木更津キャッツアイ』の捉えなおしとして冒頭と結部をつなぐことで、論点の多い文章を力技ながら一つの形へ納めていてる。「橋」とディケイドごとのカルチャーの関係を論じた部分は特に秀逸。難点としてはやはり、「移民」の部分、小沢健二、神里雄大星野智幸を並列するあたりで強引さが目立つところか。時系列的に神里の前に位置する星野の小説を「さらに」可能性を深めるものとして描くのは無理があるし、「誤配」と〈固有名〉を通した「連帯」も、「「ガイジン」としてではなく具体的に名をもつものとして外国人と関われ」というメッセージに収縮されており妥当すぎる感は否めない。全体的な論のフォーカスもまだ絞りきれていない。けれども、提示された一つ一つの論点は魅力的であった。

 

 脇田敦

「真面目に働いて幸せになるならAIはいらない」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/hanoisan/2855/

以前から論点として提示していた「天皇SMAP説」は魅力的だし、労働や独身者の問題にも筆者なりの切実さは感じられるのだが、全体がどうにも散漫で弛んだ論に終始している。論を進める際に論理構築やエビデンス提示が欠けており、「実は、水戸光圀天皇の代わりだった」や「BI導入を求める国民がまだ少ないのだ」という断言が突然現れたり、定義が示されないまま「幸せな家庭」といった言葉が飛び出したりする。そうした早急さには「なんとなく空気でわかるでしょ?」という言外のメッセージを感じてしまうのだが、「空気」を論拠にしていたら分析も描写も成立せず、つまり批評にならない。「不可能性の時代」やAIの話に論のつながりが見いだせないことにも「空気」頼りな印象を覚える。社会現象を語るにも、もっと論者本人の目線の提示が必要であったように思う。

 

斉藤千秋

「イワン・カラマーゾフへの応答」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/chiaki/2809/

カラマーゾフの兄弟』の哲学的考察として論理的に記述されており、全体の構成も非常にクリアである。ただし、文体の硬さ、論の堅実さ、結論の妥当さなどは「論文」のそれであり、「語り口」自体にメッセージを持たせたり、鮮やかな飛躍や意外性のある議論で読み手に快楽やショックを与えるような「批評」の魅力はないと言わざるをえない。「2020年代の批評」という課題に対するリアクションが冒頭に述べられるが、東浩紀の言葉のみで「現代性がある」とするのは論拠として足りず、2020年代がどのような時代であり、なぜ「カラマーゾフ」の議論が時代に有効なのかというところまで(東の言葉を経由するにせよしないにせよ)示さないと、研究論文と本稿との差異は現れないのではないか。

 

 灰街令

「キャラジェクトの誕生」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/akakyakaki/2748/

「キャラジェクト」という概念が新鮮だし、文章も今までの批評文に比べて無駄が少なく読みやすい。Vtuberの記述などは単純に勉強になった。ただ、これはわたしがアニメ文化や「キャラクター」概念に疎いことに起因するのかもしれないが(とはいえ『動ポモ』や「キャラクターが見ている」は読んでます)、議論に説得されない部分が多く、「今、ここ」性や「袋づめ」の関係が本当に「キャラジェクト」に当てはめられるのかが、本稿を読んだだけでは判然としない。また、3DCGは実際に空間が存在するわけではない以上「空間的現前性」と単純に言えるのか疑問であり、この部分は丁寧に論じる必要があったように思う。文章の流れも堅苦しく、こなれていない印象があった。しかしながら、論者の批評のレベルが確実に上がっているのは感じとれた。

 

寺門信

「無責任な観客、あるいは不能の天使」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/jimonshin/2839/

写真と瓦礫を重ね、「成る」ことへの違和を表明する冒頭の問題提起、Port Bを「マージナルなものへの想像力」とする規定、「ワーグナー・プロジェクト」における問題点の抉出など魅力的な論点が多かった。以前の文章にはなかった読み応えがあり、着実な成長を感じる。さすがにオリンピックを「東京の成人式」と見立てるのは無理筋だと思うが・・・。未完なのが惜しい。

 

谷頭 和希

ドン・キホーテ論〜あるいはドンペンという「不必要なペンギン」についての考察〜」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/improtanigashira/2827/

ドンペンの形象、街ごとの店舗内部の多様性、開いたファサードといったドンキの特徴を抜き出しつつ、生と死の渾然一体、資本主義の再利用という結論を導く流れは非常に鮮やかだったし、無理な定義を後で補強する手法も利いていたように感じる。なんかわからんけど説得力がある、という点は大いに評価できるだろう。砂時計型形象の話はオチはわかっていたのに「なんということだろうか」で笑ってしまった。注文があるとすれば、先達の議論の多量の参照が話をつなげるための「道具」になっている感はあるので、もう少し自分の言葉で議論を展開してほしかった。とはいえ概ね楽しく読んだ。

 

高橋 秀明

「引き裂かれた作家、村上春樹ーー『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』ーー」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/hide6069/2828/

塾生有志の諮問会で提出した時点の論考に比べて、論に意外性があったり、自身で考察して書いた部分が増えたりと、格段に良くなった。しかし、論拠に雑な部分や誤りがかなり多いのも事実。「大衆文学」と「純文学」という二項対立が大雑把であるというのが一番大きいが、細かいところを思いつく限り羅列すると、蓮實重彦は映画という大衆文化を愛しており単純な大衆嫌いとはいえない、サマーオブラブのバンドは別に政治的ではない、幼少期の体験のみで村上に日本文学の教養があるという結論は出せない、ガンダムが詳細な設定を持っているからといってそれが「リアル」であることの証左にはならない、『雨月物語』を題材にしているだけで「日本文学」を継承しているはいえないなどなど、論拠が無理矢理であったり間違っていたりする箇所が目立つ。「MIC・KEY・MOUSE」から「鼠」が彼女に堕胎をさせたことを探り当てる論も興味深いのだが牽強付会にすぎる。ただ、全体としての主張になにかしらの面白みは感じるので、ひとつひとつの論点に丁寧にあたっていけば良いものができたように思う。

 

ユミソン

「タイトル未定」の草稿

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/yumisong/2836/

本人の言葉通り批評文ではないのだが、エッセイと呼ぶにもこなれていない部分が多く、読むのにかなり苦労してしまったのが正直なところ。コミュニケーションにおける言語の非重要性と、ソクラテスの議論と、ニコラ・プッサンの絵の話が乖離しているところに顕著なように、文章の流れがうまく進んでいないように思う。エッセイとして書くにも構造や論理に対する意識は(そうした構造・論理体系を文章で直接使わないにせよ)必要かもしれない。細かいところだとフェティシズム全体主義を生まないというのは大いに疑問がある(詳しくは私のアンビエント論のアドルノの箇所を参照)。余談ですが、ユミソンさんの文章から僕が昔よく聴いてたブルーハーブの名前が出てくるのは超意外でした。

 

北出 栞

「「オルタナティブゼロ年代」の構想力ーー時空間認識の批評に向けて」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/kitade/2847/

論の流れはスムーズで、主張もクリアかつ構成も読みやすいように上手く練られている。「ズレ」という言葉の扱いも魅力的。ただし、バンプと欅坂の論は、批評対象のメディアが方や歌詞とライブ、方やMVで、抽出される結論も異なるため、本来は全く別のものである。それをラッドと深海誠を挟んで(この二つは論旨には直接必要がない)、実際には繋がっていないものを文の流れの上で繋げているところは難点。『天体観測』一曲のみで「時間の共有不可能性」を抽象するには論拠が少ないし(『スノースマイル』『Embrace』など使える曲はたくさんあったはず)、2016年デビューの欅坂を「オルタナティブゼロ年代」と形容するのも無理がある。また、フィッシャーの『資本主義リアリズム』の解釈にも疑問があり、わたしが読んだ限り、あの本は「資本主義下の現実主義」ではなく、リアルもファンタジーもオルタナティブもキャラクターもヴァーチャルも全て資本主義に回収されてしまうことを問題視している。「確固たる「外部」を許さない」と論者が欅坂に対して肯定的に書いた言葉は、そのまま「資本主義リアリズム」の最も度し難い部分を表している。バンプも欅坂も資本主義の「リアル」の「外部」に出たという論拠はなく、つまるところ、本稿はフィッシャーの論を逆転できていない。論の強度を高めるには、前提となる文献との関係性に注視する必要があったか。

 

伏見 瞬

アンビエントと二つの〈死〉」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shunnnn00/2854/

アンビエント・ミュージック」というマイナーなジャンルを開かれた形で書くための努力が感じられ、その試みはある程度成功しているように思えた。アンビエントとカタストロフが結びつくという論点も興味深い。ただし、文章にくどい部分があり、読みにくい印象をうける。「はじめに」「次からは」「最後に」などの冒頭句が多く、論の流れを沈滞させているのもあまりよろしくない。また、終章はまとまりにかけており、2017年の作品紹介も「時間と向き合っているもの」とだけ形容するのは後半に持ち出す議論としては弱く、最終段落で不眠症の話が挿入されるのも唐突。論を終わらせる上で、論者の主張、いうべきことは何かをもっと意識すべきだったように思う。

 

太田 充胤

「アートとしての病、ゲームとしての健康 -10年後に読む『ハーモニー』-」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/lemdi04/2821/

 粘り強く思考する力が出ていて論理的にも良く練られているし、「健康」がゲーム化しているという論点も興味深かった。論者の持ち前のユーモアがところどころで発揮されているのも魅力的で、たとえば「「イライラする」と感じてから「ラーメン食おう!」まで一足飛びです(私だけかもしれませんが・・・)」という箇所で思わず笑った。しかしながら、(有志諮問会でも同様のことを指摘したが)『ハーモニー』と國分功一郎に対する新たな読みがなされているという印象は覚えず、それらを「健康」を考えるための道具にしてしまった感は否めない。國分を時系列で読み解いた点はよかったが、その分『ハーモニー』とのバランスの悪さが目立ったようにも思える。「オートプレイ」という論点については、我々が普段食事を選ぶ時に作動する「オート」と、『ハーモニー』結部の人類の意識が全て消滅するような「オート」ではやはり差異があり、そこが一緒くたに語られしまっているため、説得力のある議論になっていないように思える。加えて、最後に「アートとしての病」という論点を提示するなら、『ハーモニー』(もしくは他の伊藤計劃作品)もそこで今一度言及するべきだったのではないだろうか。本稿における「アート」は正に『ハーモニー』のことなのだから。

 

渋革まろん

チェルフィッチュ(ズ)の系譜学ー私たちはいかにしてよく群れることができるか」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/shibukawa0213/2856/

山カッコを多用した暗号的な文体自体が読み手の身体に反応を与えるような感覚があり、刺激的だった。オウム真理教平田オリザを表裏関係として配置する議論も面白いし、そこからチェルフィッチュ(ズ)が00年代に登場するという流れにも説得力がある。「身体」と「共同体」の関係性を論じたものとして、普遍的な射程を持っていると感じる。難点があるとすれば、暗号文体が続くことで、どこかだまくらかされている印象を受けるところ。平田オリザにおける「コンテクストの擦り合わせ」はつまり〈身振り〉の「身体化」であるという断言は、「言葉」の問題もすべて「身体」の一語に内包させているようにも感じるし、その結果か、日本的主体では「みんな」が身体化するという主張でも、「言葉」や「イメージ」もすべて内に取り込んだ状態で「身体化」という言葉が使われてしまっている。こうした言語使用は、ノイジーな身体を特権化して、言葉やイメージや音を抑圧する方向に働かないだろうか?極端な主張が文体をカモフラージュにして「感応=共振」されていく可能性もこの論考は含んでいる。無論、現状を鑑みてあえて極に振り切るという政治性も要請される場合はあるだろうが、この文章自体がある種オウム的な感染力を持つことを論者は自覚する必要があるかもしれない。

 

 みなみしま

「「絵画」の時間–現代の「現在」の条件をめぐって–」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/9090mm/2812/

現代の「現在」性を導くというテーマ自体は魅力的だし、一歩一歩誠実に議論を進めていこうとする姿勢にも個人的には好感を持つが、特定の絵画や小説を通しても未だ抽象的な議論に終始している印象は否めず、具体的なイメージが読み手に与えられないまま論が終わってしまっている。本稿が小説論なのか絵画論なのか明確ではなく、中心が定まっていないのもその一因か。他文献への言及も佐々木敦批判を除けば、援用しているだけで論者なりの解釈が含まれていないように感じたし、文体も美術批評に明るくなければ読みにくいものとなっている。自分の主張をブラッシュアップしつつ、伝えるべき読者に考えをめぐらしていけば、もともと知識量と文章力が長けているだけに、「読ませる」文章が書けるのではないかと思う。

 

山下 望

「NEO TOKYO STATE OF MIND(demo)」

http://school.genron.co.jp/works/critics/2017/students/yamemashita/2808/

ジャンルレスに蓄積された知識に裏付けられた蛇行を繰り返す文章はやはり独特の魅力を放っている。今回はいつもより一文の長さは短く読みやすいが、それでも論者の特徴は良く出ているように思えた。ヒップホップと「母」という独自の論点を開示したところで終わってしまっているのが残念。続きを期待しています。

 

 

ふぅ、やっと全員終わりました。疲れたけど楽しかった。

ジャンル別に見ると小説/音楽/演劇/映画/絵画/建築/医学とバラエティに富んでいて、その意味でも今期の3期は特異だったのだなとあらためて実感。各自のテーマも主張もなんだかんだでバラバラですね。講評会たのしみだな。