I was only joking

音楽・文学・映画・演劇など。アボカドベイビー。

ゆうめい/弟兄

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(9月9日 STスポットにて)

 

 ゆうめいは私演劇の「私」の扱いが本当に巧い。作・演出の池田亮の実体験を演劇にしている作風はハイバイの岩井秀人から受け継いでいるのだと思うが、ゆうめいの演劇はハイバイとは異なる新しい魅力を獲得をしている様に思える。今のところその正体ははっきりしていないが、とりあえず『弟兄』を振り返ってみる。

 ステージ上に細見の柔そうな男が現れて「池田亮です」と名乗る。舞台には飲食注意などの指示が書かれたポールが二本立っており、男はそのうちの一本に紙を貼付ける。そこには子供の落書きのような顔が描かれており、横に「池田亮死ね!」と書かれている。男が説明する。これはぼくが中学校の時に学校の掲示板に貼られたものだと。やがて話は回想へと入り、別の背の低い男が現れて中学時代の池田役として演技を始める。いじめられていた当時の様子、復讐の妄想、自殺しようとしてできなかったことなどが、最初に出てきた男のツッコミを交えながら演じられていく。高校に入ると友人ができ、中学時代の池田を演じていた男がこの友人、通称「弟」へと役をシフトさせる。「弟」は池田以上に凄惨ないじめを受けていて、境遇の近かった二人は自然と一緒に過ごすようになる。いじめもなくなり、過去を克服したかに見えた二人だったが・・・。

 あらすじはざっとこんな感じだが、注意したいのは「池田亮です」と名乗った男は実際の作・演出の池田ではなく、別の俳優であるということだ。全て実体験、登場人物は全員実名だと劇中で語られるのだが、そもそも語っている男が名前を騙っている。ここに「私」に対する絶妙な距離が生まれる。もし実際の池田本人が演じれば、それは自分語りになるだろう。実体験をフィクションとして再構築すると、おそらく凡庸な物語として終わってしまう。どちらにせよ、観客が距離を置いて安心して観ていられる見せ物になる。だが、『弟兄』の私、「池田亮」は他人の体へ憑依している。それを観ている観客は「池田亮」の感情が別の人物に転移されているように想像してしまう。おそらく、この転移のイメージが、劇内で起こっていることを他人事にさせない仕組みとなっているのではないか。この転移があるからこそ、「池田亮」のセルフツッコミも切実な感情吐露も、まるで自分のことのように、と同時に他人が感じているもののように、感覚が二つ合わせに重なっているような奇妙な感覚を観客は覚える。「わたしはわたしである」と同時に「わたしはあなたである」という状態が、80分間続いていくのだ。この奇妙な感覚は、今まで観た他の演劇では感じたことのないものだ。 

 みじめな状態の時に体が「かゆい」と感じるのにはリアリティを感じた。昔レディオヘッドがEPのタイトルに『Itch(かゆさ)』とつけてたのを思い出す。個人的には劇中に出てくる地名、春日部と川間が両方仕事で行ったことある場所だったので「わかる、わかる」と頷きながら観ていました。

The National/Sleep Well Beastに関するメモ

9月8日(金)に発売となったThe Nationalの7枚目のアルバム『Sleep Well Beast』を家や外で4、5回リピートしたのでとりあえずの印象を。

 

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今回は4曲リードトラックが発表されてて、どれも抜群の出来だったので期待していました。Casey Ressによるデジタルメディアを駆使したMVもめちゃかっこいいし。特に「The System Only Dreams In Total Darkness」と「Day I Die」の痙攣するようなエレキギターの響きが今まで以上の格好良さなのがグッとくる。ちょっとLou Reedの「Vicious」やDavid Bowieの「Moonage Daydream」みたいなグラムロック感もありますね。

 

 

 

 

 

アルバム全体を聞き通してみて、やはりいい。個人的にNationalのベスト2は「Alligator」「High Violet」なんですが、そこに並ぶかもしれない。音響に関しては今作がベストだと思う。4枚目「Boxer」以降Bryan Devendolfのドラムの立体的な迫力は常に素晴らしかったけど、今作はテクニカルな進歩やリズムパターンの幅広さが功を奏してか、これ以上ない格好よさ。エレクトロニクス楽器によるシーケンスが多く使われているのも今回の特徴で、アコースティック色、オーガニック色の強かった全作とはかなり違った印象。基本はいつもの骨太でダンディなNationalで、曲がいきなりダンスポップ化したわけではないが、成熟した男っぽさが特徴のバンドだからこそ、少し軽薄にも聞こえるシーケンスが弁証法的にうまくマッチしている。エレクトロニクス感は、アルバム全体にSF的なイメージを広げる推進力にもなっていて、未来感があるというよりも、SF小説が得意とする社会構造の骨組みを提示する感じが出ている。まるでレイモンド・カーヴァーが描くどん詰まりの日常にフィリップ・K・ディックの社会的想像力が入り込んできたような世界。そのことにおそらく本人達は自覚的で、MV監督にCasey Reasを起用したことがなにより証左だろう。ホラーの雰囲気も漂う田舎道を進むカメラをデジタル画像で分割した「The System Only Dreams In Total Darkness」の映像は本作のオーラ全体を見事に象徴している。そういえば、一週間前に出てWar On Drugsのアルバムもシンセサイザー多めでSF感でてたけど、北米インディ界ではちょっとしたシンセ(が醸し出すSF)ブームなのだろうか。

 

 

 

今のところベストソングは後半のドラムソロが最高の「I'll Still Destroy You」と幽玄なオーラと囁くヴォーカルが今までにない魅力となっているラス曲「Sleep Well Beast」。StoogesかMudhoneyのようなガレージロック「Turtleneck」は結構驚いた。短3度を使うブルースっぽいコード進行はNationalの曲でははじめてじゃないかな。

 

ナカゴー『地元のノリ』

(9月1日 アートシアターかもめ座にて観劇)

 

冒頭アナウンス(「携帯の電源をお切りください」のやつ)において、出てきた青年がこう告げる。「これから出てくる人たちは僕以外全員人間ではありません。僕も途中から人間ではなくなります」。直後、河童(の恰好)をした役者が現れ青年の予告を裏付けるが、その後出てくるのはみな普段着の男女たち。だが、彼らはほぼ全員が河童であり、赤羽の闇医者に人間の皮膚をつけてもらって偽りの人間生活を営んでいるのだ。そうした荒唐無稽な設定の上で、展開されてくる物語は怒涛の勢いでころころ入れ替わる。母子家庭、三角関係、「積み木崩し」的家庭崩壊、上京と孤独。日本のドラマや演劇ではおなじみの設定の人間ドラマが次々と現れて話が膨張し、いったいこれは何の話なんだろうと思えてくる。ほとんど役者全員集合となるラストのファミレス(ジョリーパスタという設定が絶妙)の場面、店長の気絶からエセ松岡修造の突然の変貌の流れは特に圧巻。さまざまな悩みや問題が解決されたのか、されていないのか。そんな疑問は一切無視して、ブラックジョークな匂いも含みつつ強引に幕が下りる。切実なやるせなさが描かれていないわけではないが、受ける印象はとにかくド派手に馬鹿らしいコメディだ。

だが、このはちゃめちゃで滅茶苦茶な喜劇には、真正面から受け止めるべき希望、と呼んでいいのかわからないが、風通しの良いポジティブさが宿っているように思えた。その要因の一因は、おそらく「壁」の存在だ。バイト先(前述のジョリーパスタ)で、友達のいないことに悩むおかっぱの女(その実は河童)に話しかける、花柄のサロペットを着たギャル風の女性。予告された設定にある通り、当然人間ではないのだが、お互いが秘密を告白する流れで、自分が「ぬりかべ」だと告げるのだ。このあたりの二人の距離のつめ方が実によくて、涙腺を刺激するのだが、その中で河童はぬりかべに向かって走ってはじかれる遊びを行い、二人は笑いあうシーンがある。この「壁にぶつかる」という動きが本作を特徴づけている。たとえば、「怪力の男」という設定を証拠づける方法として、本作では力を受けた相手が「吹き飛ばされてにぶつかる」という(『童夢』の超能力表現のような)演出をとっており、壁へのぶつかり方がわざとらしすぎて何度も笑いを呼び起こす。壁は、共に戯れるものとして存在している。「ぬりかべ」は笑いながら、ぶつかってくる人間を受け入れる。人を閉じ込めるもの、なにかを達成する困難の隠喩として扱われる壁を、ポジティブなものとして捉えなおすこと。『地元のノリ』に感じる風通しの良さは、風を妨害するはずの「壁」から与えられているのだ。

 

あなたは今、この音を聴いている?

ナカコーこと中村浩二氏のツイート。

 

 

これは過去のアンビエントミュージックの概念を作っていった音楽家エリック・サティブライアン・イーノの定義を正統に受け継いでいる発言と考えていいと思います。演奏者や作曲家が主体でなく、聴き手が自由な聴取条件のなかで何かしら世界の本質を発見してほしい、ということですね。

佐々木敦さんなんかは音楽を論じるときは一貫して「聴く」という行為について書いていて、小説について書くときも「読む」ことについて書いていますね。佐々木さんの批評は結論が出ていなかったり、あまりに当たり前な結論に到達するやつも結構ありますけど、読み手が論の流れから自由に読み取ってほしいという態度はアンビエントの概念そのものだって気もします。この本なんかは正にそう。メタフィクションにおける書き手の絶対化が嫌でどうにかして読み手の自由を確保したいって一冊です。

 

honto.jp

 

ぼくがここ一年で一番聴いてるアルバムって『Tired Sounds Of Stars Of The Lid』なんですけど、なんで聴いてるかというと睡眠導入剤として最適なんですね。お昼ご飯食べるとすんごい眠くなる体質なので5分くらい仮眠をとる(座って目を瞑るだけですが、1分くらは意識とんでる)んですが、このアルバム聴いてるとふわっと眠りが訪れるわけです。エフェクトがかかっているからか、演奏感が一切感じられない弦楽器の音の揺れが波のように押し寄せては引いて押し寄せては引いて。どうやって音作ってるかはまったく分からないんですけど、ほんとに心地よい音で、マイブラとボーズオブカナダを足して、リズムを全部引いたような感じが気持ちいいわけです。

 

 

 

ただ、通しで聴くことはほとんどない。CD2枚組のボリュームだし、ずっと集中して聴いていられない。本を読みながら最後まで流すことはあるけど、意識をフォーカスして全部聴こうとしたら絶対途中で寝ちゃうはず。眠ったら当然ながら最後まで聴けない。全体像はいつまでたっても掴めないわけだが、むしろ全体を想定することの無意味さに気付かせてくれるところがにこの作品の本領、およびアンビエントの本領があるわけで、それをナカコーさんは「目を離した瞬間陽が沈むような」と表現した。聴き始めてから眠るまでの時間が短ければ短いほど、つまりその作品を聴いている時間が短いほど、音楽としての価値が上がる。そういう逆説に、ぼくは最近惹かれている気がする。

 

ベンヤミンは『複製技術時代の芸術作品』で、複製技術の発展による芸術のアウラの消失について語ったのは割と有名な話ですが、アウラっていうのは作品に含まれる魂みたいなものではなくて、受け手が一つしかないもの、一度きりしか起きないものに覚える歴史的な重みみたいなものなんだと説明されています。

 

いったいアウラとは何か?時間と空間とが縺れあってひとつになったものであって、どんなに近くにあってもはるかな、一回限りの現象である。ゆったりと憩いながら、地平に横たわる山脈なり、憩う者に影を投げかけてくる木の枝なりを目で追うことーーこれが、その山脈なり枝なりのアウラを呼吸することに他ならない 

ウォルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』

 

この言葉とアンビエントミュージックとの関係にも逆説があると思うんですよね。アンビエントの音源なんて正に「複製技術時代の芸術作品」だし、一回性なんてないように思える。だけどナカコーさんはアンビエントを「夕日を感じるような」ものと言っている。ゆっくり夕日を眺める行為はベンヤミン的には正に夕日のアウラを呼吸することです。複製技術とアウラが両立するという逆説的事態は何故起こりえるのか。これは、録音されたものはいつだって同じものを聴いてるという前提だけど、実は聴き方によって全ての聴取体験は一回性のものになっている、というのが理由かと思うのですが、やはりここでも聴き手の体験がスタートラインになっています。その聴き方は、集中して何かを得ようとするのではなく、ぼんやりと漫然とした態度に基づくもので、寝た後はそもそも「聴いてる」かどうかもわからない。このぼんやり感は、他の芸術、本や映画や演劇や絵画やまんがや建築に臨むときにも適応されてしかるべきだと思うし、そういう体験を意識した作品があってもいいのじゃないかなと思っています。寝ながら読める小説みたいなものを、最近はよく夢想しています。滝口悠生の小説はちょっとそんな感じあるな。

『部屋に流れる時間の旅』について

君の幽霊になんかなりたくなかった 誰の幽霊にもなりたくなかった

僕には誰もいらない

The National『Everyone's Ghost』 

 チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』は能・狂言の翻訳などを通じて日本古典芸能に触れていた岡田利規の近年の活動が比較的ダイレクトに舞台に反映された作品といっていいと思う。

舞台上に人物が三人しか現れず、動きや言葉数が制限されていること、あるいは客席に背中を向けた演者やセットの簡素さ(だが色の変わるカーテンや回転する石など目を引く仕掛けはいつくか用意されている)が能を想起させるかもしれないが、それ以上に幽霊が登場することが大きい。

作品に登場する幽霊は、先に進もうとする男を引き止めるかのように、ひたすらに話しかける。そこで語られる言葉の幸福なイメージが強烈な呪縛の役割を果たしているようだ。

その幸福が、大きな事件によって作られた、あるいは発見されたものであること。悲しみの上に見つかった幸福がさらに悲しみを誘発してしまうこと。終わりのなさを強く意識させる。恐怖と悲しみが隣り合った感情であることを、思い出させるような75分。もちろん、そんな簡単に割り切れるものではないのはわかっているけど、今のところはひとまず。

 

小松台東『山笑う』と「外のない人々」について

小説家の保坂和志はインタビューでこのようなことを語っている。

ぼくにとってまず世界とか人生とかを外側から見る視点をいかに自分のなかから完全になくしていくかということだから。世界というのは外から見えない、自分の人生とかも外から見えないわけでね。外から見えるというその救いみたいな出口みたいなものは、ひとが知的なひとたちとそうじゃないひとたちって現実にいるわけでさ、知的なひとたちってそういった俯瞰的思考ができるようになっているんだよね。(中略)それによってほんとうに自分の人生が豊かになるかといえばちがうと思うんだよ。それで人生を歩めるか、人生をもっとも充実させられるかといえば、外に出てしまうやり方はダメなんだよ。人生や世界を外から見ない訓練を徹底していかないと充実したものにならないんだよ。 『世界の外に立たない思考 ベケットカフカ小島信夫』【別冊ele-king 読書夜話】より

 

三鷹市芸術文化センターで小松台東の『山笑う』を観ながらぼくは保坂和志いうところの「人生や世界を外から見ない」人々のことを考えていた。母の通夜に、男を連れて東京から宮崎に帰ってきた妹に対してこんがらかった感情を抱える兄夫婦、その息子と夫婦の友人らを混ぜた家族劇。はじめは宮崎弁の語気の強さに怖れをなすが、やがてそれぞれの人間関係、状況、想いなどが明らかになってくるにつれて気づいたら言葉の癖にもなれている。

 

小松台東|komatsudai.com

 

「外」から見れば、全ての登場人物には何らかの欠陥があり、決して褒められた態度はとっていない。がなり声で妻に父権をふりまわしながら妹をこっぴどく責め立てる兄、その場で最年長なのに気が小さく会話の飲み込みも遅い妹の彼氏(?)、やたら人との距離が近く酒癖の悪い兄の友人。「世間」を気にしているのかと思えばそこから逸脱した行動や発言がいくつも飛び出してきて、公演時間100分のなかで観客を何度も笑わせるわけだけど、『山笑う』を観ることはそのまま「人生や世界を外から見ない訓練」となっているのではないかと思った。この作品は登場人物たちを肯定も否定もしていない。いや、肯定しているのかもしれないが、そこに論理として説明できるような理由はない。ただ、無条件で抱きしめている。昨日、新文芸座観たチェコのイジー・メンツェルによる映画『剃髪式』も、外からの視点を持たない愚かな人々を無条件に抱きしめるような大らかな作品だった。声がデカすぎる人物が出てくるところも共通している。

 

indietokyo.com

 

この無条件さは、キリスト教の隣人愛とは違うのだろうか。おそらく、違う。少なくとも、教えを広げて宣教を他者にほどこすような啓蒙を含んだ隣人愛とは違う。それはただ、自分に偶発的に与えられた環境のなかで、関係を持つことになった(「隣人」となった)存在を引き受けること。有限を受け入れることだ。無限の神の愛ではない。『山笑う』を観ることは、有限性から立ち現れる豊かさに触れる体験だ。小賢しく外を伺いながら生きることに慣れてしまっている人間(間違いなくぼくもその一員だ)の凝り固まった思考をほぐすような時間が、そこには流れていた。

 

ぼくは、「ではこの劇を論ずることは外側に立つことと同義なのではないか」と訝しんでいるわけで、批評とはそもそも「外側に立つこと」が条件となっている行為なのではないかと思ったりする。だけれど、なにかについて語る批評の営為に強く惹かれているのも事実。「外側に立たないこと」と「批評すること」のと間の解消不可能にも思える矛盾とどう対峙していくか。その答えが出ているわけでもないのだけど、作り手に直接語りかけることと、それ以外の第三者的な読み手に直接語りかけること。説明はできないが、この二つのダイレクトな語りが両立するような言葉が必要になってくるのだと思う。こんなことを、最近ずっと考えている気がする。ただまぁ、作劇もある種「外側から観る作業」だしなぁ。批評に限った話ではないのかもしれない。

 

自分の話が少し長くなってしまったが、『山笑う』はユーモアとペーソスが少しずつにじむ様が素晴らしい作品です。最後のライト消灯の瞬間に感じた愛しさのようななにかが今でも体に残っている。是非観てみてください。

 

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ジャック・リヴェット、13時間の傑作『アウト・ワン』を観た

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5月6日と7日にクラウドファンディング出資者限定で、昨年亡くなったジャック・リヴェット監督の12時間43分に及ぶ1971年の大作『アウト・ワン』の上映が都内某所で行われた。

 

indietokyo.com

 

『アウト・ワン』は8つのエピソードに分かれたパリの若者達の群像劇であるが、厳密な脚本は用意されておらず、役者の演技を観ながら即興的に作られていったという話である。話の中心には二つの劇団がいて、彼らはそれぞれアイスキュロスの劇の上演のためにいささか前衛的な雰囲気のリハーサルを日々行っている。そこにジャン=ピエール・レオ演じるコランと、ジュリエット・ベルト演じるフレデリックという二人のアウトサイダーが絡んでいき、次第にバルザックの小説から取られた《13人組》という秘密結社の存在が浮き彫りになってくる。13時間という異様な上映時間もこの《13人組》から決められたものだとリヴェットは語っている(Indie Tokyo作成の本作パンフレット参照)。

 

最後まで観れば明らかなように、この映画は68年のパリ5月革命の残滓についての映画であり、激動の時代に賭けた青春を取り戻そうとして挫折する物語が中心にある。ラストの8エピソードにおける73分は夢が音を立てて瓦解していく様を克明に記録しており、映画が終わってしまうという事実認識と相まって観ていてかなり切ない気持ちにさせられた。だが、最後のカットの突然の挿入にはとても驚かされたし、切なさが一気に飛んでいった。ある方法でラストカットは予告されているものの、それでもあの一瞬の映像には驚愕せざるを得ない。本作はおそらく予算の限界もあって一つのカメラでの長回しが多用されるが、継続される映像の流れの中に短いカットが挿入されることで観客をハッと驚かせる効果が生まれている場面がいくつかあり、最後のカットはその最たるものだろう。こうした異化作用から感じられるリヴェット流の遊び心が、「革命の挫折」の裏側にあるもう一つのテーマと言えるかもしれない。

 

その遊びがもっとも画面に表出してくるのは色彩によってである。本作の中で特権的位置を占めている色がひとつだけあり、それはオレンジ・橙色だ。序盤から、服装や小道具、例えばマイケル・ロンズデールが演じるトマの劇団のプライマルスクリーム療法的リハーサル(参加者全員が思いのままに叫んだり這いずり回ったりする)でオレンジのトルソーに皆が纏わり付く場面やベルナデット・ラフォン演じるスランプの小説家サラの部屋にオレンジの花が花瓶にいくつも挿してあったりする。登場するいくつかのカフェの椅子はことごとくオレンジ色だし、壁紙やソファの色もオレンジがやけに多い。このオレンジの存在感はどんどん積み重なっていき、後半に流れる血の色までがオレンジに染まっている。

 

また、数字も重要なモチーフであることは疑い得ない。なにせタイトルに「1」という数字が含まれた、「8」つのエピソードに分かれた、『13人組物語』を基にした「13」時間の映画である。電話番号や住所、ジュリエット・ベルトがつぶやく数字の羅列など暗号めいた数字がいくつも現れるが、ここで注目されるのは1、8、13をすべて含む数列、フィボナッチ数列だろう。

 

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フィボナッチ数列とは大雑把にいえば「直前の二つの数の和が次の数になる」数列でああり、

「1、1、2、3、5、8、13、21、34、55、89、144・・・」と続いていく。

この数列の特徴は「となりの数との差がどんどん大きくなっていくこと」にある。『アウト・ワン』は明確なストーリーやひとつの目的に収縮するのではなく、どんどん拡散していく意志をもった映画であり、その性質はフィボナッチ数列と共有されたものだと言えよう。タイトルに含まれる「アウト」という単語も、単一性の外へ外へと広がる運動の現れである。だから、この映画を画一的な意味で解釈することには、決定的な過ちとなると言っていい。批評自体も、外へと進んでいかなければいけない。

 

他にも、ピストルや帽子やたばこなど強烈な存在感を主張するアイテムがいくつも存在し、バルザックアイスキュロスルイス・キャロル作品とのインターテクスチュアリティも忘れてはいけない要素だろう。ともあれ、この映画には多くの遊戯成分が含まれており、製作陣の意図を超えたところまでそれは浸透していく。ここで映像ににじむ遊びの在り方に深く言及するとキリがなくなるので止めておくが、一言だけ、『アウト・ワン』と戯れることは、映画の本質、さらには生きることそのものの本質へ触れることにもなる、とは明言しても許されるだろう。

 

そういえば、もうひとつ観ていて驚いたのは71年のパリの姿が現代とさして変化していないこと。筆者は2015年にパリへ訪れているが、街の様子にはほとんど違いがなく、ファッションなどの風俗に関しても、ヒッピー文化が現代では廃れていることをのぞけば大きな差異はないように見受けられた。71年の日本は今と比べて決定的な差があるだろうし、当然もっと古びたものに感じるはずである。この変化のなさはヨーロッパの町並み全般に言えることなのかもしれないが、もしかしたら西洋人と日本人では、この50年に対する時間感覚が大きく異なるのかもしれない。

 

最後に、今回の上映を実現してくださった大寺眞輔さん、およびIndie Tokyoの皆様には感謝の言葉しかありません。フィルム権利の買取にはじまり、字幕翻訳、パンフレット等グッズ類作成、上映場所の検討・交渉・準備など、相当の苦労と時間を費やしたはずです。本当にありがとうございます。

来週には京都での上映も控えているし、東京での再上映の検討もされているとのこと。予定があえば是非もう一度みたいです。さらに13時間かけても全然苦にならないぞ。