I was only joking

音楽・文学・映画・演劇など。アボカドベイビー。

雑感190526

休日の朝に無駄なことをしてしまうと、不快さを忘れるのに時間がかかる。人に会うと救われる。

 

新宿で美味しい小籠包を食べた。皮と肉と汁が一個の物体として収まっている。「確かに食べ物を食べた」という実感が湧く。自分が頑張って作ったものが世界に存在する必要がないんじゃないかと感じる時がある。度々ある。小籠包だって世界に存在しなくても困らないのに素晴らしんだから、そんなことを気にする必要はないのだ。僕の感覚は時々とても馬鹿なのだ。

 

 

 

なんの過不足も感じない鉄壁のアルバムを久しぶりに聴く。ジオメトリコのファースト。メロディは皆無。リズムだけ。全ての音が凶器を想起させる。ハンマー、剣、ピストル、兵隊の行進。音楽は根本的に暴力で、だから蠱惑的であるということを何度も思い出そうと思う。音楽を平和と結びつける感性を、信用できない。平和は音楽の目的ではない。

 

aesthetical.bandcamp.com

 

李氏さんがツイートしていたフランスのFranck Vigrouxの新作も情感を排除した暴力の徹底で、そこにしかロマンスは宿らない。痴話喧嘩も投稿写真も余計だ。ロマンティシズムも暴力だから。クロノスタシスグランド・フィナーレの響きが愛だ。

 

暴力繋がりというわけでもないけど、アガサ・クリスティの定番『オリエント急行殺人事件』を読んで、本当に小説が上手い人が存在するんだなと思った。国際政治の力学が作品を支えているのが興味深いと思う。

 

テレビのバラエティ番組が恐ろしいということを昨日考えていた。というか昔からずっと考えていること。幼少時に、バラエティ番組で面白いことをやっている人たちが「普通の人たち」だと感じていた。映像と音声でしか確認したことない人物を近しい存在だと認識した。僕の生はそこでかなり間違っていて、おそらくとても多くの人が同じ間違いの中にいる。総理大臣と会食する人を身近に感じたりする。ポストトゥルースはテレビの中にずっとあった。僕が5年以上テレビなしで過ごしているのは、かなり強い選択の意思が働いているからなんだろう。テレビの強烈な磁場をどうにかできるとも思わないのだけど、自分の病は分析するべきなんじゃないかと考えている。ロロの三浦直之はテレビとののっぴきならぬ距離感を肯定的に演劇で描いているけど、僕は否定的に描きたい。

 

とある演劇の作り手が稽古場で何を行なっているかという話をしてくれた。「多様だ」と「これしかない」をどちらも肯定しなくてはいけない。編集長をやっている自分にも響く話があった。