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映画とは重力を書き換える魚である ー山中瑶子『魚座どうし』についてー

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1.

 『魚座どうし』は2019年度の文化庁委託事業「ndjc(New Directions in Japanese Cinema):若手映画作家育成プロジェクト」において製作され、2月後半に角川シネマ有楽町で公開された山中瑶子監督による短編映画だが、「魚座」と聞くと、僕は真っ先にカート・コバーンのことを思い出す。
 

   1994年4月に猟銃自殺したニルヴァーナのフロントマンの遺書は「年老いていくよりは燃え尽きた方がいい」というニール・ヤングの詞の引用で有名だけれど、それ以上に印象深いのは「おれは惨めで、ちっぽけな、何の価値もない、魚座の、救いようのない男だから」という言葉で、ネガティブな形容詞の連続の中に突然星座について言及するその緩急に不意を突かれ、1967年2月20日ワシントン州アバディーンで生を受けた青年の、詩人としての特異な資質が生の終わりにあらためて浮かび上がる事実に奇妙なよろこびを覚えたりもするわけだが、カート・コバーンといえば幼い頃に両親の不仲と離婚を経験し、愛情に対して抱いた空虚と社会に対して抱いた不信感を公式の場でも隠さなかった人間であり、魚座という生まれながらに定められたスティグマは彼にとって「自分ではどうしようもできなかったもの」として家庭の不和と結びついていると思われ、たとえばシロップ16gという日本で結成されたバンドが2004年に発表した「うお座」という曲は、愛に慣れていないが故に身体の結びつきに信頼を持てぬまますれ違っていく男女の関係を、男性の身勝手な視点から幾分か自嘲的に、巧みに構成された少ない言葉によって語る詞を有しており、コーラスで繰り返される「うお座うお座うお座うお座の子」のフレーズから生まれる情感と、シロップ16g自体がニルヴァーナと同じくスリーピースのバンドで、不安定で残酷な社会に居場所を持てない人間の感情を静寂/轟音の落差で表現しているという事実に思いを至らせれば、このバンドのフロントマン五十嵐隆が「うお座」という言葉にカート・コバーンの遺書から得たインプレッションを込めたことは明確であり、以上のように、うお座をモチーフにした二つの印象的なテクストが世に存在し、その二つがひとつながりのコンテクストを形成しているが故に現在、水の中で生きる生物種の名をかざした十二星座の一つには、「親との不和、社会との軋轢、愛情の持て余し、自分自身への信頼の欠如」といった意味合いが影を落としている。

 

2. 
 山中瑶子が、自身の監督した映画に「魚座どうし」という題をつけたのも前述の意味合いを意識した故だと思われる。この30分のランニングタイムを持つ映像作品には主役と呼ぶにふさわしい男女二人の小学生が登場する。二人とも両親との関係が不安定で、落ち着き場のない感情を持て余しているようだ。女の子の主人公格、根本真陽演じるみどり(母親からは「ピンクちゃん」と呼ばれている)は、映画の最初の方こそ楽しそうに見える。父親は家にいないが、学校で友達に快活に挨拶し、母からも優しく接してもらえているように思える。しかし、後半に入ると(おそらく夫との不仲が原因で)不安定な母親が娘の精神を蝕んでいることが判明し、ある事件によって学校でも担任に追い詰められていく(彼女の友達は何の助け船もよこさない)。男の子の主人公格、外川燎演じる風太にも父がいない。母親に新興宗教の勧誘を手伝わされており、そのせいで訪問先でスキンヘッドの男から恐喝を受けたりしている。母親と心を通わせない彼は近所の床屋の男に暖かく受けいられているが、ある日店から借りた傘を返しにいくと、閉店のお知らせが掲げられており、拠り所だった男がいなくなったことを知る。二人の子供が居場所を失っていく過程を交互に描いていくのが本作の大まかな展開であり、『魚座どうし』というタイトルは彼ら二人の近似性を示している。
 しかしながら、真綿で首を締めるような閉塞感が後半の奔流を用意する物語の展開がある一方、本作の撮影と編集は、最初から最後まで重たい意味を無視するかのような奔放さを持続している。僕が確認した限り本作のカット数は72であり、これは30分の映画にとって比較的少ない数字だ。全体は長回し気味に編集されている。持続する撮影時間の中でカメラは上下左右に自在に動くのだが、その動きはブレを強調した激しさではない。中瀬慧によって撮影されたカメラはなめらかな移動で映す対象を変えていく。たとえば、少女二人が小学校の校舎に入ってくるところで横移動して奥の一輪車を映す。たとえば、川沿いにひとりたたずむ少年を映していたのが180度ほど左に旋回して、強い太陽光の侵入を経由してから小学校のロングショットへ切り替わる。こうした映像の動きが本作を特徴づけている。
 また、カメラは対象人物の動作を最後まで捉えない。メモを書く、ご飯を食べる、走るといった行動が完了する前にカットが入る、あるいはカメラが移動する。突然の切断が入る。なめらかな持続とぶっきらぼうな切断は、不自由へと追い詰められていく、ある種古典的ともいえる「少年少女の孤独」を描いた物語を適度な編集で伝える任務をハナから無視しており、時々挿入される音楽(荒れ唸るサックスを中心に置いた、フリージャズ気味に展開する音楽)と共謀しながら、少年期の感情の重たい湿り気に対して、映画という形式が有する、あっけらかんとした、渇いた自由を思いっきり表現している。
 言語芸術や音楽、絵画と異なり、映画は日常世界に偏在している表象(実在の景色や人間など)から限定を受ける芸術形式だ。具体的にそこに在る、目に映っている事象に頼らざるを得ない表現である。だからこそ、物語や感情といった、古来から人間種を捕らえてきた抽象性から、映画は自由になることができる。『魚座どうし』という映画は物語を決して軽視せずにドラマの流れを描こうとするが、映画の形式は物語の重力に引っ張られてはいない。映像は自由に動き回っており、物語が醸し出す感情から少しずつズレていく。そういった主題と形式のズレが、体に鋭い一筋を通すような心地よい緊張を観るものに与える。

 

3. 
 SNSが社会に敷衍し、人々の声が過去例のないほどに大きく響き出したここ十数年の状況でわかったことは、抽象性に対する人間の逃れがたさである。物語と感情の強度を求める態度が「民主的な声」として正とされるようになった。「ネタバレ厳禁」と「エモさ」の氾濫にその態度は示されており、宇野惟正・田中宗一郎が『2010s』で指摘するように、ファンカルチャー(つまり民衆の声)と物語由来のエモーションとの結託が『ゲーム・オブ・スローンズ』最終シーズンでの巨大なバックラッシュへとつながった。
 映画というスクリーンから訪れる光の連続体は極めて20世紀的な視覚装置であり、現在ではスマートフォンに代表されるインターフェース型の、ユーザーの触覚操作によって規定される装置こそが21世紀的な視覚認識のあり方を規定している、という議論がある。Netflixをはじめとするストリーミング型の映像サービスが隆盛を迎えていることも併せて考えれば、映画の役割はすでに終わりを迎えていると感じる向きもあるかもしれない。当然ことはそう単純ではない。
 暗闇の中で観る視覚情報であるという共通点から、映画は古くから睡眠中の夢と結びつけて語られてきた。もはやその語りが時代遅れと感じるほどに。しかし、櫻井武が『睡眠の科学』で言及するように、夢の荒唐無稽さがジクムンド・フロイト的な性的欲望の表れではなく、覚醒中に記憶された情報の処理から生まれる余剰世界の反映であることが睡眠科学の中で明らかにされている点を考慮に入れると、現実表象を歪めてひとつなぎの時間を構成する映画と、現実情報から持続する幻想を作り上げる夢が等号で結ばれるのは、見当違いでもないし古くさい議論でもないし過剰な接続でもない。情報過多による現実感の麻痺症状と、観念の暴走と共に生じる不眠症に対して的確な処方箋を用意できずにいる時代の中で、スクリーンと映画は凝り固まった現実感覚を解きほぐすための解放具としての役割を、今こそ引き受けている。受け取る人間が編集可能なPCとスマートフォンの映像情報とは、異なる役割を担っている。

 

4. 
 『魚座どうし』は映画の開放的力量を思い出させる作品だ。少年少女の日々がいかに過酷であり、家族にも学校にも居場所がなく、先の未来に何の希望を持てないとしても、その現実の重みから別の世界を引き出すことができる。風景も行動も感情も物語も裁ち切って、現実をぶっ飛んだ世界へと書き換えることができる。高速でなめらかに泳ぎ続ける、人間の観念では捕らえられない魚。山中瑶子をはじめとする制作陣が作る世界はそのような魚だ。「親との不和、社会との軋轢、愛情の持て余し、自分自身への信頼の欠如」の中で生きる「うお座の子」達による電光石火の遊戯を眺めるうちに、僕らは家族も社会も自分自身もいない場所へと導かれていく。その場所で、年老いることも燃え尽きることもなく、現実から消えるための方法を知る。
 
 『魚座どうし』が、より多くのスクリーンに、より多い頻度で映される事態を、強く希望する。