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ジャパノイズとノベルゲー ーホー・ツーニェン『旅館アポリア』における「日本戦後文化」ー

 あいちトリエンナーレは色々な意味で話題になったけれども、展示作品で最も評判を呼んだものの一つが、シンガポールの作家、ホー・ツーニェンによるインスタレーション作品『旅館アポリア』であることは間違いないだろう。

 『旅館アポリア』は、沖縄へ突撃する神風特別攻撃隊が最後の夜を過ごしたことで知られる喜楽邸を舞台にして、軍国主義を形成した様々な思想的背景の混戦を映像を中心に示していく作品なわけだが、私が最も強く感じたのは、「これ、ジャパノイズのライヴじゃんか」ということだった。ここでは、あいちトリエンナーレ全体とは関係なく、『旅館アポリア』という単体の作品から感じた「ジャパノイズ」性の内実に迫っていきたい。


ホー・ツーニェン(T04) | あいちトリエンナーレ2019


 ジャパノイズとはなにか?20世紀中盤から後半にかけて誕生した「ノイズミュージック」という音楽のジャンルの中の、日本人による表現を総称してジャパノイズと呼ぶ。西洋の「ノイズミュージック」は、それまでのクラシック音楽を中心とする「ミュージック」の制度否定の意味合いが強く、楽理的なルールを無視することが優先された。また、20世紀初頭のイタリア未来派ダダイズムが「ノイズ」の先祖であるため、ファシズムペドフィリアの露悪的なイメージの再利用や、コラージュ的な音の使用法を大きな特徴としていた(具体的にはスロッビング・グリッスルキャバレー・ヴォルテールといったグループの表現)。西洋のノイズにはそれ相応の文脈がある。対して、日本のノイズミュージシャン、メルツバウやインキャパシタンツやマゾンナのような連中は、西洋の文脈を無視して、とにかくうるさい音、耳障りなデカい音を志向した。西洋の歴史に囚われない、騒音としての純度が高い日本のノイズは海外においてカルト的な人気を博し、「ジャパノイズ」という名称が一般化した。アイルランド出身の音楽研究家、ポール・ヘガティに、ノイズの歴史的・思想的意義を分析した『ノイズ/ミュージック』という本があるが、13章から成る本著のうち、一章が「ジャパノイズ」に割かれているばかりか、「メルツバウ」という章も存在する(特定のアーティストの名前が章立てに使われているのはメルツバウのみ)。西洋の前衛・実験音楽好きにとって、ジャパノイズがいかに重要なジャンルであるかがわかる。

 

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 思わずジャパノイズの説明が長くなってしまった。ホー・ツーニェン『旅館アポリア』は、直接的には全くジャパノイズを参照していないし、作家自身がその存在を知らない可能性すら高い。だが、私はこのインスタレーションを体験して、「文脈がない(からこそ優れている)と思われているジャパノイズにも、日本相応の文脈が存在するのではないか?」ということを、まずはじめに考えていた。
 『旅館アポリア』は、12分ワンセットの映像作品を、会場を移動しながら7セット観るように設計されている。多くの作品が並ぶ芸術祭で長時間の映像を見せることはかなり困難を(作り手にも受け手にも)強いるが、「移動する」ことと「座る」ことを体験の中に織り込むことで、鑑賞者のストレスを大きく減少させているのは非常に巧い。作品を構成する大きな特徴としては、小津安二郎の映画からの引用の多用、声が幽霊のように多重化された書簡形式のナレーションなどが挙げられるが、なにより、一つの映像の終わりに、かならず轟音と建物を震わす地響きが挿入されていることが、鑑賞者の記憶に強く刻まれるだろう。この轟音と建物の震えには、かつて幾度か体験したメルツバウのライヴと同じ感触があった。恐さと楽しさと驚きに同時に襲われるような、言いようのないあの感触に。大きなプロペラが回る中で京都学派の戦争に関する言葉が語られるセクションは、唯一四角いスクリーンが使用されていないもので、文字以外の映像の欠如と「絶対無」という単語の繰り返し、そして回る大きなプロメラの回転の引力によって、ひときわ強烈なノイズ性を発揮していた。優れたジャパノイズと同様の恍惚を、私はそこに感じていた。空襲の最中、あるいは軍機の中において、かつての日本の人々も恐怖とともに似たような恍惚を知ったのではないかという仮説が、頭に浮かんだ。加えて、日本は戦争体験以上に、地震津波を通して轟音と地響きに触れている。日本のノイズがほかの国にはない独特の感触を獲得しているとすれば、戦争と天災の経験の積み重ねがその下敷きになっているのではないか。天災を受け入れ続けなくてはいけないことと、戦勝国であるところの合衆国からの庇護と影響をずっと受け続けてしまったこと、この二重の受動性が、ジャパノイズ独特の被虐的な音響感覚を形成している。そう思うに至った。ザ・サディストという加虐性癖そのままの名前を持つパンクバンドのメンバーが、ノイズをはじめるにあたって、北米のポップミュージシャンの名前と被虐性向を表す名詞を合体させて「マゾンナ」と名乗ったという事実は、ジャパノイズの根底を見事に象徴している。
 

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 小津安二郎映画の引用にも触れざるを得ない。『旅館アポリア』では数多くの小津映画の引用が含まれるが、笠智衆三宅邦子の顔はすべて白くぼやかされて、空虚な印象を観るものに与える。俳優の顔が除かれて、匿名的な存在になる。そこに、死者や幽霊のイメージを重ねることも当然できるが、加えて感じたのは、この演出によって小津映画の「ノベルゲーっぽさ」が浮き彫りになっているということだ。ノベルゲー(正確にはノベルゲーム、もしくはヴィジュアルノベル)とは電子画面上で小説のように話が進むコンピューターゲームのことを指すが、背景から浮き出ているかのように対象人物がアップにされ、かつ人物の表情が乏しいという小津映画に特徴的な構図は、そのままノベルゲーの画面構成にも当てはまる。ノベルゲーの元祖は90年代の『弟切草』と『かまいたちの夜』であると言われている。『かまいたちの夜』は登場人物をすべてシルエットで表現することで、不気味な虚無の匂いを醸し出していた。今回の顔が白くぼやけた小津映画の人物たちは、この初期ホラーノベルゲームを思わせるものになっている(ちなみに『弟切草』の映像には人物が出てこない)。ホー・ツーニェンが指摘するとおり、小津の映画には戦争の色が濃くにじみ出ているし、俳優を空虚な人物に仕立て上げるキャメラにも、戦争の匂いはたちこめている。鎌倉にある小津の墓に刻まれた「無」の文字は、京都学派の「絶対無」と呼応しているだろう。戦争の影響が、虚無化された人物像を通して、遠く90年代以降のゲームまで反響している。そのことを、『旅館アポリア』を通して感じ取ることができる。

 

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 さらに発想(妄想?)を膨らませれば、小津の代名詞的特徴である、異様に低い位置から室内を撮った固定ショットに思いが行き着く。あの低さは、地面に対する意識、つまり地震や空襲に際してしゃがんだ時の視点の位置を反映しているのではないか。あるいは、小津映画やノベルゲーに特徴的な受動性は、ジャパノイズと同様敗戦と被災の経験に由来するのではないか。『旅館アポリア』の轟音を通して観ると、そうとしか思えなくなってくる。椹木野衣は『震美術論』において、日本美術史が形成されない「悪い場所」としての性質の因を、地震地域であることの大地の脆弱さに求めているが、ジャパノイズと小津安二郎(とノベルゲー)を考察に加えることで、より射程の広い、あるいは別の角度から迫った「震文化論」を思考することができる。少なくとも、その道筋は見えてくるだろう。
 

 ここまでの論理の展開に飛躍や暴論が含まれているのは承知の上だし、不確実な情報を元にした妄想が多分に含まれている可能性も高い。しかし、『旅館アポリア』が、今まで指摘されることのなかった、日本に生まれた文化と戦争・災害との関係性を考えるきっかけになったことは、何らかの形で書き留めておきたかった。シンガポール出身作家の作品から、戦後日本文化が負うことになった特有の響きを、私は聞き取ることとなったのだった。 

 

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