I was only joking

音楽・文学・映画・演劇など。アボカドベイビー。

Jim O'rouke/Sleep Like It's Winterを1分ずつ聴く(42:00~43:00)

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死の匂いが増している。そんな気がする。羽虫の最期のような終わり。人間的味付けのない、世界にありふれた生命の停止。小さい音の、長いスパンでの反復によって時間は過ぎ去り、まもなく訪れる無音に向けて待つ間、何の感情も意思もない音の広がりだけが持続する。

 

42:00 これまで幾度も繰り返された、くぐもった冷たいシンセによるfからa#への移動。(41:58~42:00にかけて)

42:01 間髪置かずにf→a#が再度現れる。ディレイエフェクトのよう。

42:06 ぼんやりした音でfが広がる。

42:09 曖昧な音の膜。d#に聞こえる。

42:15 a#のシンセ。

42:17 細い音の鍵盤がgを鳴らす。

42:20 d#の中音域のフィードバック。42:09の音と同じ?

42:25 低音のdが軽い地響きのように。

42:26 fのシンセの音が伸びる。

42:31 高い音の響きがかすかに加わる。音階はぼんやりしているが、dに聞こえる。

42:36 フィードバックっぽいdの音。gも重なる。

42:40 さらにdの音が加わる。

42:44 中音域でfのシンセ。反復されている音だが、少し太く聞こえる。

42:46 fがa#に移動。

42:51 不穏なアトモスフィア、音の層。dに聞こえるが、不協和な印象がある。

42:55 甲高く細い音。蝉の鳴き声を落ち着かせたような。fに聞こえる。

42:59 低音のgが響く。

 

音の変化はあるものの、どれも大変に慎ましい。f→a#の音が一つのリフレインになっているのだが、そこを囲む他の音に周期性があるかどうか。ともかく、この曲はあと80秒で終わる。

 

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Jim O'rouke/Sleep Like It's Winterを1分ずつ聴く(41:00~42:00)

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冷たく薄い音の空気が、あたりを囲んでいる。少しずつ色彩を変えていく低音の響きは穏やかだが、中音〜高音部を漂う冷気は一定の険しさと尊厳を保っている。この曲の題名は「冬のように眠る」。たしかに、そろそろ眠る頃なのだろう。ただ、ここには気怠い惰性が存在しない。厳かに刻まれた音響彫刻は、氷の柱のように、一本の芯を通したまま、眠りの世界を表現する。それは、眠りというよりも、死に近い感覚なのかもしれない。

 

41:00 gの低音。6度マイナーの響きあり。

41:04 低音がdに変わる。

41:05 ゆらゆらした、蝶のように空中を舞うような音が聞こえる。少しずつ音量が大きくなる。(41:28まで持続する)

41:07 中域でfからb♭への移行。この曲で何度も何度も繰り返されるパターン。

41:11 もやっとした音の層がせり上がる。eの音に聞こえる。

41:15 低音のうごめき。d#に聞こえる。

41:25 右チャンネルからfの低音が広がる。

41:30 高いd#のシンセ。冷たい響き。

41:33 aのシンセが重なる。7度特有の、不協和ギリギリで協和に収まる感覚。

41:40 三つほどのシンセが別々に重なる。低音のdと、中音域のf、g。

41:46 右寄りにa#の音が伸びる。

41:50 低音のd#シンセが広がる。

41:53 オルガンに近い音。音程がはっきりしないが、中音域のd#に聞こえる。

41:58 シンセがa#からfへ。すぐにa#に戻る。


音が広がったり重なったりはするものの、節度をもちつつ、淡く淡く、時間が流れている。あと2分20秒でこの曲は終わる。

 

 

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ジャパノイズとノベルゲー ーホー・ツーニェン『旅館アポリア』における「日本戦後文化」ー

 あいちトリエンナーレは色々な意味で話題になったけれども、展示作品で最も評判を呼んだものの一つが、シンガポールの作家、ホー・ツーニェンによるインスタレーション作品『旅館アポリア』であることは間違いないだろう。

 『旅館アポリア』は、沖縄へ突撃する神風特別攻撃隊が最後の夜を過ごしたことで知られる喜楽邸を舞台にして、軍国主義を形成した様々な思想的背景の混戦を映像を中心に示していく作品なわけだが、私が最も強く感じたのは、「これ、ジャパノイズのライヴじゃんか」ということだった。ここでは、あいちトリエンナーレ全体とは関係なく、『旅館アポリア』という単体の作品から感じた「ジャパノイズ」性の内実に迫っていきたい。


ホー・ツーニェン(T04) | あいちトリエンナーレ2019


 ジャパノイズとはなにか?20世紀中盤から後半にかけて誕生した「ノイズミュージック」という音楽のジャンルの中の、日本人による表現を総称してジャパノイズと呼ぶ。西洋の「ノイズミュージック」は、それまでのクラシック音楽を中心とする「ミュージック」の制度否定の意味合いが強く、楽理的なルールを無視することが優先された。また、20世紀初頭のイタリア未来派ダダイズムが「ノイズ」の先祖であるため、ファシズムペドフィリアの露悪的なイメージの再利用や、コラージュ的な音の使用法を大きな特徴としていた(具体的にはスロッビング・グリッスルキャバレー・ヴォルテールといったグループの表現)。西洋のノイズにはそれ相応の文脈がある。対して、日本のノイズミュージシャン、メルツバウやインキャパシタンツやマゾンナのような連中は、西洋の文脈を無視して、とにかくうるさい音、耳障りなデカい音を志向した。西洋の歴史に囚われない、騒音としての純度が高い日本のノイズは海外においてカルト的な人気を博し、「ジャパノイズ」という名称が一般化した。アイルランド出身の音楽研究家、ポール・ヘガティに、ノイズの歴史的・思想的意義を分析した『ノイズ/ミュージック』という本があるが、13章から成る本著のうち、一章が「ジャパノイズ」に割かれているばかりか、「メルツバウ」という章も存在する(特定のアーティストの名前が章立てに使われているのはメルツバウのみ)。西洋の前衛・実験音楽好きにとって、ジャパノイズがいかに重要なジャンルであるかがわかる。

 

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 思わずジャパノイズの説明が長くなってしまった。ホー・ツーニェン『旅館アポリア』は、直接的には全くジャパノイズを参照していないし、作家自身がその存在を知らない可能性すら高い。だが、私はこのインスタレーションを体験して、「文脈がない(からこそ優れている)と思われているジャパノイズにも、日本相応の文脈が存在するのではないか?」ということを、まずはじめに考えていた。
 『旅館アポリア』は、12分ワンセットの映像作品を、会場を移動しながら7セット観るように設計されている。多くの作品が並ぶ芸術祭で長時間の映像を見せることはかなり困難を(作り手にも受け手にも)強いるが、「移動する」ことと「座る」ことを体験の中に織り込むことで、鑑賞者のストレスを大きく減少させているのは非常に巧い。作品を構成する大きな特徴としては、小津安二郎の映画からの引用の多用、声が幽霊のように多重化された書簡形式のナレーションなどが挙げられるが、なにより、一つの映像の終わりに、かならず轟音と建物を震わす地響きが挿入されていることが、鑑賞者の記憶に強く刻まれるだろう。この轟音と建物の震えには、かつて幾度か体験したメルツバウのライヴと同じ感触があった。恐さと楽しさと驚きに同時に襲われるような、言いようのないあの感触に。大きなプロペラが回る中で京都学派の戦争に関する言葉が語られるセクションは、唯一四角いスクリーンが使用されていないもので、文字以外の映像の欠如と「絶対無」という単語の繰り返し、そして回る大きなプロメラの回転の引力によって、ひときわ強烈なノイズ性を発揮していた。優れたジャパノイズと同様の恍惚を、私はそこに感じていた。空襲の最中、あるいは軍機の中において、かつての日本の人々も恐怖とともに似たような恍惚を知ったのではないかという仮説が、頭に浮かんだ。加えて、日本は戦争体験以上に、地震津波を通して轟音と地響きに触れている。日本のノイズがほかの国にはない独特の感触を獲得しているとすれば、戦争と天災の経験の積み重ねがその下敷きになっているのではないか。天災を受け入れ続けなくてはいけないことと、戦勝国であるところの合衆国からの庇護と影響をずっと受け続けてしまったこと、この二重の受動性が、ジャパノイズ独特の被虐的な音響感覚を形成している。そう思うに至った。ザ・サディストという加虐性癖そのままの名前を持つパンクバンドのメンバーが、ノイズをはじめるにあたって、北米のポップミュージシャンの名前と被虐性向を表す名詞を合体させて「マゾンナ」と名乗ったという事実は、ジャパノイズの根底を見事に象徴している。
 

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 小津安二郎映画の引用にも触れざるを得ない。『旅館アポリア』では数多くの小津映画の引用が含まれるが、笠智衆三宅邦子の顔はすべて白くぼやかされて、空虚な印象を観るものに与える。俳優の顔が除かれて、匿名的な存在になる。そこに、死者や幽霊のイメージを重ねることも当然できるが、加えて感じたのは、この演出によって小津映画の「ノベルゲーっぽさ」が浮き彫りになっているということだ。ノベルゲー(正確にはノベルゲーム、もしくはヴィジュアルノベル)とは電子画面上で小説のように話が進むコンピューターゲームのことを指すが、背景から浮き出ているかのように対象人物がアップにされ、かつ人物の表情が乏しいという小津映画に特徴的な構図は、そのままノベルゲーの画面構成にも当てはまる。ノベルゲーの元祖は90年代の『弟切草』と『かまいたちの夜』であると言われている。『かまいたちの夜』は登場人物をすべてシルエットで表現することで、不気味な虚無の匂いを醸し出していた。今回の顔が白くぼやけた小津映画の人物たちは、この初期ホラーノベルゲームを思わせるものになっている(ちなみに『弟切草』の映像には人物が出てこない)。ホー・ツーニェンが指摘するとおり、小津の映画には戦争の色が濃くにじみ出ているし、俳優を空虚な人物に仕立て上げるキャメラにも、戦争の匂いはたちこめている。鎌倉にある小津の墓に刻まれた「無」の文字は、京都学派の「絶対無」と呼応しているだろう。戦争の影響が、虚無化された人物像を通して、遠く90年代以降のゲームまで反響している。そのことを、『旅館アポリア』を通して感じ取ることができる。

 

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 さらに発想(妄想?)を膨らませれば、小津の代名詞的特徴である、異様に低い位置から室内を撮った固定ショットに思いが行き着く。あの低さは、地面に対する意識、つまり地震や空襲に際してしゃがんだ時の視点の位置を反映しているのではないか。あるいは、小津映画やノベルゲーに特徴的な受動性は、ジャパノイズと同様敗戦と被災の経験に由来するのではないか。『旅館アポリア』の轟音を通して観ると、そうとしか思えなくなってくる。椹木野衣は『震美術論』において、日本美術史が形成されない「悪い場所」としての性質の因を、地震地域であることの大地の脆弱さに求めているが、ジャパノイズと小津安二郎(とノベルゲー)を考察に加えることで、より射程の広い、あるいは別の角度から迫った「震文化論」を思考することができる。少なくとも、その道筋は見えてくるだろう。
 

 ここまでの論理の展開に飛躍や暴論が含まれているのは承知の上だし、不確実な情報を元にした妄想が多分に含まれている可能性も高い。しかし、『旅館アポリア』が、今まで指摘されることのなかった、日本に生まれた文化と戦争・災害との関係性を考えるきっかけになったことは、何らかの形で書き留めておきたかった。シンガポール出身作家の作品から、戦後日本文化が負うことになった特有の響きを、私は聞き取ることとなったのだった。 

 

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クロード・シャブロル『野獣死すべし』短評

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クロード・シャブロル野獣死すべし』(1969年・フランス)

(9月13日、新文芸坐シネマテークにて) 

 

絶妙。黄色い蘭を挟んだ男女の気まずさの横で淡々と整えられていく鴨肉。「シチューと肉は別で用意しとけ!」と激昂した野獣男の言葉に呼応するように、丁寧に用意されていく肉の唯物性がどうにも引っかかる。

 

原作は詩人セシル・デイ=ルイスダニエル・デイ=ルイスの父)がニコラス・ブレイク名義で発表したミステリ小説『The Beast Must Die』。息子を轢き逃げで殺された男シャルル・テニエ(ミシェル・デショ-ショワ)による復讐劇なのだが、映画冒頭、浜辺で戯れる黄色いレインコートの少年と猛スピードで飛んでくる黒い車との対比が鮮やかで、物語の中核にあるものを短い時間で伝える手腕にまず観客は唸らされる。


それにしても、映画においてここまで「信用できない語り手」の効果が出てる作品もなかなかないのではないか。円環構造や反復演出の見事さは作り物めいた印象を生むが、本作はその構築性を逆手に取っている。ナレーションによる説明過剰は見えているものの不確かさを示しており、男が脚本家を名乗って嘘をつくように、この物語全体が嘘の脚本としての可能性をちらつかせ続ける。メタ視点的なギリシア悲劇への言及も、赤い文字で執拗に書き連ねられる日記もすべて曲者。8ミリフィルムと唐突なテレビ映像はなんときな臭いことか。最後のエモーショナルなラストに至るまでずっと騙され続けているような不安感を残すその一点において、虚構性の強い映画が強くリアルなものたりうる。そうした構造上の反転した現実感と鴨肉の唯物的な存在感が重なっていくあたり、シャブロルは相当に絶妙なことをやってのけているように思う。

 

 

Once Upon A Time In Hollywoodの短評(というかメモ)

 1975年に犬面のカナダ人が発表したレコード『Tonight's the night』はドラッグ禍で命を落とした二人の友人に捧げられており、酩酊しきった状態で録音されたボロボロの演奏が死の匂いを醸し出す異形の名盤として知られている。1969年8月9日の夜、ブラッド・ピット演じるクリフ・ブースが愛犬に「(LSD漬けタバコを吸うのは今夜だという意味で)Tonight's the night」と言い放つのがNeil Youngへのオマージュだとしたら…。ただの慣用句の可能性も十分あるが、失われたものへのレクイエムという意味合いにおいて『Tonight's the night』と本作は間違いなく通じており、全体に漂うやけっぱちな感じも近い。映像のタイトさで魅せられちゃう(横から縦に移動する長回しとか素晴らしい)から気にならないけどタランティーノにしてはだいぶゆるい脚本だし、ディカプリオのセルフ怒り心頭シーンにもブラピのオンボロ車暴走にも戯画化されすぎなブルース・リーにもヤケクソなルーズさを感じる。そのルーズさが、おきまりの暴力描写を鮮やかななにかに変えている。キッチリしすぎな人が見せたゆるさが、この映画の味わい深さではないか。そんなことを、Neil Youngの8枚目のアルバムを聴きながら思った。

 

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Jim O'rouke/Sleep Like It's Winterを1分ずつ聴く(40:00~41:00)

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40:00 持続するfの音。

40:03 頻出するa#のシンセ。少し音色が変化している?輪郭がぼんやりしているような・・・

40:07 右チャンネルから押し寄せる波のようなfの音。控えめな波。

40:11 全体にふわっと広がる音がある。cに聞こえるが、音階は曖昧。

40:17 f→a#、幾度も繰り返される動き。森の囁きのような音が聞こえる。

40:22 dの音がコォーっと鳴る。少し声を変調させたような音にも思える。

40:25 低いdの音も聞こえる。

40:26 右寄りにgの伸びる音。暗い印象を与える音。 

40:30 ベースのシンセがfからd#へ移動する。

40:38 右側からか細いcの音が聞こえる。

40:41 一度音が静まり、中音域のa#とそれより高いgの音が同時に聞こえる。e-bowっぽいサウンド

40:45 低音の柔らかいfと、シュワシュワとした音。

40:51 中音域のdとfが同時に響く

40:55 低音で輪郭の薄いdの音が俄かに広がる。

40:56 40:03と同じa#の音。

 

控えめな変化が続いていく。このあたりの時間はひたすらに夜の印象を聴くものに与える。「夜の森」というワードが浮かんだが、実際には夜の森は生き物の声で騒騒しいはずなのだ。けれども室内でもない。どこにもない夜の音といった趣がある。(続く)

 

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Jim O'rouke/Sleep Like It's Winterを1分ずつ聴く(39:00~40:00)

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より静かに、静かにと、静寂に向かっていく感じがある。いよいよ終わりが近づいているからか。

 

39:00 持続するfのシンセ、左からは輪郭の曖昧な高いaの音がしばらく伸びる

39:09 a#を基音とした音が揺れながら迫ってくる。低いd#の音もぼんやりと聞こえる。

39:17 風のような音が加わる

39:21 フィードバックっぽいfの音。

39:25 キーボードでa#の音。この辺りの時間帯で頻出する音。

39:29 甲高いcの音が鳴っている。

39:31 残響感の強いdの低音

39:37 高いdの音が揺れながら響く。

39:40 音階の曖昧な音の膜が膨れ上がる

39:43 a#の音が大きくなる

39:49 うっすらと高音のcの音が聞こえる

39:54 cがdの音に変わる。

39:58 fの音が膨れてくる

 

音の変化も比較的少ないが、後半で少しずつ動いてくる。全体的に低音要素が弱めで、曖昧な空気の中を音が移ろっていくような時間。どうやらこのあたりはa#のメジャースケールで動いているらしく、上記に記している音は全てスケールの環境内にある。キーやスケールの変化もあるはずなので、最後まで行ったら改めて確認してみたい(続く)

 

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