I was only joking

音楽・文学・映画・演劇など。アボカドベイビー。

『痙攣』全記事についてのコメント

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李氏くんがほぼ一人で編集した音楽批評誌『痙攣』が先日発売されました(そして早速売り切れ!現在増刷対応中とのことです、偉い)

 

zinekeiren.thebase.in

 

僕もこちらに『THE NOVEMBERSと変革の最低条件』という論考を寄せました。

昨日うちに届いて、勢いで午前中に全部読み終わったので、勢いで全記事のレビューでもしてみようかと思い立ちました。どうやら僕は参加者の中で比較的年長者らしいので、「口うるさい兄」役を演じてみます。とはいえ批判は抑えめにするつもりですが。

あまり時間もないのでどんどんいきます。

 

0.序文(李氏)

ちょっと強引かつ硬い感じもしますが、「ポップ・ミュージックは今後個人史への解体と正史への欲望に大きく分断されるが、人間の生理は普遍的であり、その生理(ここでは「チル」と「暴力」との振り子運動)に着目することで個人性と集団性をつないでいく」という論旨は良いものを含んでいる。何が良いというと、人間生理を「チル」と「暴力」で考えているところ。当然それは暴論だが、「音(楽)と人間の関係性」という全ての音楽関係者(広く解釈すれば全ての人間)に関わるテーマを提出できているかもと思った。

 

1.小沢健二、ジョーカー、BUCK-TICK -生活から生へ-(李氏)

気概は伝わってくる。しかし構成に問題が多い。まず、小沢健二、ジョーカー、BUCK-TICKという三題噺を串刺しにするテーマやワードが実は提示できていない。オザケンとジョーカーはNYで繋がるが、BUCK-TICKは繋がらない。オザケンBUCK-TICKは1995年で繋がるが、ジョーカーは繋がらない。ジョーカーとBUCK-TICKは「弱い人間像と疾走のモチーフ」で繋がるが、オザケンは関係ない。3人の登場人物が一堂に会するフィールドが、用意されていないのだ。また、「疾走」というモチーフは実はBUCK-TICKに関して明記されていない。辛うじて楽曲を形容するときに「疾走感」という言葉が使用されるが、ロックバンドに「疾走感」のある曲なんて星の数ほどあるのであって、BUCK-TICKの特異性として認めがたい。むしろ「全力疾走」してきたと歌う小沢健二の方が「疾走」というモチーフを取り出しやすいのではないか。

『ジョーカー』の読解もかなり不満。映画後半の暴動シーンについて「闘争し逃走するその祝祭性」と李くんは書いているが、あのシーンに出てくる群衆の誰が「闘争」し「逃走」しているのだろう。「逃走」しているのはむしろ暴動から逃げ惑うウェイン一家じゃないか。僕には被害者という仮面を被ったポピュリストと、扇動に乗じて破壊に興じる輩の群れとしか感じられない。あの映画は、そうした構図をアイロニーとして描いている(ことが最後の病院のシーンで示される)ところにギリギリ良さがあるはずだが(個人的に好きな作品ではないけど)。

・・・細かくあげるとキリがないのだが、乱暴にまとめると「面白い批評文は基本的に論理とテーマの一貫性を保っている」ということが言いたいのです。書きたいテーマが沢山在る事はそれだけで才能なので、上記の点を意識しながら書き続けて欲しいと思います。

あと、李くんが今回書いている文章ってほぼ全て「相反するAとBがあって、そのどちらにも与しないCがある」という弁証法を思わせる構成になっていて、他の構成の文章も読んでみたいな(あるいはもっと洗練された弁証法を読んでみたい)。

BUCK-TICKサウンドと歌詞のつながりから「個人の悲劇」と「集団の悲劇」を描くところは可能性感じました。とはいえ、BUCK-TICKは言葉の意味性だけ抜き出すと陳腐になるな・・・

 

2.次世代の「ロック」の在るべき姿-Bring Me The Horizon『Amo』論-(カヤマ)

「ロックスター」の変化というテーマは興味深いし、今までちゃんと聴いてなかったBMTHも聴きたくなりました(今日聴いてた)。ただ、カヤマさんが新しい「ロック」の定義として挙げている「センセーショナルなファッション」「他のジャンルやポップシーンへの興味」「停滞の拒否」「悲痛や孤独の表現」って全て今までのロックに当てはまっているというか、むしろ60年代から続く「ロック」の基本命題ではないでしょうか。ビートルズもディランもボウイもクイーンもニルヴァーナもそういった人たちでしょう。今の「ロックスター」の新規性はもっと別のところにあるのでは、というのが僕の感想です。ロックに対する先行言説は押さえておくと役立ちます。

加えて、「未来への希望」「新しい夜明け」「無限の進化の可能性」という文は紋切り型に過ぎるので、もっと読者に引っかかる言葉選びを考えた方が良いです。

 

 

3.世代と環境を巡って(清家、李氏対談)

インタルード的な短い対談だけど、人の音楽遍歴が知れるのは面白いですね。

 

4.モンタージュ音楽論-Solange小袋成彬、JPEGMAFIA-(♨︎)

ツイッターでも「コラージュ」の定義を巡って議論めいたことになっていたけど、この文章を読む限り♨︎さんが示している見解が混乱の元だと感じる。おそらく♨︎さんは最近の音楽の「断片性」を指して「コラージュ」と言いたいのだろうけど、ここで提示されている例は「コラージュ」とは認め難い。小さい断片をあまた集めて、本来とは別のあり方で繋げ合わせる手法が、美術用語として広がった「コラージュ」の大まかな定義であり、つまり「断片から全体を形成する」のがコラージュである。その一方、Solangeが新作のインタビューで「15分の演奏の中からベストの3分を探すようにした」と語ったエピソードが論考で紹介されているが、つまり本稿で描かれているのは「全体から断片を抜き出す」方法であって、コラージュの手法とは逆立している。むしろこれは「断片化(英語ならFragmentationかな)」とでもいうべき特徴だろう。作品を抽象化する際には細心の分析が必要だし、言葉の扱いにも慎重であるべき。もっと魅力的に議論を展開できたと感じる。惜しい。

言葉の扱いでいうと、モンタージュとコラージュを混ぜて使っているのも良くない。というのは、「コラージュ」がもともと絵画に関する用語で、「モンタージュ」は映画の用語だから、そこには全く異なる歴史的文脈が含まれている。絵画と映画(そして音楽)の構造や歴史性の違いを描きつつ、用語の差異を導き出さない限り、こうした言葉の並列は余計な不明瞭を招きかねない。キーとなる言葉を一つに限定した方が議論がクリアだったと思われる。ただ、扱われてる素材は面白く、広がりのある話だった(だからこそTLで話題になったんだろうし)。

 

5.もっとチルしていたいのに(ヨアケノ×吸い雲対談)

これは面白かった。Aphex Twinの初期のローファイな微細ノイズにラジオ性を見出し、そこから10ccとlo-fi Hip Hopに繋がるのは意外性もありかつ納得感もあり、一つの魅力的な「ローファイ史」を描き出せる予感を覚えた。良いノリが出てて、学びも多かったです。

 

6.Vegyn『Only Diamond Cut Diamonds』レビュー(吸い雲)

吸い雲さんの文が良いのは先行文献を意識しているところで、「今までの人はこういってるけど本当はこうでしょう(orこういう可能性もあるでしょう)」という書き方になっている。面白いレビューは文章に含まれない情報を多数抱え込んでいるもので、だからこそVegynと、あまり繋がりを指摘されてこなかったダブステップの雄Skreamとの連続性を描くことができる。聴取体験を文に含まれているのも良いですね。少し無難な印象はあるけど。

 

7.長谷川白紙『エアにに』(李氏)

だんだん疲れてきた。李くんの文章について先ほど長く書いたので軽くの言及にとどめます。正しいかどうかはさておき、「発散」だけにフォーカスした方が面白かった気がする。

 

8.Metal The New Chapterの可能性(s.h.i、清家、カヤマ対談)

メタルは僕が疎いジャンルなので単純に沢山の固有名とその関係性を知ることができて勉強になりました。面白かったです。ただ、Jazz The New Chapterをなぞるだけの議論になった印象はある。JTNCに対する批評性があればもっと良かった。

 

9.NINE INCH NAILS(not equal)Trent Reznor(李氏)

カニエとクイーンの例が強引すぎて不器用な弁証法になっていると感じた。トレントにフォーカスしても良かったのでは?

 

10.THE NOVEMBERSと変革の最低条件(伏見 瞬)

わたしの文章です。付け加えるコメントはあまりありませんが、インダストリアルと2010年代の関係性をもっと考えた方が良かったなとさっき思いました。文のリズムにも改善の余地あり。

 

11.戴冠 -ビリー・アイリッシュと私-(清家)

個人的なベストはこちら。ユリイカのビリー・アイリッシュ特集のどの文章よりも良かった。「戴冠」というワードセンスがまず素晴らしい。彼女の強みと、背負ったものの重みを一単語で見事に表現している。この言葉が出てきただけで勝ち。女性と男性との不均衡をテーマにしつつ、そこに自らの体験とビリー・アイリッシュ解釈が無理なく結びついている。読解が歌詞によりすぎではという疑問もよぎるが、今回はこれで良かったんだと思う。細密な分析による納得も豊富な知識による位置付けの確かさも薄いが、文章力一本でねじ伏せた感じ。「音楽業界に足を踏み入れ、肌感覚で呑み下さざるを得ない「構造」を悟った。」とか「鈍色の瞳は私たちの感傷の道具なんかじゃない」とか、いちいち文にキレがある。

 

12.「叫ぶ女」(s.h.i)

Roadburn Festivalという存在を恥ずかしながら存じ上げなかったし、そこで行われるキュレーションシステムやメタルにおけるジェンダーの格闘も当然知らなかった(THE BODYやLingua Ignotaは好きです)。大変勉強になりました。

前述したユリイカのビリー・アイリッシュ特集でs.h.iさんが作った「声量から声質へ」というテーゼ、全然ピンときてなかったのだけど、メタルが背景にあることを知って初めて納得した。

 

13.声と革命-GEZAN『KLUE』論-(李氏)

どうしても李くんの論考には厳しめになってしまうんだけど、こちらも「革命」の具体的様相に触れようとしながら、最後はどうにも非実体的な結論に陥った感は否めない。まぁ左翼的な革命論自体がおしなべて非実体的なのかもしれないが。

 

編集後記(李氏)

厳しいコメントも多くなったけど、李くんは自分で発案して、一人で編集して、発送作業も一人でやって(これが地味にキツい!)、短期間で実行に移したのでマジで偉いと思います。僕も刺激を受けました。

これを継続して、いろいろ修正しながら良き本を作っていくのが大切です。前提条件として、質の高い文章が並ぶ必要があるので、ちょっと「おせっかい」してみたくなりました。Twitterとの関係性とか男女の不均衡とか色々考えなくてはいけないトピックは多いだろうが、まず率直に、まだまだ論の程度が低い。俺を含めたみんな、もっと切磋しなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

作詞5(対話記録)

日記代わりに、作詞用に書いたものをちょくちょく載せていきます。

その日の世界に感じたなんらかを、周りくどい方法で共有するべき、という気持ちでいます。

 

詞に歌や曲を乗せたいという殊勝な人がいれば、是非試していただけるととてもとても嬉しいです(一曲作曲いただきました、まじ感謝)。事前の断りは不要ですが、web等で発表する場合は事前にご連絡ください。

→伏見 瞬 sarai.nuh@gmail.com

 

対話記録

 

 

よんどころなき そんじょそこらの 体温がないよ 死んでるよ 

違うそもそも生きてないよ 

氷が上昇してゆく 時間がないな ここには 

ブドウの木を殺しちゃいけないよ 

てんでばらばら とがってぼよぼよ 

 

ソイミルクティのペットボトル 転がして生きてる 

カイコが大きくなったよ そのままずっと大きくなるの 違うよ馬鹿 馬鹿とはなんだ 

兵隊さんが眠ってるよ 刑務所みたい 広い夜空 涙がはじけて 飛んでくのかな 

だけど泣かないで 別に泣いてない 

携帯電話が座ってる 

ロバが闘いを演じているよ 

神様たちが眠っているよ

今日も猫は笑わない 

 

コーヒー色の線を辿って 爆破するとは限らない 

さいの河原 夏の見返り 

オートで応答 

かわいそう 責めないで 

そんな風に歌っても 

今日も君は笑わない 

とがってぼよぼよ  

 

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映画とは重力を書き換える魚である ー山中瑶子『魚座どうし』についてー

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1.

 『魚座どうし』は2019年度の文化庁委託事業「ndjc(New Directions in Japanese Cinema):若手映画作家育成プロジェクト」において製作され、2月後半に角川シネマ有楽町で公開された山中瑶子監督による短編映画だが、「魚座」と聞くと、僕は真っ先にカート・コバーンのことを思い出す。
 

   1994年4月に猟銃自殺したニルヴァーナのフロントマンの遺書は「年老いていくよりは燃え尽きた方がいい」というニール・ヤングの詞の引用で有名だけれど、それ以上に印象深いのは「おれは惨めで、ちっぽけな、何の価値もない、魚座の、救いようのない男だから」という言葉で、ネガティブな形容詞の連続の中に突然星座について言及するその緩急に不意を突かれ、1967年2月20日ワシントン州アバディーンで生を受けた青年の、詩人としての特異な資質が生の終わりにあらためて浮かび上がる事実に奇妙なよろこびを覚えたりもするわけだが、カート・コバーンといえば幼い頃に両親の不仲と離婚を経験し、愛情に対して抱いた空虚と社会に対して抱いた不信感を公式の場でも隠さなかった人間であり、魚座という生まれながらに定められたスティグマは彼にとって「自分ではどうしようもできなかったもの」として家庭の不和と結びついていると思われ、たとえばシロップ16gという日本で結成されたバンドが2004年に発表した「うお座」という曲は、愛に慣れていないが故に身体の結びつきに信頼を持てぬまますれ違っていく男女の関係を、男性の身勝手な視点から幾分か自嘲的に、巧みに構成された少ない言葉によって語る詞を有しており、コーラスで繰り返される「うお座うお座うお座うお座の子」のフレーズから生まれる情感と、シロップ16g自体がニルヴァーナと同じくスリーピースのバンドで、不安定で残酷な社会に居場所を持てない人間の感情を静寂/轟音の落差で表現しているという事実に思いを至らせれば、このバンドのフロントマン五十嵐隆が「うお座」という言葉にカート・コバーンの遺書から得たインプレッションを込めたことは明確であり、以上のように、うお座をモチーフにした二つの印象的なテクストが世に存在し、その二つがひとつながりのコンテクストを形成しているが故に現在、水の中で生きる生物種の名をかざした十二星座の一つには、「親との不和、社会との軋轢、愛情の持て余し、自分自身への信頼の欠如」といった意味合いが影を落としている。

 

2. 
 山中瑶子が、自身の監督した映画に「魚座どうし」という題をつけたのも前述の意味合いを意識した故だと思われる。この30分のランニングタイムを持つ映像作品には主役と呼ぶにふさわしい男女二人の小学生が登場する。二人とも両親との関係が不安定で、落ち着き場のない感情を持て余しているようだ。女の子の主人公格、根本真陽演じるみどり(母親からは「ピンクちゃん」と呼ばれている)は、映画の最初の方こそ楽しそうに見える。父親は家にいないが、学校で友達に快活に挨拶し、母からも優しく接してもらえているように思える。しかし、後半に入ると(おそらく夫との不仲が原因で)不安定な母親が娘の精神を蝕んでいることが判明し、ある事件によって学校でも担任に追い詰められていく(彼女の友達は何の助け船もよこさない)。男の子の主人公格、外川燎演じる風太にも父がいない。母親に新興宗教の勧誘を手伝わされており、そのせいで訪問先でスキンヘッドの男から恐喝を受けたりしている。母親と心を通わせない彼は近所の床屋の男に暖かく受けいられているが、ある日店から借りた傘を返しにいくと、閉店のお知らせが掲げられており、拠り所だった男がいなくなったことを知る。二人の子供が居場所を失っていく過程を交互に描いていくのが本作の大まかな展開であり、『魚座どうし』というタイトルは彼ら二人の近似性を示している。
 しかしながら、真綿で首を締めるような閉塞感が後半の奔流を用意する物語の展開がある一方、本作の撮影と編集は、最初から最後まで重たい意味を無視するかのような奔放さを持続している。僕が確認した限り本作のカット数は72であり、これは30分の映画にとって比較的少ない数字だ。全体は長回し気味に編集されている。持続する撮影時間の中でカメラは上下左右に自在に動くのだが、その動きはブレを強調した激しさではない。中瀬慧によって撮影されたカメラはなめらかな移動で映す対象を変えていく。たとえば、少女二人が小学校の校舎に入ってくるところで横移動して奥の一輪車を映す。たとえば、川沿いにひとりたたずむ少年を映していたのが180度ほど左に旋回して、強い太陽光の侵入を経由してから小学校のロングショットへ切り替わる。こうした映像の動きが本作を特徴づけている。
 また、カメラは対象人物の動作を最後まで捉えない。メモを書く、ご飯を食べる、走るといった行動が完了する前にカットが入る、あるいはカメラが移動する。突然の切断が入る。なめらかな持続とぶっきらぼうな切断は、不自由へと追い詰められていく、ある種古典的ともいえる「少年少女の孤独」を描いた物語を適度な編集で伝える任務をハナから無視しており、時々挿入される音楽(荒れ唸るサックスを中心に置いた、フリージャズ気味に展開する音楽)と共謀しながら、少年期の感情の重たい湿り気に対して、映画という形式が有する、あっけらかんとした、渇いた自由を思いっきり表現している。
 言語芸術や音楽、絵画と異なり、映画は日常世界に偏在している表象(実在の景色や人間など)から限定を受ける芸術形式だ。具体的にそこに在る、目に映っている事象に頼らざるを得ない表現である。だからこそ、物語や感情といった、古来から人間種を捕らえてきた抽象性から、映画は自由になることができる。『魚座どうし』という映画は物語を決して軽視せずにドラマの流れを描こうとするが、映画の形式は物語の重力に引っ張られてはいない。映像は自由に動き回っており、物語が醸し出す感情から少しずつズレていく。そういった主題と形式のズレが、体に鋭い一筋を通すような心地よい緊張を観るものに与える。

 

3. 
 SNSが社会に敷衍し、人々の声が過去例のないほどに大きく響き出したここ十数年の状況でわかったことは、抽象性に対する人間の逃れがたさである。物語と感情の強度を求める態度が「民主的な声」として正とされるようになった。「ネタバレ厳禁」と「エモさ」の氾濫にその態度は示されており、宇野惟正・田中宗一郎が『2010s』で指摘するように、ファンカルチャー(つまり民衆の声)と物語由来のエモーションとの結託が『ゲーム・オブ・スローンズ』最終シーズンでの巨大なバックラッシュへとつながった。
 映画というスクリーンから訪れる光の連続体は極めて20世紀的な視覚装置であり、現在ではスマートフォンに代表されるインターフェース型の、ユーザーの触覚操作によって規定される装置こそが21世紀的な視覚認識のあり方を規定している、という議論がある。Netflixをはじめとするストリーミング型の映像サービスが隆盛を迎えていることも併せて考えれば、映画の役割はすでに終わりを迎えていると感じる向きもあるかもしれない。当然ことはそう単純ではない。
 暗闇の中で観る視覚情報であるという共通点から、映画は古くから睡眠中の夢と結びつけて語られてきた。もはやその語りが時代遅れと感じるほどに。しかし、櫻井武が『睡眠の科学』で言及するように、夢の荒唐無稽さがジクムンド・フロイト的な性的欲望の表れではなく、覚醒中に記憶された情報の処理から生まれる余剰世界の反映であることが睡眠科学の中で明らかにされている点を考慮に入れると、現実表象を歪めてひとつなぎの時間を構成する映画と、現実情報から持続する幻想を作り上げる夢が等号で結ばれるのは、見当違いでもないし古くさい議論でもないし過剰な接続でもない。情報過多による現実感の麻痺症状と、観念の暴走と共に生じる不眠症に対して的確な処方箋を用意できずにいる時代の中で、スクリーンと映画は凝り固まった現実感覚を解きほぐすための解放具としての役割を、今こそ引き受けている。受け取る人間が編集可能なPCとスマートフォンの映像情報とは、異なる役割を担っている。

 

4. 
 『魚座どうし』は映画の開放的力量を思い出させる作品だ。少年少女の日々がいかに過酷であり、家族にも学校にも居場所がなく、先の未来に何の希望を持てないとしても、その現実の重みから別の世界を引き出すことができる。風景も行動も感情も物語も裁ち切って、現実をぶっ飛んだ世界へと書き換えることができる。高速でなめらかに泳ぎ続ける、人間の観念では捕らえられない魚。山中瑶子をはじめとする制作陣が作る世界はそのような魚だ。「親との不和、社会との軋轢、愛情の持て余し、自分自身への信頼の欠如」の中で生きる「うお座の子」達による電光石火の遊戯を眺めるうちに、僕らは家族も社会も自分自身もいない場所へと導かれていく。その場所で、年老いることも燃え尽きることもなく、現実から消えるための方法を知る。
 
 『魚座どうし』が、より多くのスクリーンに、より多い頻度で映される事態を、強く希望する。

作詞4


日記代わりに、作詞用に書いたものをちょくちょく載せていきます。ということをたまにやっていたのですが、11ヶ月ぶりに再開です。

その日の世界に感じたなんらかを、周りくどい方法で共有するべき、という気持ちでいます。

 

詞に歌や曲を乗せたいという殊勝な人がいれば、是非試していただけるととてもとても嬉しいです(一曲作曲いただきました、まじ感謝)。事前の断りは不要ですが、web等で発表する場合は事前にご連絡ください。

→伏見 瞬 sarai.nuh@gmail.com

今日書いたのは、おそらく複数の世界がぶつかってしまうことについての歌だと思います。

 

タイトルは「心とおなじ」

 

近づき耐えがたい

ありありでとわとわの ふわふわでさらさらな

つまんでぴちゃぴちゃ

 

心とおなじひみつを知る そればかり

むくむくのわくわくが山積み よごれて

途方に暮れるひまもなく 僕はゴミになる

 

オレンジの髪の毛だ

前と違う幼い表情 黒のワンピース

驚く声 目を広げる

同じことにムカついて

楽しく話す時間

想像された長い足

水色のセーターの

変な手の振り方 湿度

ぐるぐるとぐるぐるがぐるぐるで

しっかりね

 

なんでこんな風になってしまうんだろう

心とおなじひみつを知る そればかり

そればかり

 

近づき耐えがたい

ありありでとわとわの ふわふわでさらさら

 

 

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Jim O'rouke/Sleep Like It's Winterを1分ずつ聴く(44:00~44:21)

前回はこちら

iwasonlyjoking.hatenablog.com

 

おい!最後の20秒ふわーっとはじまってさらっとフェイドアウトするだけじゃねーか!書くことなんかないわ!

と思いきや、おわり間際に低音が押し出されて一瞬音が迫ってくるのが気になる。残り10秒でフェイドアウトしていくんだけど、その前の5秒で盛り上がる。なんだこれは?最後の吐息?まじで死ぬ時みたいだな。

44:00 gとa# の音が伸びている

44:04 低音が急上昇。基音はf?

44:06 fからd#に下がったように聞こえる

44:11 音が消えていき、残って聞こえるのはd#の音

44:15 残り5秒。無音が続く。

 

さて、最後まで聴き終わって、改めて最初に戻って聴き通してみました。

わかったのは、この44分21秒は「アンビエントという枠組みの中で多様な変化が生じている」時間だということです。アタック音(パーカッションのような)がなく、持続音を中心に構成されているという点を除けば、いわゆる「アンビエント」らしさはありません。「家具の音楽」として聴き流すことのできない変化と情報量の多さを何よりの特徴としています。

例えば、前半はスティールギターによる高音のフィードバックが忙しなく現れて聴覚を圧倒していたけれど、いつの間にかフィードバックギターが消えて、後半はシンセとピアノの音が中心をなしています。高音部の強い倍音が薄まり、低音よりに音が変わっていくのも判明しました。

前半ではc→d→f→e→aと動くピアノの繰り返しが一つの(もの哀しく冷たい)ムードを形成していましたが、16分40秒で音量が極端に小さくなってからは戻ってきません。21分15秒からはg→c→d→eの低めの持続音が30秒単位でループして陽性の印象を作り出し、28分のあたりで音が収まり、そこからf→a#のシンセの動きは29分49秒のところで初登場し、最後まで幾度も幾度も繰り返されます。アンビエント的な反復構造を規定しているのはループされたメロディで、それ以外の要素はどんどん変化しています。ルート音も、最初はcだったのが、途中でa#に変わっています。

連続記事の途中でも同じようなことを書きましたが、この音楽は表面上は穏やかながら、刻々と、ダイナミックに変化している精神の状況をトレースしているようにも思えます。「内面」の自然と「外面」の自然が境目なく連動してある「動き」を形成している。そのようにも感じます。先ほどのように、使用楽器の変化や、反復するメロディを取り出して、曲の中に構造的なフレームを見つけることはできる。けれども、その変化にドラマツルギー的な(起承転結やソナタ形式のような)意図は見つけられません。ただ、「変化」する「時間」がある。人間によって整えられた音楽は、すべて反復によって成り立っています。小さい単位の反復であれ大きい単位の反復であれ、繰り返しの構造から逃れることは不可能に思われます。そう考えた時、「Sleep Like It's WInter」は、もっとも反復の少ない音楽として僕の前に現れます。何よりも「変化」を受け入れようとする音の連なりが、「反復」の構造を利用した「アンビエント」の枠組みの中で生まれうる。そのことが、僕にはとても興味深く感じられます。

 

「Sleep Like It's Winterを1分ずつ聴く」、2月から初めて、結局12月まで続けてしまいました。後半は1ヶ月に1,2度という頻度でしか更新できず、持続の難しさを改めて噛みしめました。アンビエント電子音楽を記述する自分の言葉の貧しさと向き合う時間も頻繁にあり、描いてる時はなかなかハードに感じていました。とはいえ、新しい音源が登場しては消え登場しては消えを繰り返すサイクルをあまり快く思えないものとして、一つのものにこだわる活動ができたのは間違いなく価値があったし、得たものは実は相当大きいのかもしれない。そのようにも思います。

 

僕の記事をshinkaiさんという方が取り上げてくださっています。

 

shinkai6501.hatenablog.com

 

僕の作業を「作曲」の方法に繋げて読んでくださっており、別の作業と関連づけて考えてもらえるのはこの上ない喜びです。

どうやら、多くの方に読んでいただいたらしく、大変嬉しい。

 

なんだか、本のあとがきみたいになってしまった。。。ここまで、読んでくださった皆さん、ありがとうございました。おしまいです。ブログ自体はまたなんか書きます。

 

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Jim O'rouke/Sleep Like It's Winterを1分ずつ聴く(43:00~44:00)

前回はこちら

iwasonlyjoking.hatenablog.com

 

音が伸びやかなのに枯れた印象を覚えるのは、この曲がもうすぐ終わることを知っているからだろうか。ただの澄み切った空気のような、なんの不足もない世界。不足のない世界はすぐに終わる。

 

43:00 低音のgが響き、中音域でdの電子音が伸びる。

43:04 a#が重なる

43:06 fが重なる。しばらく重なったまま同じ音が伸びる。

43:07 小さく中音域でgの音

43:14 輪郭薄い高めのd#の音が聞こえる

43:17 か細い音で高いdが鳴る

43:19 輪郭の曖昧な中音域のaの音

43:21 電子的な中音域cが伸びる

43:24 d#でモワモワした音、低音で曖昧なfの音がほぼ同時に

43:28 cの低音、このあたりで音量が抑え気味になる

43:31 高音寄りのa#のシンセが伸びて、そこに中音のdが乗り合う

43:37 a#が伸びたまま、低音のd

43:43 a#がfになり、再びa#(幾度どなく繰り返されたパターン)

43:48 小音量で高音のd#が聞こえる

43:51 低音の靄が少し押し寄せる、基音はdのよう

43:53 fのシンセが伸びていく、低いdも持続する

43:57 fが少し揺れてすぐに安定する

 

しかし、本当に終わるのだろうか。永遠に続きそうな気もしてきた(あと約20秒)。

 

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LOCUST vol.3 巻頭言「ようこそ、「知らない地元」へ」

僕が編集長を務める批評/旅行誌『LOCUST』の第3号「岐阜県美濃特集」が11月24日(今日じゃん)の文学フリマから頒布開始します。

 

bunfree.net

 

めちゃクールで最高の本が出来たという自負があるので是非ともお買い上げいただきたいところですが、「なんで岐阜?」「私の生活となんの関係があるの?」「そもそもロカストって何?」などの疑問を持っている人もいるかと思います。 

そこで、本の紹介も込めて、副編集長・太田充胤による巻頭言「ようこそ、知らない地元へ」を先行公開します。

僕たちが何をあなたに届けようとしているのか、明快に伝えることができる文章だと思います。巻頭言自体がかなり面白いので、是非お読みいただき、LOCUSTに興味を持っていただければと思います。

 

BOOTH(通販)での予約も開始しております!

locust.booth.pm

 

 

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ようこそ、「知らない地元」へ

 

『LOCUST vol.3』をお手に取っていただき、ありがとうございます。

本誌は「旅行誌を擬態する批評誌」をコンセプトとして、編集部員・執筆者が全員でひとつの土地を訪れ、その土地に関する言葉を立ち上げる試みです。いわゆる「ガイドブック」ではありませんが、たとえば『坊っちゃん』を携えて松山・道後を訪れれば旅の様相が少し変わる、というようなことが起こればいいなと思って作っています。あなたの旅を言葉でハックするための道具として、お役立ていただければ幸いです。

 

 さて、創刊号では千葉内房、前号では西東京を訪れた我々が、今回向かったのは岐阜県です。岐阜県、行ったことありますか? 私にとっては数少ない未制覇県のひとつでした。なにしろ岐阜県、なにがあるのかよくわからないのです。そのうえ山の中にあるので、東京からだとなんだかアクセスしづらそうな感じもする。

 実際のところはどうでしょうか。東京側から岐阜県を訪ねるためには、通常、名古屋を経由します。東京駅から名古屋駅までは、新幹線で一時間半。京都や大阪に比べれば、ずいぶん近いと思います。さて、そこから美濃エリアの中心である岐阜駅までは、実は在来線でたったの二十分しかかかりません。そう、岐阜って、名古屋とほとんど同じくらいには「近い」のです。

 

本誌でこれからご紹介するように、この土地は様々な観光資源を有してもいます。しかし驚くべきことに、この近くて遠い土地に関するガイドブックは、東京の書店ではまったく売られていません。書店の旅行コーナーには必ず、日本全国のガイドブックが都道府県順に並んでいますが、その棚の岐阜県のところに申し訳程度に並んでいるのは、大抵が「飛騨・高山・白川郷」という土地に対するガイドです。

岐阜県は、中央を走る山脈に隔てられ、二つのエリアに分かれています。北側の「飛騨高山」は、世界遺産である白川郷や有名なブランド牛を擁し、最近ヒットしたアニメ映画の舞台にもなりました。一方、南側の「美濃」には、たしかにこれに匹敵するほどわかりやすい観光資源がないのです。そのせいか、美濃エリアは観光産業において黙殺されているといっても過言ではない状況にあります。

 

観光客にとってなんとなく訪れにくい場所、旅行先として選ばれにくい場所を、前号では位置エネルギーの等高線をイメージしながら「山」に例えて議論しました。観光だけでなく、あらゆるジャンルにおいて存在するこの「意識の山」を攻めることが、批評という営みの意義のひとつであるように思われます。

毎号失礼なことを申し上げるようで大変恐縮ですが、岐阜県、とりわけ美濃エリアはこの意味においてもまさしく「山」にほかならない。我々は、この土地を訪れるべきだと思いました。

 

 今号の基調論考を担当した伊藤元晴、およびデザイン班チーフの山本蛸の二名は、それぞれ美濃エリアの出身です。また今号では、岐阜県出身(愛知県在住)のSF作家である樋口恭介さんをゲスト執筆者としてお迎えし、旅行にも参加していただきました。

十代で故郷を離れた伊藤は、この土地のことをあっさりと「知らない地元」と呼んでいます。しかし当然ながら彼等は、同時にこの土地のことをとてもよく知ってもいる。これは、実はとても流動的で不安定な状態ではないかと思います。基調論考にはこうした不安定さがそのまま表出しています。

この不安定さは、彼等以外のメンバーにもいつのまにか感染していたように思われます。とても不思議なことですが、私は今、彼と一緒に歩いた岐阜の町を、まるでそこが「知らない地元」であったかのような錯覚とともに思い出しています。岐阜とは縁もゆかりもない我々の身体が、あのときたしかに「知らない地元」を歩くような感じにチューニングされていた。「群れ」にはしばしば、そういう不思議なことが起こります。

 

本誌の試みの特徴は、すべての執筆者が群れをなして、実際に旅行するという点です。

面白いもので、元々はバラバラだったはずの構成員の知覚や思考回路は、だんだん相互に浸透してきます。それはもちろん、単に全員が似通っていくということではない。だれかの思考と別のだれかの思考が、まるで遺伝子のように絶え間なく組み換わっていくということです。だれかの知覚が別のだれかの思考回路に入力され、結果として、存在しなかったはずの思考が出力されたりするということです。ここで起こっているのは「群れ考える」という試みではなく、「群れ考える」という現象なのです。

したがって、群れの思考はしばしば、いや常に、個体の思考をはるかに凌駕します。

 

 群れの思考を、あなたに接続したいと思います。本誌をお読みのあなたは、これから群れの一部になります。岐阜はあなたの「知らない地元」になります。あなたはもはや、あなた独りで岐阜を歩くことはできない。

 そもそも「ガイドブック」の役割とは、本来そういうものだったのではないかという気がします。

 

太田充胤